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手は覚えている

作者: 八崎節子


 子供の頃に通っていた習字教室が苦手だった。


「右のはらえが出来てない、やり直し」


 先生は出来ない子には徹底して基礎を繰り返させて何も進ませない人で、つまり出来の悪い私はそのかっこうの餌食だった。


 「永」の文字には習字の基本が詰まっているというけれど、私は最後の一画の右のはらえによく朱の×をつけられた。

 先生から貰ったお手本を見て書いても、何も変わらない。


 展覧会に出して貰えるのは一部の生徒だけで、その子達は確かに流れるように美しい字を記した。だからただ練習をしては×をつけられて帰るたけの時間が、ただただ辛かった。


 親も展覧会に出るどころか×をつけられて帰ってくる子供に、ため息をつくばかりだった。


 半紙を一枚出して文鎮で固定させ、墨汁を硯に出して、筆に含ませ、余分な墨を流しながら筆をほぐす。その過程を行う動きだけは好きだったのに。




 その日は散々だった。何度もやり直しても手は思うように動いてくれない。のたうつような字はどの字も×をつけられ、その中から辛うじて×が少なかった半紙を何枚かだけ、乾くのを待ってから親に見せる為に持って帰る事になった。


 また親はため息をつくだろう。


 夕暮れの中、一人、帰り道を行くと、いつも通る橋に着いた。


 橋の近くには土手から川辺へ降りられる坂があり、特に夏は子供の遊び場になっていた。大人には雨が降った時は行かないよう言われていたけれど、その日の川の流れは穏やかで、川辺まで水深が上がりそうな様子はなかった。


 帰りたくない。


 坂へ向かう時に習字セットが一際大きく奏でる音も、足をより速く進ませた。


 といっても、一人では川を見る他にする事もない。しばらく眺めてから、その辺りにあった石を、掴んだ砂ごと投げた。


 二回、三回。


 紙も、投げられるかな。


 そんな考えが浮かんだ。浮かんだ次には習字セットに手を伸ばしていた。


 一番、気に入らない紙。


 よく出来たと思っていた字に、ためらいなく×が入った紙。


 丸めて投げる事を、しかし私は思い付きもしなかった。その紙の字をよく見つめて、紙飛行機みたいに飛んでいく姿を想像しながら、手を離した。


 愚かな想像は、私の足元に回転しながら落ちた事で裏切られた。


 濡れただけで、小石が引っ掛かったのか、流れて行きもしない。


 何で。


 口にしようとした時だった。


 半紙が丸く、膨らんだ。


 まだ濡れきっていない半紙に、空気が入ったのか。半紙は流れず、どんどん丸を大きくしていく。


 なんなの。


 そう嘲笑うように、赤い×が見えた時だった。


 私は膝をつくと、半紙に拳を叩きつけていた。


 すると。


【ぷにゃり】


 音を文字にすればそんな形だろうか。拳が、よく分からない感触をとらえた。


 この川で遊んだり、お風呂でタオルに空気を入れて遊んだ事もあった。その感触は川でも、空気でもなかった。


 嫌だ。


 拳を上げると、まだ丸く膨らんでいる半紙へ、何度も、何度も叩きつけた。しまいに川底の石を掴んで叩きつけた。


 半紙はそれでも丈夫で、中途半端に、私が叩きつけた所だけがゆっくりと破れていった。丸みはいつしか消えていた。少しずつ流されていき、目の前から最後の一片が消えた時、ようやく私は手を止めた。


 川辺に座り込む。


 何をしてるのだろう。


 涙は次から次へと出た。そう、私は嫌だった。習字が上手くならない事も、こんな事をしても何もならない事も、だからといって私が辞めたいと親に言う事はないだろう事も、何もかもが。


【ぷにゃり】


 どうしてかその時、最初に拳を叩きつけた時の感触が蘇った。


 涙は引いていた。川で手を洗うと、簡単にハンカチで手や服の濡れをを拭き取り、川辺に背を向けた。




 帰った私はすぐに着替えて教室に着て行った服を洗ったので、親がひどく濡れた服に気づく事はなかった。


 あの紙の他の、×がついた半紙を見せて、親の嘆きを聞いたが、覚えていない。


 その後も習字教室にやはり私は何もいわず続け、そのまま、小学校を卒業する時に、中学生向けの学習塾に入るのと入れ替わりに辞めた。


 最後の日、先生はやはり朱で×をしながら言った。


「あなたはもう少し気を抜かないで物をよく見なさい」


 何と答えたか、どう挨拶をして去ったのかは忘れたのに、その発言は正確に思い出せる。




 今は手書きで文字を書くのは配達の受け取りや、メモを取る時くらいだ。何も不安はない。


 字の最後の一画を書く時、川に半紙を飛ばした日、何かを沈めたあの感触がよぎる他は。


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