おとぎ話 中編
――あちしは神の使いだ。
だから、人間では到底及ばない力を持っている。
八つの尻尾、寿命の尽きない身体、神通力。
神の座を追われ、全能を失った神様とは違う。
あちしの力に枷はない。
さすがに全能の神様には届かないけれど。
それ以外の相手なら、負けることなんてあり得ない。
現代の神様が、自ら争いに出向くようなことがない限り。
この時代では、あちしは無敵だった。
――自分で言うのもにゃんだけど。
でも、この世界に絶対なんていうものはない。
いつだって例外は存在する。
それが、目の前の男だった。
――『冒涜の獣』と噂される男。
現代に数えるほども残っていない存在。
人の身で、神を殺すに至った老人。
「年は取りたくないものだ。いまのいままで気づかんとは」
あちしが押し入った入口を背に。
老人は、圧倒的な威圧感を漂わせ、立ちふさがっていた。
その姿は、まるでパンドラの箱を守護するゼウスのようだ。
いや、あちしにとってはゼウスそのものでしかない。
ギリシャ神話における最高神。
全ての神々の中で、最も強大な力を持つとされる。
別名は確か「正義の守護者」だっけ。
老人は、そのイメージに相応しい、重厚な風格を持っていた。
「この基地に賊など。初めてかもしれんな。それも」
老人の研ぎ澄まされた視線が突き刺さる。
「猫娘とは。なるほど、長く生きれば面白いこともあるか」
「にゃ~。間違ってはないけど、あちし、猫又ね? 一応」
大事な事なので誤解を解いておこう。
あと、コミュニケーションでなんとかならないか?
なんて淡い期待もある。
「む? それは失礼した……違いが分からんが」
(お? なんか話せばわかるっぽい?)
「いや~、分かってくれればそれで。あと、そこ通してもらえたら猫は満足かにゃ」
「すまんがそれはできん。儂にも立場がある」
ピシャリ。あまりに早い拒絶。
あっというまの交渉決裂だった。
あちしは舌戦に向いてないみたい。にゃ~。
「隠し部屋に入ったか。ならば狙いはグリモワールか?」
「うんにゃ。それって中身? なら触ってないから安心して」
「箱を開けておらんだと? ではお前さん何をしに来た」
めちゃこわだった老人の目が、少し丸くなった。
(ん~。どうしよ……言っていいのかな?)
別にいいか。入ったのバレてるし。
「ちょっと箱の封印を解きに。解呪なんてしておりました」
正直に話せば許してもらえたりとか。
そんな下心を忍ばせて。
「……なるほど。嘘は言っておらんようだ」
老人は、指のない黒い革手袋をはめた。
残念。雲行きは最悪みたい。
「だが、ここを知られたまま、帰すわけにはいかんのでな」
あくまで自然に、老人は紳士のまま。
酷く分かりやすい、無慈悲な殺意をあちしに向けた。
――あぁ、やっぱり。ダメかもしれないにゃ。
猫の本能が告げる。この老人に勝てはしないと。
あちしの身体が、そう訴えていた。
老人の強さを経験から予測する。
その圧倒的な力を、凍りついた身体が認めていた。
だから――。
「―――ッ!」
初めから手加減などしない。
全力で――押し通る!
――『神足通』
予備動作なしで両足に力を流す。
瞬間移動や空中浮遊を可能とする、あちし最大の歩行術だ。
瞬きの間すら遅く、老人へ肉薄する。
そして勢いのままに爪を振り下ろした。
人の身では反応すらできない不意打ちだ。
――そのはずなのに。
あちしのそれが刹那の一撃なら。
老人のそれは神速の幻影だった。
振り下ろした爪は、音もなく黒い何かの盾に阻まれる。
同時に、盾はぐにゃりと形を変えて、あちしの腹部にめり込んだ。
「うあ゛っ――!」
身体の中で、メキメキと鈍い音がした。
あばらかどこかの骨が折れたみたい。
鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
それと同時に、あちしは大きく吹き飛ばされた。
「くっ――」
迫る壁に身体が叩きつけられる直前。
くるりと身体を回し、垂直の壁に着地する。
「器用だな。いかにも猫らしい」
老人は、その場を一歩たりとも動いていなかった。
とっさに飛んで逃がした腹部の衝撃は、それでも重い。
「ハァッ……ハァッ、ハァッ」
痛みに胃がひっくり返りそうだった。
額に汗がにじんで呼吸も整わない。
「――――ッ」
壁に張り付いたまま、瞳に力をこめる。
出し惜しみは無しだ。そんな余裕なんてない。
――『他心通』
神通力で老人の心を視る。
次の行動を探れ。思考の巡りを解き明かせ。
出来なければ、殺される。
「っ! 下から!?」
老人の思考に辿り着いた瞬間。
足元で、それは蠢いた。
「――やっばい!」
神足通を使い壁を蹴って離れる。
その直後、飛び上がった足元に、
《《あちしの影が伸びてきた》》。
「うぁっ!」
刃と化した自分の影が、右足を切り裂いた。
その痛みと衝撃に、身体が空中でバランスを崩す。
(床に叩きつけられる……!)
激痛に耐えながら、腕で最低限の受け身をとる。
逃しきれなかった衝撃が骨の奥まで響いた。
……いまの一撃は不味い、動きが鈍ってしまう。
痛みを通り越して、右足が燃えるように熱い。
確認してみると、ふくらはぎが深く抉られ肉が覗いていた。
「速いな。不意を突いたはずだが……心を読むか猫又」
――影使い。
力の正体に、確かな絶望を感じた。
この場で考えうる、およそ最悪の相性だ。
神通力を使い、どれだけ早く動こうとも。
この暗い地下室に、影がないところなどない。
「はは……せめて操れるのは、自分の影だけにして欲しいかも」
チートか。万能か。ずるだにゃ。
これでは読心術も意味がない。
影は星の瞬きより速く。
悔しいけれど、あちしよりも速いのだ。
先を知ったところで間に合わない。
いまのように、致命傷を避けるだけで必死だった。
全方位を、必殺の凶器に囲まれているようなもの。
これではダメだ。このままでは確実に殺される。
だから冷静に考えて、《《そこにしか勝機はない》》。
あちしがこの男を倒すには、文字通り死ぬしかないんだ。
(――どのみち、このままではもう神足通も使えない)
恐怖と痛みに、がくがくと震える膝を、気力で黙らせる。
追い打ちが来ないのは幸いだった。
他心通で視る限り、追撃はまだ来ない。
確実に仕留める方法を考えているのが視える。
その隙に。
「まったく――人間相手に、ここまでやるのは初めてだにゃ」
深く息を吸い込み、目を閉じる。
力を込めるのは肉体ではなく、己の心。
知の輪という存在の奥深く。
「――――漏尽通」
世界から一切の音が無くなった。
次に痛みが失われ、恐怖が消えていく。
漏尽通とは煩悩や迷いを断ち切り、悟りの境地に至る神通力。
痛みを忘れ、力の限界を超え、そして――身を滅ばす。
あちしが持つ、『二つの隠し玉』、その一つだ。
「……何をするつもりか知らんが。それは許さん」
老人が影を伸ばす。
あちしの影を。デスクの影を。
部屋の隅、あらゆる場所から。
四方では足りず、八方から襲い来る影の刃。
それを、最小のステップで。
最短の距離と最適な角度を持って、その全てを捌き切る。
「なんだと……」
不動の大木のようだった老人の心が揺れる。
微かな動揺と驚き。けれど、まだ焦りは視えない。
再び影が伸びる。
再演。死の綱渡りを、華麗な舞踏へ。
影絵の彼岸を舞台に。
生死の狭間で猫は踊る。
「お主、いったい何をした?」
大木が揺らぐ。木の葉が舞うように。
老人の余裕が崩れ去る。
それを――その瞬間を、あちしは待っていた。
「――神足通!」
切られた右足の傷口が広がった。
だが、いまのあちしにその痛みはない。
老人へと疾る。
刹那の先、その約六十倍もの速度で。
それは仏教で最小単位と呼ばれる一つ。
名を――弾指という。
「ぬぅっ――!」
それでもなお、対応する老人は。
正しく規格外の化け物だった。
避けようとする老人の動きを、わずかに上回った一撃。
振り下ろした爪が老人の肉を裂く。
「くっ――浅い!?」
致命傷を避けられ、老人の身体が消える。
ちょうど入口と反対、角の影から老人が現れた。
「影潜りまでできるとか。本当にチートだにゃ。それ」
けど手ごたえはあった。
肩口から袈裟切りに引き裂いた感触。
老人は、見るからに深い傷を負っていた。
「ぐっ……お主、化け物か」
心外だ。いまのを躱した貴方に言われたくはない。
「それはこっちの台詞だにゃ。躱されたの初めてよ? これ」
なんにしても道は空いた。
別に老人を殺すつもりも、その余力もない。
身体はすでに限界を超えている。
なのでこのまま失礼させてもらおう。
……なんて考えは甘かったみたい。
漆黒の影が立ち上がり、出口の扉が塞がれてしまった。
「そう来ると思ってました。けど無駄だにゃ」
漏尽通を使ったあちしなら、この影を裂けばそれで済む話だ。
だから、そうしようと爪を振り上げて、
「――神理に背し俗理を認め、故に人理は獣理となる」
{He who denies the divine and embraces the profane, his reason is that of beasts.}
背後から聞こえてきた老人の詠唱に、全身が凍り付いた。




