第6話
焼きあがったピザが、生々しいチーズの匂いと共に運ばれてきた。由紀子はピザの匂いが生々しいからこそ好きである。あっさりした感じのものは何でも好きではない。食事は風味より雑味が強いほうが食欲を感じる。
「お待たせしました」抑揚の抑えられた橘の声質に比べて、お目当てのピザの上に爛れたチーズに埋め込まれたベーコンや、色を添えるトマトやピーマン、活力に満ちた材料がそれぞれの色を魅せていてピザの方がよほど生きているといっても良い。
「ねぇ、さっきの人は女優の有藤裕美だよね、よく来るのかしら?」遠慮はする方が悪いと思っている由紀子である。
カウンターの奥へ下がろうとする橘を躊躇いもなく引き止めた。
「えぇ、確かによく来られるお客様ですが、女優さんなのかどうかは存じ上げません」橘も由紀子を見やって答える。
急に話しかけられたというのに表情に乏しいのが気に障る。
「そんな」由紀子にすれば映画スターの有藤裕美を知らないなどという方が信じられない。映画の他にもCMやいくつかのTVドラマ。街を歩けばどこかに彼女のポスターが貼ってある。
「あんな有名人よ。気がつかなかったっていうの?」
「はい」橘はそういったが由紀子には、橘が常連客の有藤裕美を気遣って知らない事にしているのだと思った。
例え橘が認めたとしても自分にはそれ以上いろいろ探るような下世話な人だと思われるのも嫌だった。
そのまま橘は奥へと下がっていった。
橘が歩くときに殆ど音を立てないのが面白いと由紀子は思う。生きてる力を最小限に抑制するような省かれた活動力で以って橘は指でバランスよくピザを立脚させていた。だが魅力的な匂いを出して主張しているのはピザであり橘はむしろピザの足として使われたに過ぎない。その橘に自分を運ばせたピザは今は由紀子の手の上で裂かれ弾けて旨みを存分に放出していた。
そして今まで食べたピザの中でどれよりも美味しいと由紀子は思った。そう感じてあげる方が恐らくピザにとっても幸せであろう。
美味しい料理は温かいうちに食べなければ無駄である。好きなことは好きなうちに成し遂げてしまわないと時間と共にその価値が下がる。由紀子は19歳と充分に若かったがその価値には限りがあり、同じように時間が過ぎれば好きなものが好きでなくなるのだと承知していた。時間は片時も止まってはいないのだ。
今日中に歌詞は下書きだけでも良いから曲の最後まで完成させよう。
そのようにまた由紀子は独りごちた。