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◯活

E「転活」

作者: 三田智
掲載日:2026/11/01

【第一部:大手からの誘い】

彼は、商社の課長だった。36歳。中小企業の営業部課長。年収は550万円。ボーナスは年2回。有給休暇は年15日。給与は、この5年、ほぼ変わっていなかった。


商社という職業上、大手企業との付き合いが多かった。取引先の大手電子機器メーカー。大手自動車部品メーカー。大手建設会社。彼は、その取引先たちと、定期的に食事をした。接待ゴルフをした。提案資料を作り、プレゼンテーションをした。


その中で、彼は、何度も「引き抜き」の話を聞いていた。取引先の営業部長から。


「もし、転職に興味があれば、うちの方で話を進めることもできますよ」


その言葉は、毎回、丁寧に言われた。笑顔で。親しみやすく。彼は、その言葉を、毎回、耳に入れていた。


でも、それが「真実」なのか「社交辞令」なのか、彼は、その時点では、判断できなかった。




ある日の接待。大手電子機器メーカーの営業部長との食事。高級寿司屋。


部長は、彼に言った。


「実は、今、うちでも人材不足があってね。君みたいな営業経験のある人材は、本当に貴重だよ。年齢も30代後半なら、うちとしても狙いたいポジションなんだ」


彼は、その言葉を聞いた。


「そんなお言葉をいただけるとは、光栄です。本当にありがとうございます。前向きに考えさせていただきたいと思います」


その返答は、丁寧で、かつ相手を喜ばせるような言い方だった。


でも、その夜、彼は、考えていた。


もしかしたら、これが最後の転職機会かもしれない。


その思いが、彼の心に、重くのしかかった。


30代後半。まだ、転職市場では「ポテンシャル」を見込まれる年代だ。でも、40代になったら、どうなるのか。45歳になったら、どうなるのか。


その「不安」が、彼を動かし始めた。




帰宅した彼は、スマートフォンを開いた。転職エージェントを検索した。


様々なエージェントのサイトを見た。求人票。年収。ポジション。


30代後半向けの求人は、確かに多かった。課長クラスの求人も、多かった。


やっぱり、今が転職を考えるべきタイミングなんだろう。


そう、彼は思った。


翌日、彼は、転職エージェントに登録した。



【第二部:キャリアアドバイザーとの面談】

1週間後。キャリアアドバイザーからメールが来た。初回面談の日程を提案していた。


面談は、オンラインで行われた。


カメラの向こうに、女性のキャリアアドバイザーがいた。30代後半。落ち着いた表情。


「本日は、まず、あなたのキャリアについて、深く聞かせていただきたいと思っています。職歴、経験、スキル、そして今の課長というポジションでの満足度、不満点、これからのキャリアビジョン。全てを整理する時間にしたいと思います」


彼は、うなずいた。


「わかりました」


アドバイザーは、質問を始めた。


「現在、課長というポジションで、何年経過していますか」


「4年です」


「その4年間で、あなたが身につけたスキルは、何だと思いますか」


彼は、少し考えた。


「営業管理ですね。部下の育成とか、予算管理とか」


「なるほど。では、その『営業管理』というスキルは、他の企業でも『ポータブルスキル』として通用すると思いますか。つまり、別の業界でも使えるスキルだと」


「そう…ですね。多分」


彼の返答は、曖昧だった。


アドバイザーは、続けた。


「今回、転職を考えるきっかけは、何ですか」


彼は、その質問に、答えに窮した。


理由は、何か。


大手から誘われたから? このままで本当にいいのか、と不安だから? 30代後半が最後の転職機会かもしれないから?


どれが、本当の理由なのか、彼には、わからなかった。


「えっと…自分のキャリアについて、考える時間が欲しいという感じでしょうか」


その返答は、漠然としていた。


アドバイザーは、聞いた。


「『キャリアについて考える』というのは、具体的には、何を考えているんですか。年収を上げたい、ですか。それとも、仕事内容を変えたい、ですか。それとも、会社の規模を大きくしたい,ですか」


彼は、返答できなかった。


正直に、その全部が「理由」になっていた。でも、どれが「最優先」なのか、彼は、整理していなかった。


アドバイザーは、メモを取りながら、続けた。


「実は、ここが大事なんです。転職理由が曖昧だと、転職先を間違える可能性があります。例えば、年収が高い会社に転職しても、仕事内容が合わなければ、また3年後に同じ悩みを持つかもしれない。だから、まずは、あなたが本当に何を求めているのか、それを深掘りする必要があります」


彼は、その言葉を聞いていた。


でも、同時に、心の中で、別のことを考えていた。


この人は、転職を『深く考えすぎる』タイプなんだ。 でも、実際には、大手が誘ってくれているんだから、それで十分じゃないか。 わざわざ、ここまで深掘りする必要があるのか。


その思いが、彼の耳を、アドバイザーの言葉から、遠ざけていった。




面談は、1時間で終わった。


アドバイザーは、最後に言った。


「次回は、求人票をお見せします。ただし、その前に、今日のヒアリング内容を踏まえて、あなたの『本当の優先順位』を整理して来てください。それが、本当にマッチした求人を見つけるための、最初のステップです」


彼は、うなずいた。


「わかりました」


だが、面談を終えた直後、彼は、そのアドバイザーの指示を、心の中で、無視していた。


優先順位を整理する。


その作業は、彼には、煩雑に見えた。なぜなら、彼は、既に「答え」を持っていたから。


大手の企業で、課長クラスのポジション。年収は、800万円以上。


その「答え」が、彼の心の中に、既に形成されていた。だから、わざわざ、優先順位を整理する必要は、ないと思えた。



【第三部:自分の解釈だけで判断する】

1週間後。彼は、アドバイザーから、いくつかの求人票をメールで受け取った。


求人票の内容:


A社(大手電子機器メーカー):営業課長、年収750万円

B社(大手自動車部品メーカー):営業マネージャー、年収800万円

C社(別の大手企業):営業企画職、年収780万円


彼は、その求人票を見た。


特に、A社の求人票を、何度も見た。


この会社だ。


彼は、そう思った。


なぜなら、A社こそが、食事の時に、彼を誘った企業だからだ。


「君みたいな営業経験のある人材は、本当に貴重だよ」


その言葉が、彼の心に、蘇った。


つまり、彼は、その言葉を、「確定的な誘い」として、解釈していた。


社交辞令ではなく、本気の誘い。そう、彼は、解釈していた。


彼は、メールで、アドバイザーに返信した。


「A社の案件に、応募希望です」


アドバイザーからの返信は、即座に来た。


「わかりました。ただし、応募前に、一度、電話で相談させていただきたいのですが、都合つきますか」


彼は、その日の夜、アドバイザーと電話をした。


アドバイザーは、言った。


「A社ですか。いいですね。ただ、確認ですが、この企業を選んだ理由は,何ですか」


彼は,答えた。


「営業経験を活かせる環境だと思ったからです」


それは,正直な返答だった。


でも,本当の理由は,別にあった。


この企業が,俺を誘ってくれた企業だから。


その理由を,彼は,言わなかった。言う必要がないと思っていた。


アドバイザーは,続けた。


「そうですか。では,逆に,B社やC社ではなく,何がA社の決め手ですか」


その質問に,彼は,答えに窮した。


給与は,B社の方が高い。


ポジションは,C社の方が興味深い。


でも,彼は,そのことを,考慮していなかった。


彼は,答えた。


「直感です。A社の方が,自分に合ってるような気がします」


その答えは,根拠がなかった。


でも,彼は,その答えで,十分だと思っていた。


アドバイザーは,沈黙した。


数秒後,彼女は言った。


「実は,今日の面談の際に,お願いしたことを,覚えていますか。『本当の優先順位を整理して来てください』と」


彼は,その言葉に,はっとした。


あ,やっぱり,忘れていた。


彼は,答えた。


「あ…申し訳ないです」


アドバイザーは,言った。


「いえ,大丈夫です。ただ,重要なので,もう一度,説明させていただきたいんです。転職理由が曖昧なまま,企業を選ぶと,内定をもらった後に,『本当にこの企業でいいのか』という疑問が生まれます。そして,入社後に,『想像と違った』という後悔が生まれる可能性があります」


彼は,その言葉を聞いていた。


理知的には,理解していた。


でも,感情的には,受け入れたくなかった。


なぜなら,彼は,既に,「答え」を持っていたからだ。


A社で働く,という答え。


その答えを,変えたくなかった。




翌日。彼は,A社に応募した。


書類選考は,すぐに通った。


面接は,1週間後だった。


面接の前夜。彼は,ネットで,A社についての情報を集めた。


企業の理念。事業内容。経営方針。競合企業との比較。


全てが,彼の心の中で,「肯定的」に解釈された。


この企業なら,成長できる。 この企業なら,年収も上がる。 この企業なら,自分のキャリアも,磨くことができる。


それら全てが,彼の「自分の解釈」だった。


実は,A社についての情報は,ネット上に,様々な評価が出ていた。


長時間労働の指摘もあった。人間関係の問題の指摘もあった。


でも,彼は,それらの情報を,見なかった。


いや,見たかもしれない。でも,「自分には関係ない」と,自動的に,判断していた。



【第四部:社交辞令の正体】

面接当日。


彼は,A社のオフィスに入った。


面接官は,営業部長と,人事担当者だった。


営業部長は,あの食事の時の,彼を誘った人物だった。


部長は,彼を見て,笑った。


「あ,君か。申し込んでくれたんだ。嬉しいね」


その言葉は,親しみやすかった。


面接は,形式的に進んだ。


職歴。経験。スキル。


全てが,「確認」という形で,質問されたが,本気の詮索ではなく,形式的な確認に見えた。


面接が終わると,部長は言った。


「良い経歴だね。これからの話は,うちの人事の方から,連絡があります」


3日後。キャリアアドバイザーから,メールが来た。


件名:「【A社】面接結果について」


内容は,以下の通りだった。


「この度は,A社の面接にご応募いただき,ありがとうございました。誠に恐れ入りますが,今回は,別の候補者とさせていただくことになりました。ご応募いただいた企業より,このような判断になったとのことです。貴重な時間を割いていただき,大変ありがとうございました。次のステップについて,相談させていただきたく,ご連絡させていただきます」


彼は,そのメールを見て,呆然とした。


落ちた。


それだけだった。


彼は,返信せず,スマートフォンを置いた。


その夜,アドバイザーから,電話が来た。


「お疲れ様です。A社の面接結果についてのご連絡です。残念な結果になってしまいました。ただし,これについて,お話ししたいことがあります。実は,想像していたことなのですが…」


彼は,その言葉に,反発した。


「想像していた,というのは?」


アドバイザーは,答えた。


「実は,A社の営業部長との関係は,『社交辞令』だったのではないか,と思われます。企業が,外部の人材に『転職を勧める』ことは,稀です。むしろ,『社交辞令としての期待値の示唆』に過ぎないことが,ほとんどです。そして,実際の採用となると,内部の人材や,より経験豊富な外部人材が,優先されることが,多いのです」


彼は,その説明を聞いていた。


理知的には,理解していた。


でも,感情的には,受け入れられなかった。


なぜなら,その説明は,彼の「自分の解釈」を,全て否定するものだったからだ。



【第五部:新しい理由の後付け】

彼は,アドバイザーに言った。


「わかりました。では,B社やC社の面接を受けてみます」


アドバイザーは,言った。


「わかりました。ただし,その前に,もう一度,お話ししたいのですが…時間はありますか」


彼は,電話で,アドバイザーの言葉を聞いた。


アドバイザーは,言った。


「実は,転職理由を整理することは,単なる『形式』ではなく,『人生における重要な決断』なんです。A社への応募が,あなたの『本当の希望』なのか,それとも『大手への不確実な期待』なのか,その違いを,本人も認識していない場合が,多いんです。そして,その認識がないまま,転職してしまうと,後悔することが,多いんです」


彼は,その言葉を聞いていた。


でも,彼の解釈は,違っていた。


この人は,『転職するな』と言っているんだ。


それが,彼の解釈だった。


そして,その解釈に基づいて,彼は,決めた。


転職しない。今の会社に残る。




翌日。彼は,転職エージェントに,メールを送った。


「申し訳ありません。転職活動を中止させていただきたいと思います。現職での,さらなるキャリア構築に注力することにしました」


その理由は,彼の後付けだった。


現職での『さらなるキャリア構築』


その表現は,彼が,その時点で,作った理由だった。


実は,彼は,現職で,何をしたいのか,具体的には,考えていなかった。


でも,転職活動を辞める『正当な理由』が必要だった。


だから,彼は,その理由を,作った。




彼は,現職に戻った。


同じ部屋。同じ机。同じ仕事。


でも,彼の心の中には,微かな違和感が,残っていた。


本当に,これでいいのか。


その違和感は,時間とともに,薄れていった。


3ヶ月が経つと,彼は,その違和感を,ほぼ忘れていた。


6ヶ月が経つと,A社への応募のこと自体を,忘れていた。




このパターンが,3年後に,また,繰り返されるだろう。


その時も,彼は,同じように,自分を騙すだろう。


なぜなら,彼は,『人の話を聞かない』からだ。


いや,正確には,『聞いているのに,聞いていない』のだ。


自分の解釈を通して,全てを『フィルタリング』して,『自分に都合よく』解釈するのだ。



【エピローグ】

3年後。


彼は,もう一度,同じ場面に立つだろう。


大手企業からの『誘い』。


『これが最後の転職機会かもしれない』という不安。


そして,また,転職活動を始めるだろう。


その時も,彼は,『自分の解釈』だけで,判断するだろう。


その時も,彼は,『人の話を聞かない』だろう。


その時も,彼は,『後付けの理由』で,自分を正当化するだろう。


なぜなら,彼は,『変わらない』からだ。


『変わらない』のではなく,『変わる必要があることに,気づかない』のだ。


なぜなら,彼は,『自分の解釈』の中にしか,生きていないからだ。


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