この世の理
サークルピラーの登録を終えた安堵感は、地を這うような異様な足音によって打ち消された。
「……何か来る。この音、ただの魔物じゃないよ」
ジーナが短剣に力を込め、身構える。
霧の向こうから現れたのは、悪夢を形にしたような異形だった。
巨大なムカデの節足を持ち、その数十本の脚すべてが毒を帯びたカマキリの鎌と化している。
頭部は肉の剥げ落ちた巨大な牛の骸骨。
全身から紫色の瘴気を噴き出し、体表面は嫌な光沢を放つ油でぎらついていた。
「ワールドボス……【キュマイラス】!? なんでこんな所に……本来は氷の神殿にしかいないはずなのに!」
ミユが悲鳴に近い叫び声を上げる。
キュマイラスは、その巨体に似合わぬ速度で突進してきた。
長い体をくねらせながら、無数の足を目にも止まらぬ速さで振り回しながら進んでくる。
ゲームでは何度も戦っているが、実物の迫力は圧巻だった。
その異様な姿に、全身に鳥肌が立ち、身の毛もよだつ。
「みんな、固まるな!散れッ!」
俺の号令で全員が飛び退く。
だが、キュマイラスの狙いは、一瞬反応が遅れたニアだった。
無数の鎌が、死角からニアを切り刻もうと殺到する。
「ニア、伏せろ!」
体が勝手に動いた。
俺はニアを突き飛ばし、彼女を覆うようにその場へ飛び込む。
直後、背中に灼熱のような衝撃が走った。
「が、あぁぁぁぁッ!」
肉が裂け、骨を削る不快な音が鼓膜に響く。
背中をなますのように刻まれる激痛。
視界が真っ赤に染まり、肺に到達した傷は、呼吸を困難にする。
「ゼロ!?」
「ニア、無事か?」
俺は自分のことより、まずニアの安否を確認する。
ニアは身体中を浅く斬られてはいるが、致命傷は負っていないようだ。
「ゼロ、ごめんなさい!」
「謝るのは後だ。……火だ! こいつは油を纏ってる……火攻めが有効だ!」
俺は血を吐きながら叫んだ。
すぐさまジーナが持ち前の神速で肉薄する。
「招魂者の実力、伝説武器『炎神の息吹』の力を見せてやるよ!」
ジーナはキュマイラスの無数とも言える鎌を避けながら距離を詰めていく。
「いくぜ!」
炎を纏った二振りの短剣が、外殻の継ぎ目に深く突き立てられた。
表面を覆うぬらぬらした油に一瞬で引火し、パチパチと音を立てて巨体が火で覆われ、全身を焼き上げられていく。
肉を焼く嫌な臭いが漂い始める。
キュマイラスは、たまらず怪鳥のような恐ろしい悲鳴を上げる。
止めとばかりに、ミユが呪文の詠唱を始める。
伸ばした両手に赤い光が集まる。
「《プロミネンス・バースト》!」
放たれた火柱が、油にまみれたキュマイラスの巨体に命中する。
より高温の猛火が命中し、悶絶し、暴れる奇怪な巨獣。
キュマイラスは、火に巻かれながら長い体をくねらせ、無数の足を必死に動かして逃げていく。
俺は薄れゆく意識の中で考える。
助かった‥‥‥、だが、何故だ?
ゲームでは、ワールドボスは逃げたりしない。
バトルになったら倒すか、やられるまで絶対に戦いは終わらない。
なのに‥‥‥。
「ゼロ、しっかりして! ゼロ!」
ニアの泣き叫ぶ声がかすかに聞こえた。
出血多量で意識を失った俺は地面に突っ伏したまま、ミユの治癒魔法と、手持ちの止血剤や回復薬を連続で流し込まれていた。
「ゼロ!ゼロ!ごめんなさい」
ニアが俺の体に縋りつき泣いている。
俺はゆっくり意識が戻る。
生きている。
一人なら死んでた。
みんなのおかげだ。
「‥‥‥、だ、大丈夫だ。心配ない、生きてるよ」
俺は全力を振り絞って笑顔を作って見せる。
だが、‥‥‥。
傷が深すぎる。
何とか動けるだろうが、戦闘は無理だな。
俺の頭上ではミユが俺に手をかざし、治癒魔法をかけ続けている。
ミユは先程、高レベル攻撃魔法を放ったすぐだと言うのに、魔力を俺のために使い続けている。
「ミユ、すまない」
「謝らないでください。パーティーの仲間を救うのは当たり前です。ゼロさんも、ニアさんを命懸けで助けたじゃないですか。私はそんな、このパーティーが好きなんです」
「薬が足りない!高級回復薬はこれで最後だ!」
ジーナがミユの言葉を遮るようにして、深刻な顔で叫ぶ。
ふと、ニアを見ると、腕と言わず、足と言わず、体中の切り傷から出血していた。
「俺は‥‥もう、平気さ。それは、ニアに、使ってくれ……」
俺は震える手で最後の一瓶をニアに押し付けた。
「そんなことできない!」
「俺は、大丈夫さ。ニアこそ、ちゃんと回復しないと、今度こそ命取りになる」
起き上がりながら言う俺の言葉に、ニアは半泣きになりながら渋々従って薬を飲む。
「とにかく、一度、安全な場所に退避しよう」
俺の提案を遮るようにジーナが言う。
「いや、ここから逃げたところで高級回復薬はほとんど残ってない。どこかで補充しなきゃ!」
確かに今の俺たちには、補充が必要だ。
俺は痛む体を引きずりながら、ゲームでの知識を思い出しながら辺りを見回す。
そして、森の奥に微かに見える山賊の拠点を指差した。
「あそこの、砦に……備蓄がある、はずだ。そこへ、行こう」
「『山賊ハシムの砦』ですね。あのNPCの拠点の宝箱には、確かに高級回復薬が結構な数あるはずです」
さすがはPvEプレイヤーのミユだ。
俺たちは、馬を曳きながら進む。
俺は脳に響く痛みを堪えながら、極力平静を装って歩く。
しかし、辿り着いた砦は、俺たちの想像を絶する光景になっていた。
防壁、建物は焼け落ち、武装した屈強な山賊たちは、そのすべてが「一刀両断」にされていた。
焼け落ちた建造物からは熱は感じられず、死者の傷口の血は黒く固まり、辺りは静寂が支配していた。
「いくら山賊相手でも酷すぎる……。しかも全員一撃で、……」
ニアが息を呑む。
俺は切り口を調べ、戦慄した。
これは魔物の仕業じゃない。
大剣を扱う高レベルプレイヤーの仕業だ!
「あそこに人がいます!」
ミユが砦の奥、瓦礫の隙間で震えている一人の少年を見つけた。
ジーナが腰の短剣に手を添えながら近づくと、優しく、しかし鋭く尋問する。
「ボウヤ、これは一体どういうことなんだい?」
「……いっ、一週間前……赤い鎧の悪魔が来て……みんな、みんな一瞬で……」
赤い鎧?!
一週間前?!
少年のその言葉に、俺の心臓が冷たく凍りついた。
赤い鎧とは、キロ城塞のダンジョンで出会ったあいつなのか?
それとも戦国時代のように赤色の鎧があいつらのトレードマークで、別の仲間の仕業なのか?
それよりも、俺が一番驚愕したのは、NPCのことだ!
ゲームなら、この山賊NPCたちは15分もすればリスポン(再出現)するはずだ。
だが、一週間経っても死体はそこに転がり、砦は廃墟のままだ。
モンスターはリスポンするのに、人間(NPC)は死んだら二度と生き返らないのか。
やはり、この世界は都合のいいゲームじゃない。
一度失われた命は、二度と戻らない「現実」なのだ。
ミユはそのことに気づいているから、人間(NPC)をキルできないのではないのか?
俺の体をさっきまで悩ませていた我慢できない痛みは嘘のように治まり、代わりに体中から冷や汗が噴き出てくる。
「よし、全滅してるなら好都合だ。回復薬が残ってないか、ゆっくり、じっくり探そうぜ」
ジーナの声が遠くで聞こえた。
俺たちの悪魔の丘での地獄のような戦いは、まだ始まったばかりだ。




