第1話
澄んだ空気に山々の稜線がくっきりと浮かび上がっている。
おかげで本物の空の青が目に入る。もう12月だ。
由紀子が12月を好きな理由は二つある。
混じり気のない本物の景色が見られる事と、女の子らしいお洒落が出来る事だった。
お気に入りの赤いコートを着て、新しいブーツとマフラーを合わせて街を歩いた。
それだけで何か良い事が起こりそうな気がするから不思議だ。
冬になっても滅多に雪が降らないこの街が本格的に寒くなるのは12月になってからだ。だから風の無い昼下がりなどは暖かく感じる程である。
駅前の商店街を眺めながら特に当ても無く歩くのも気分が良い。
珍しく商店街の裏にまで足を延ばすと坂道に沿った住宅街があった。
閑静な、という程は立派でもない、どちらかと言えば住宅が坂に沿って隙間なく並ぶだけの平凡な住宅地だった。
車がすれ違える程度の広さの坂道は見上げても緩やかにカーブしており先は見通せない。
冬枯れの街路樹と灰色の電信柱が等間隔で続いていた。
昼下がりだと言うのに人影は殆ど無く車も通っていない。
幾つかの小さな町の十字路が見えていて由希子は気分に任せて坂道を登リ始めた。
角の取れていないブーツの踵がリズミカルに鳴る。
カーブする道を角度にしたら120度分ほど回り込んだ頃に1件のレストランが見えた。
レストランと言っても住宅を改装しただけだと直ぐにわかる。
オリーブ色の字で”PIZZA HANS&GRETE”と書かれた看板がなければ見過ごすところだった。[ハンスアンドグレッテ...」
葉の散った数本の櫻の低木に囲まれた2階建ての建物だ。
白い壁や赤い色の屋根はカントリー調に仕上げてある。
駐車場の門扉は開かれており近づくとオーニングが覆うテラスには誰も居ないテーブルが並べられていた。所々に黄色くなった芝がざらざらと無規則に伸びていたがそこそこ手入れが行き届いているのが遠目にもわかった。
由希子は白と水色のすきまに映えたような色のペンキで塗られた木の柵の脇をエントランスに向かって歩いて行った。吸い込まれるかのように。
だとしてもこのような場合にこそ本人はそうは思わないものである。いつもなら知らないお店に一人で入るのには躊躇するほうだ。
しかし今日は不思議と抵抗無く扉の前に立っていた由希子である。
この店構えの地味なところと、やはり新しい服を着て気分が良いからだ。そう思って開く大きな木製の扉は、思ったよりも軽かった。
何か良い事が起こる、と思うほど能天気ではなかった。
しかし、小さな期待感を感じている。
きっとその方が色んな物が、よく見えるものだと由希子は思った。