第5話
有藤恵美は少し寂しそうな様子で、女の子の方は変わらず落ち着いた様子で連れ立ってまた木の扉を開けて外へ出て行った。由希子は彼女たちが行ってしまってから、近づいて話しかけたりサインでも貰えば良かったかと思ったが、程なく白いピカピカの高級車が店の駐車場を出て行くのが見えたとき、その気も失せてしまった。
ペンを握りなおして、詩の創作を続けようと指を組んだが次は古い記憶も神様の言葉も届く程には埋没できずに、しばらく懸命にあがいた後に諦めた。無理にひねり出そうとしても、ろくな詩が浮かんでこなかった。
灰色の世界に自由の色を載せよう...違うなぁ。
弱虫の自分にサヨナラのおまじない、1、2、3...格好悪いなぁ。
振り向かないで、ねぇ明日の私。今の私を思い出さないで...なにか違う。
公園沿いの坂道を上ると懐かしい景色 ルル 紙飛行機 未来へメッセージ... 不調だ。ちょっと休憩しようかな。
組んでいるバンドのために書く歌詞の他にも由希子は自分のソロのギターで曲を作ってもいた。歌手になる事は子供の頃からの夢だった。バントとしてでもいいし、ソロでも構わない。もちろんソロで活動する可能性はバンドのメンバーには言っていない。でももしもソロでならデビューできるチャンスがあればバンドのメンバーと切れても仕方ない。その位の覚悟がないとデビューなんて夢で終わってしまう。由希子はそう考えていた。今度はむしろ有藤裕美を知らない様子だったあの店員の方こそが気になった。有藤裕美を知らないなんて家にTVもインターネットも無いようなズレた生活をしているのかも知れなかった。
真っ白なまま埋まらないノートをぼんやり眺めていると背後から声が聞こえた。
「お水のお代りはいかがですか?」由希子はぎょっとしてペンを落とした。それはテーブルの上をするっと滑って床に落ちた。みるとあの店員が立っていた。「ちょっと、びっくりさせないでよね」驚いた自分への気恥ずかしさもあって由希子は強気に出ているようだった。自分でそう思った。「すみません、勉強なさっていたんですか?」店員はしゃがんでペンをお拾ってくれた。礼も言わずに由希子は「幽霊みたいに音も立てないで近づいてこないで下さい!」へんてこな言い方で早口でまくしたてた。色々言ったが、店員の方は暖簾に腕押しと言った風体で、くらりと由希子の言葉をかわしていつの間にか、由希子のグラスに水を注いでいた。その水をまたぐいっと飲んだ由紀子がそれで落ち着いたとき、店員の胸の名札に、橘と書かれているのに気が付いた。不思議なことに由紀子はその名前がその店員のものでは無いような気がした。直感的にそう思ったのだ。そんな由紀子の視線に気が付いて橘は、その名前と共にこの世に生まれてきたかのような自然さで「橘 優二と言います、ごゆっくりどうぞ」近くで見ると子供のようにきれいで白い肌をしていた。
なんで今、下の名前まで言ったのよ。由紀子は独りごちたが、あの優二という名前の方はとても自然で違和感なく丈を合わせて作ったかのようにその風貌に似合う名前だと思った。