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水面鏡

作者: 歌宮ゆか

タイトルは「みなもかがみ」です

 疲れた。

 私は古びた丸いテーブルに突っ伏した。網戸にしてある窓から、少し肌寒い夜風が吹いて、私の頬を撫でた。ゲコゲコとやかましいカエルの鳴き声が聞こえる。

「田舎だねぇ……」

 そんなつぶやきが漏れた。

 つぶやきも何も、私がいるのは純然たる田舎なのだが。

 ここは祖母の家だ。訪れるのは何年ぶりだろう。小学生ぐらいのときは毎年のように来ていたはずなのだけれど。

 山間の小さな村。周囲は山に囲まれて、見渡す限り水田で、緑だらけで、虫とその他の小動物がわんさかいる時代に取り残されたような村。この家はそんな村の一部だ。ただ、祖母は村の中では結構な顔役であったらしく、そこそこ立派な家だった。村のはずれにあったが、村唯一の高台にあり、広い庭(という名の空き地)があった。家の裏には大きな池があり、この池が村の緊急用の水として重大な役割を担っていた。この家に限って言うなら、普段から生活用水はこの池の水だ。大きな浄化槽があって、池の水をくみ上げて家に流している。

 村はこの池を大切に扱っていたそうだ。はるか昔から干ばつに耐えられたのはこの池のおかげらしい。上下水道が一応整備された今となってはその信仰のようなものが微かに残っている程度だが。そんなものがない時代は確かに、命の水だったのだろう。

 祖母は、その池を管理というか、奉るというか、そんなようなことをしていた巫女のような役割があったという。祖母が、というよりウチの一族が、か。

 まあ、その巫女的な役割を果たしているのは祖母だけで、母も私もそんなことにはノータッチだ。今時、池の巫女などやってられない。

 しかし、昔は池には近寄るなと散々言われたものだ。巫女としての禁忌だったのか、孫を心配する祖母としての小言だったかはわからない。どちらであっても、私は大切にされていたのだろうと思う。

 そんな祖母が亡くなった。

 私はこの家の整理にきている。祖母の遺品整理だ。

 幸い、祖母の遺品はそこまで多くはなかった。家財道具は私一人では手に負えないので、細々とした日用品や趣味用品、業者には見せたくないであろうプライベートな品の整理をしている。肉体の疲労はさしてないが、どうにも祖母との思い出がよみがえってきて、嬉しかったり、悲しかったり、感情面が忙しくてどっと疲れた。

「こうしてみると、意外と思い出すもんだね、おばあちゃん」

 大きな仏壇の中で微笑んでいる祖母の写真に話しかける。

「あ、水切れている……」

 仏壇にお供えしている水が空になっていた。

「まあ、6月にしちゃ日中は暑いもんね。おばあちゃんも喉乾くか」

 少々、重い腰を上げて、仏壇の茶湯器(ちゃとうき)を手に取った。そのまま台所へ向かう。蛇口をひねるときれいな水が流れ出す。これが裏の池の水だとは信じがたい。濁っているわけではないが、お世辞にも透明度が高いとは言えない。浄化槽の力は偉大である。

 そんなことを思い、水の流れる音を聞きながら、少しぼんやりしてしまった。

「……やっぱ疲れてるのね」

 茶湯器に水を入れて、居間へ戻った。仏壇にお供えしてから、おりんを二回鳴らした。ちーんという残響を聞きながら手を合わせる。こういうのは朝にするものなのだろうか。あまり詳しくないのでわからないが、祖母を悼む気持ちは本物なので許してもらおう。

 茶湯器の水面にかすかに私の影が揺らめいている。

 またぼーっとしてしまった。

 今日はもう寝よう。


 ゆっくりと体を起こす。腫れぼったい瞼を擦りながらため息をついた。

「はあ……」

 あまり夢見がよくなかった。祖母が出てきたのはいいのだが、その祖母が必死になってこちらに手を伸ばしてくる夢だ。もっと穏やかな夢を見られたらいいのに。祖母の遺品整理で思い出に浸りすぎたせいだろうか。

 疲れの取れなかった体に鞭打って布団から抜け出す。顔でも洗えば多少はすっきりするだろう。

 洗面所で蛇口をひねる。今日もきれいな水がたくさん流れ出している。バシャバシャと景気よく水を顔にかけていく。冷たくてちょっと気分が上がりそうだ。

「あれ?」

 顔を洗い続けていると、水がかかってかすむ視界の先で、洗面台に水が溜まっている気がした。栓はしていなかったはずだが。

 目を擦ると、水は普通に排水溝に流れていた。溜まるはずもない。

 気のせいか……?

 いや、気のせいなのだろうけど。

 寝ぼけていたのだろうか。

「うわっ」

 バシャバシャかけすぎたのか、パジャマの前面に結構な飛沫が飛んでいた。

「やっちゃった……もう子供じゃあるまいし、普段と洗面台の高さが違うせ、い?」

 あれ? 普段家で使ってる洗面台ってどんなやつだっけ……

 奇妙な疑問が浮かんできたが、とりあえず先に顔とパジャマを拭いてしまおう。洗面台の隣にあるタオルが置いてある棚に手を伸ばした。ふかふかとはいいがたい、硬めのタオルで水気をふき取る。

「ふう。ちょっとはすっきりしたかな」

 タオルを洗濯かごに放り込み、踵を返した。ふと顔を上げると見慣れないものが目に入った。

 洗面所の入り口の上に何やらお札のようなものが張り付けてある。

「あんなのあったけ? 家内安全とかのお守りかな? でもなんか……濡れてる?」

 お札は天井近くに張り付けてあったので、背伸びしてもよく見えなかった。しかし、ふやけてところどころ破けていることはわかった。

「雨漏りでもしてるのかな……まあ、古い家だしね……」

 朝の身支度を終え、食欲はあまりわかなかったので、小さなおにぎりだけを食べて、また仏壇の前に戻った。まずは祖母に挨拶。仏壇のおりんを鳴らし、おはようと告げる。

「あ、また水なくなってる。入れ替えておくね、おばあちゃん」

 いっぱいにした茶湯器を持って、遺品だらけの居間に戻る。

「よし、今日も整理頑張るよ、おばあちゃん!」

 せっせと遺品を仕分ける作業を開始した。

 集中していたせいか、時間はあっという間に過ぎた。

 ぼーん、という大きな音が聞こえた。居間にある大きな古時計の音だ。時計はぼーん、ぼーんと鳴り続けている。

「もうお昼か……」

 相変わらず食欲はわかないが、流石に何も食べないわけにはいかないだろう。

 台所に向かい、素麺でも茹でようと、大きめの鍋に水を張る。じゃばじゃばと鍋に溜まっていく水を眺める。相変わらず透き通ってきれいな水だ。

 水がいっぱいになったので、鍋をコンロに移した。

 少し雑に移動させたのに、鍋の中の水は微かに波紋を立たせただけで、すぐに鏡のように滑らかになった。

 鍋を覗き込む私の顔が水に映った。

「え?」

 一瞬、鍋の中の私の顔が笑った気がした。

 そんなはずはない。しっかりして。

 何度か瞬きを繰り返すと、鍋の水に映った私も同じように瞬きを繰り返した。

 別におかしなところはない。当たり前なのだが。

「……ちょっと大丈夫? 本格的に参ってきてるわけ? おばあちゃんに心配かけたら申し訳ないんだけど」

 あえて声を出して、意識をしっかりさせる。疲労感に負けるわけにはいかない。

 コンロを点火して、水を沸騰させる。その間にネギを切り刻み、棚から素麺の束を持ち出した。

 ぐらぐら沸騰するお湯に素麺を放り込み、一息ついて顔を上げた。

「あ」

 たった今気づいたが、台所にも洗面台と同じようなお札が貼ってあった。

 そして、そのお札は破れ、湿っていた。



 素麺を胃の中に流し込んだあと、私は居間で作業を再開していた。

 素麺は古かったせいか、あまり味がせず、率直に言えば不味かった。まあ、食べたのだから少しはエネルギーになるはずだ。

 黙々と整理作業を続けた。祖母の部屋から持ち出した様々なものを仕分けていく。

 取っておきたいもの。処分してもいいもの。

 古い着物、明らかな普段着、巫女装束のような儀式めいた服。古い写真、祖父と映っている若かりし頃の白黒写真や鼻水垂らした私と映っている写真。年代ごとの親族一同の集合写真。みんなだんだん大きくなったり歳をとったりして、流れる年月を感じさせる。数は少ないが貴金属。指輪にネックレス。よくわからないお札。祖母が趣味で作っていた小さな人形。一つぐらいは貰ってもいいだろうか。たくさんの本。地域伝承や郷土資料なんかもある。その他、雑多な品々。誰かのお土産らしい置物や誰かとやり取りしていた手紙。昔、私が渡した肩たたき券が出てきたときは涙ぐみそうになった。そう言えば使ってはくれなかったな。大事にするって言ってたけど、本当に大事にしてくれていたらしい。

 昨日も思ったが、祖母はこうして生きていたのだと実感する。人との縁を大事にして、愛し、愛されていたということを実感する。

「おばあちゃん……」

 仏壇の中で穏やかに微笑む祖母を見る。

「あれ?」

 また茶湯器の水が減っている。朝に入れたような気がするのだが、替えたのは昨日の夜だったか? ダメだ。ちょっと疲れてる。根を詰めて作業しすぎた気分転換に散歩でもした方がいい。昨日からずっと部屋にこもりきりだ。少し、外の空気を吸った方がいい。

 そう思って裏口から外へ出た。太陽が高い位置から降り注いでいる。まぶしくて少し目がくらんだ。特に目的地なんかは定めずにぶらぶらと歩きだした。座りっぱなしで固まっていた筋肉がほぐれる感じがする。

 少し気分がよくなってきた気がする。

「あ」

 そうか。この道は池につながってたんだっけ。

 家の裏の道を進むと大きな池が目に入った。池の周囲は木々や土手に囲まれているが、一か所だけ砂地の場所があり、そこが池に最も近づける場所だった。

 そういえば昔はあの小さな砂場で水遊びをしたような気がする。懐かしさを私は無意識にそちらへ足を向けた。

 じゃり、という砂を踏む音がする。思ったよりもずっと静かだ。湿った風が私の髪をかき上げる。

 池は鏡のように凪いでいる。

 私は水際にしゃがみ込んで、水面に顔を近づけた。鏡面のような水面に私の顔が映る。

 一瞬だけめまいがした。急にしゃがみ込んだせいだろうか。

 水面に映る私の顔はめまいがしたにしては穏やかだった。

 うっすらと笑っていた。



「はっ」

 あれ? 私何してた? ここどこだ?

 気が付けば辺りは真っ暗だ。さっきまで明るかったはず。散歩に出てそれから……?

 足が冷たい。くるぶしの辺りまで水につかっている。

「え、なんで」

 急に背筋が寒くなる。いつの間にこんなことに?

 ここに居たくない。

 そんな思いが沸き上がり、私は慌てて家に向かった。濡れた靴が嫌な水音を立てる。

 何かおかしい。何かが変だ。

 せっつかれるような焦燥感に押されて、靴を脱ぎ捨てて濡れた足も拭かずに、居間へ駆け込んだ。

 何か変。ここに居てはいけないと、本能が叫んでいる気がする。

「家に帰ろう」

 闇夜の中を歩いてでも、ここに居るよりましだ。

「ごめん、おばあちゃん。私、いったん帰る……ね……」

 どこに?

 あれ? 私、どこに住んでるんだっけ……思い出せ……ない。

「私、そもそもどうやってここに来たっけ……?」

 おばあちゃんの遺品整理にきた――違う。それは目的で、手段じゃない。電車? バス? 徒歩? 

 記憶がない。ここまでたどり着いた記憶がない。

「なんで? どうして?」

 呆然として、よろめいた拍子に何かが足に触れた。

 日記だ。祖母の。

 これは元からここにあったのだろうか。ずっと整理してたのに気づかなかった? これに?

 何かに導かれるように日記を手に取った。日記には固くクセのついたページがあって、手に取るとひとりでにそこが開いた。

理沙(りさ)の夢を見る』

「私の名前……」

『あの子が水の中で私に助けを求める夢を。苦しそうにこちらに手を伸ばしている』

 パラッとページがめくれた。

『まさか、こんなことになるとは思わなかった。本当にいたなんて。伝承だと、絵空事だと思っていた。水面様(みなもさま)。本当にいたなんて』

「水面……様?」

『はるか昔は人身御供があったと記録があった。池に、水面様に捧げることがあったと。でもまさかこの時代に?』

 息が苦しい。

『このままでは取り込まれてしまう。調べた伝承通りなら、あの子に救いはない。それだけは何としても避けなければ。何とかしてあの子を、これ以上苦しめないようにしなければ』

『調べたが、手掛かりがない。高名な師にも連絡を取ったが、札で遅らせるのが限度だと。池から引きはがせない。ウチにとどめておくのが限界だ。どうすればいい? どうすればあの子を救える?』

 悪寒がする。震える手で、日記のページをめくる。

『運が良ければ、時間が経てば、札の守護が続けば、全て仮定の何とかなるかもしれない、だ。私の力が続く限り、かろうじて守ってあげられるかもしれない。だけど、それは永遠には続かない』

 息が苦しい。

『理沙、ごめん』

 最後のページはくしゃくしゃだった。

「おばあ……ちゃん」

 祖母のいる仏壇を見る。そこには一枚のお札の残骸が残っていた。水が滴り、ぐちゃぐちゃになった残骸が。

 そして、その下には満面の笑みを浮かべた子供のころの私の写真があった。

「ああ……」

 気づいてなかった。見えてなかった。意識したくなかったから?

「私……死んでるんだ」

 おばあちゃんが亡くなり、守っていた力が消えた。そして私はここに現れた。おそらく経年した姿で。

 息が苦しい。うまく呼吸できない。

 札の残骸からこぼれた水が私の写真を濡らした。

 息ができなくなった。まるで水の中にいるかのように、喉の奥がごぼごぼと嫌な音を立てる。

 ああ、これはあの時の感覚だ。昔、池に落ちた時の。

 だめだ。逃げないと。

 しかし、もう体の自由がきかなかった。足が勝手に動き出している。

 家の裏口へ。さっき私が逃げ帰ってきた水跡を伝って、池の方へ。

 体は止められなかった。ゆっくりと、だが着実に池に吸い寄せられている。

 ああ……だめだ。取り込まれるというのが、どんな形なのかわからないが、もう抵抗できない。おばあちゃん……ごめんなさい。

 池の淵にたどり着く。辺りは真っ暗なのに、水面に映る自分の姿はよく見えた。涙がこぼれたが、水面は波紋すら立たないままだった。

 映る顔は笑っている。

 ゆっくりと何かが抜けていく感じがした。

 気が付くと私は星空を見上げていた。揺らめいて見えるのは水の中だからだろうか。

 ああ……ゆっくり沈んでいく。

 目の前が暗くなり、私は深く、深く沈んでいく。


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