第3話
同じ学校の違うクラスの生徒とか、近所に昔住んでていた人達の顔をパラパラと思い起こしてみた。直感的には知っているのだが、詳しく思い出そうとすると途端に判らなくなる。草原で蝶々を追うようなもので、追い続けてもひらりと届かないのだ。店の奥から、ピザが焼きあがった事を告げる大きな太い声が響いた。
すると店内に香ばしい匂いが重なった。そして、こんがりとした色のピザを手にその店員が由紀子の席へとやってきた。
そしてまた、なんら主張することのない静かな足取りで店員はピザを由紀子のテーブル置いた。
「お待たせしました」
「あの、どこかで会った事ありますよね?」
自分でも驚くくらいに遠慮無く初対面の店員に話しかけていた。
その店員の細い目が一瞬丸くなって、それが由紀子は嬉しかった。
「すみません。僕はよく覚えていないけど、どこかでお会いしたのかもしれませんね」
「そうですか、私の人違いだったらごめんなさい」
聞いてはみたものの、由紀子の方もそれ以上は何も思い出せなかった。
「僕が忘れているだけで本当に会っているかもしれないし。思い出せるといいですけど」その店員はその顎の奥よりももっと遠くから聞こえてくるような声で話した。
「じゃぁ、ピザを食べている間に思い出してみますね」
「えぇ、思い出したら教えてください」
ぶしつけな質問を質問をした自分に驚く事も怪訝に思うそぶりも全く何も見せずにその店員は穏やかに接してくれた。
由紀子は、トマトソースのピザを1ピースつまんだ。溶けたチーズが頼りなく垂れさがってはじけるように、とんでもなく美味しそうな臭いがした。
「うーん!すっごい美味しい!」パリッとした薄いパイのような生地は、焦げる手前で絶妙に焼け上がっている。トマトソースも風味を保ったまま、決して焼け付いた味に変わっていない。
まずい、笑顔がこぼれすぎる!
ちらっと見たら店員は、ふっと口許だけで微笑み、踵を返すところだった。
すぐに、店の奥から聞こえてくる熊のような声に呼ばれてその店員は忙しく店内を動き回りだした。
仕事をさばく手つきは手馴れていて、先ほどの話し方のように丁寧で整理されていた。ピアノの旋律を追うような、彼の指先のきめ細やかさを見ていると飽きないなと由紀子は思った。ここから歌詞ができるかもしれない、そんな風に思いながらも片隅で記憶をたどる。なんだか冬のイメージが度々よぎる。でもそれが何故なのか判らない。しかし何重にもパスワードがかけられたように記憶はブロックされているのだった。知っているけど、知らない人。
これはは歌詞にもなるかもしれないと、由紀子は空いた手でステーショナリーケースを探るのだった。
程なく店内の客は由希子一人だけになった。普段から客でいっぱいになるというようなお店ではないようだ。静かな店内で由希子は歌詞を作ろうとしたが、書こうとすると指が動かなくなった。由希子は思うように行かないとき、よく指遊びをする。ペンを置き、ノートも脇に除けて、テーブルに膝をつき、鼻の先で両方の指を5本とも合わせる。手のひらだけは浮かせたまま、5本の指の先だけを合わせるのだ。そして、中指だけをつけたり話したり、小指だけをつけたり離したりする。合わせた人差し指と親指から作られる楕円形を窓に見立ててみる。その窓に思いっきり顔を近づけて、目の焦点をグッと近視眼的にして覗く。すると、中指と薬指と小指によって囲まれた球状の空間が見える。空間と言えるほどの大きさは無い。
けれど私の視野は、その世界だけしか映らない程に限定されている。指の腹が山脈のように見えたり、大蛇のうねる様子に見えたりする。錯覚だけど、いつのまにか球状の世界がとてつもなく大きな世界に感じられる。
実際にやってみると誰でもすぐに判るが、そのうち頭がくらくらとして眩暈がしてくる。その世界の中から歌詞が浮かんでくる事がある。ちょっと不思議だけど、最初のワンフレーズがどうしても浮かばないときなんかにこの手を使う。
歌の神様の住む世界。この球状の世界をそう呼んでいた。他にも、お願い事をするときや悩み事を聞いてくれる人がいないとき。指を重ねて、歌の世界の神様を召喚するのだった。だから、由希子にとっては儀式でもある。
ここは由希子だけしかいない世界で中には誰もいない。でも誰もいない世界だと決まっているから由希子は独りである事を感じないで済む。自分だけで完結する世界で由希子は神様の声を待っていた。自分の内から神聖な言葉が沸き出ると由希子は信じていたし、これまで何度も神聖な言葉が夜空に突如として浮かび上がる流れ星の尾のように落ちてきた。小さな頃から指の儀式をすると不思議ともらえる神様の贈り物だった。