失踪した主人失公に、追い出しを図った土地者と公務員との関係が明らかになる。
土地者と言われる元悪党は、現代の社会に根深く入り込んでいた。
(第五話)
十七、血族
そして百人力は「離婚したときのけい子は、これで自由になれると本気で思っていたようだ。一時的ではあるが確かに自由を獲得したといえる。しかし、その後に選んだ裏社会が、けい子をそれまで以上に束縛した。一見自由そうに見えるが、様々な仕来りや掟がある序列社会だ。そんな力関係のなかで益々がんじがらめになり、女ざかりの黄金期を、束縛と引き換えたのだ。それも、けい子自身が望んだことだと、誰もが解っていた。ところがけい子自身は、気が付いたら刑務所にいた。と、いうのが実感だ。そして二十一世紀のこの世であるにも関わらず、戦国時代の暴力支配を未だに崇拝している。暴力で脅せばどんな奴でも、屈服させられるとどこまでも頑なだった。稼ぎ頭だったけい子も、いまの組織からしてみればただの離婚した老婆でしかない。ハッキリ言って、もうお荷物なのだ。この鈍感な用済み女が、組織内の親戚を頼って来るのは仕方ないが、よそ者ごときに、あっちの親戚こっちの親戚または従妹だ兄弟だと、いちいち名をあげてられてはただの厄介者に過ぎない。このままいつまでも放っておくわけにもいかない。と、いうのが、現在のけい子の立場だ。だがのぶよは、厄介者に成り下がったのけい子の立場にまだ気が付いていなかった」
次に「そんな時だ、あの小生意気な従妹がけい子の耳元で囁いた。古川は何もかも知っているんだからねと、またお追従してきた。そんな事は分かっていると反発したが声には出せない。それ以上にのぶよは、古川こそ前科のある男で、警察への通報なんて出来っこないんだから、あんな奴ぶっつぶせばいいのよと、タコが出来るほど聞かされていた。人間は同じことを何度も繰り返し聞かされると、けい子でなくてもつい真実と思い込んでしまう。こうしてけい子は、古川の家に本気で怒鳴り込んだ。自分の過去をどこまで知っているのか、反応を観るためもあった。ところが、古川自身が警察に通報するという結末にけい子自身が狼狽えた。電話を取り出す古川を観て、のぶよの話とは違うではないかといま頃になって覚ったのだ。ところが、嫌みの一つも言ってやろうと思ったのぶよは、既に引っ越した後だ。行く先を知っている者など一人もいない。それでもけい子は、代理戦争に巻き込まれた、自らの窮地を覚ろうとも思わなかった」
唐沢は百人力の、土地者との関係はという質問に「けい子に限らず、この地の土地者は、遠い近いの違いはあるがみんな血族同士だ。だから一族郎党と言われるんだ。そんな団地での僕の立場は、親戚ばかりの集まりに僕が一人ぽつんと飛び込んだようなものだった」と答えた。
続けて「土地者は、この地の範囲を限定的なイメージで言うが、受ける側のよそ者は変なところ全体をこの地と観てしまう。本当はP一人が始めたことでも、軍事大国全体として観るのと同じだ」そう説明した。山田が「その通りだ。変なところに入ったよそ者を、侵入したウイルスのように観ている。それが強烈な排他を生み出すんだ。その拒絶反応を歴史的に観れば、この地と言う独裁国を築いてきた。それが元々あったサイコパスを助長し、差別や虐めで社会を陰湿さと混乱で分断した。更に、暴力団を他所の地域に送り込んでは、人々を支配下に置こうとする。ここの変人たちはみんな血族だから、目配せだけで何もかもが通じ合う。人を陥れようと企んでも、何ひとつ証拠は残さない。紙も鉛筆もスマホなんてものは一切いらないんだ。目配せだけで全てが通じてしまう。そう、証拠さえ無ければ何をやってもいいんだ」と、土地者の本性を暴露した。
そして「この地では、サイコか近親婚のためか、時々説明のつかない病や先天性の障害児が生まれる。その障害を指して、災いの全てはよそ者のせいだと擦り付けるんだ。だから、かつて行われていた人柱は、よそ者を生きたまま土中に埋めていた。これが神への捧げものだ。つまり、全ての悪はよそ者にあるということを、知らしめるための人柱だった。これを逆に言えば、この地の変人たちは自らを尊い存在なんだというのを、他所に鼓舞する目的もあった」突然、沙也加が「この地とは外国だと聞きましたが、皆さんの話を聞くうちに、私も同じ日本の事とはとても信じられないという思いになりました」そう言い始める。すると唐沢が「僕だって、郷里ではいつも聞いていた筈なのに、実際にこの地に来て本当に驚いた。何もかもが噂以上で、本当に外国に来ているような錯覚を感じた」山田が「そんな中でも、友達をつくりこの地の一員として暮らしに溶け込んできた、そんな唐沢さんの人徳に素晴らしさを感じる」と褒めた。唐沢は手を振りながら「いや、そんなんじゃないんだ。僕は生きる術を知らないから、風に柳の如く要領よく狡く生きているだけだ。だから、僕からは友達と思っていても、相手が僕を友達と思っているかどうかは、分からない」と、腕を組んだ。
山田は「はっきりと言わせてもらえば、どんなに親しくなっても、土地者には心を許さないことだ。あの国と同じように。それが、この地の変人を誰よりも知っている者の言葉だと、肝に銘じてくれ」と、訴えた。美智子は速記しながら、山田の言葉には他人に言えない何かを背負っているような気がすると、唐沢が言っていたのを思い出した。
続けて「変な所の土地者には、決められた定めがある」沙也加が「定めって、その定めに従えということですか」と聞く。山田は「これも具体的には分かっていないんだ。だがそう言われている。そこで推測でしかないが、これも手紙に書いておいた」と、美智子を指す。沙也加が「では、その内容を待つしかない。ということ」山田は「すまん」と言うと、美智子が「もう少しです」と、言って「いま、社と連絡しています。あと少しだけ待って下さい」と、画面を見た途端にメールが入った。
メールには「土地者が言う力とは、神様を言っているのではないだろうか。定めとは、その力をもってこの地に富をもたらす事ではないだろうか」と表示された。「これだけでは抽象的すぎる。なんにも理解できない」と紗耶香が言う。
そのあとを山田は「この地では、全国にある常識が通用しない。同時にこの地の常識は、全国では非常識だ。その非常識を全国に波及させた結果が、子供は虐めを大人には犯罪をもたらした。ストリッパーは売春やカツアゲと放火。戸松征雄は殺人と性暴力。畑山順は恐喝やカツアゲに傷害などの暴力団犯罪。組織では幹部だった田原丈夫だが、受刑後の団地では、自治会長を歴任していた。これには曰くを感じる。スーパーのレジ係で、極道を自称する女も売春とカツアゲ。雪道でスタックしている車のカップルを脅して、現金を巻き上げたと自慢する男。ストリッパーことけい子の合図で、俺の女に手を出したなと言っては脅し、有り金全部置いて行けなどと脅した男。スナックの従業員である二人の姉妹は、飯田の近郊にある喫茶店で売春をしていた。と、挙げれば限がない。この暴力団と一族郎党の関係者まで、全部同じ血族なんだ。その血族が、そっくりこの団地に入居している。証拠さえ無ければ何を遣ってもいい、というこの地の常識を掲げて、この国の寄生虫のように君臨している」言葉には、憎しみがこもっていた。
そして速記帳を指して「この事実の全てを記録してくれ」美智子は「なぜ私なのでしょう」と聞く。山田は「この地の実態を、活字として後世に残せる人は、椎名さんだけだ」と訴えた。
続けて「土地者という寄生虫は、宿主である母体まで従わせようとする。紗耶香は「私を襲ってきた男子学生も、私たちを従わせるためだったと言うのですか」すると山田は「その通りだ。これまで語られなかったが、土地者には結束力以上に強いものがある。他人を強引に支配し服従させ従わせる。これが奴らの支配欲なんだ」と、声を荒げた。倉田さんの言う男子学生の親は、組織に見込まれた従順な土地者たちで、男子学生は倉田さんの街に植樹された若い支配欲だ。これが土地者全体の原動力となる」
そして沙也加は「あの時の男子学生は撃退したけど、土地者と関係ありそうなササキのような奴に、事件を担当されていたら私はどうなっていたのかしら」と、不安を言った。山田は「もしもそんな状況になっていたら、今頃は男子学生に暴行を働いた罪で投獄され、その獄中から冤罪を叫ぶ事になる。ところが新聞は、女子高生男子学生を滅多打ちにしたが、冤罪だと主張。なんて文字が躍るだけだ。更には、本人は冤罪を主張しているが、大怪我を負った学生は空手の腕試しにされた、と証言している。次には「通り魔」だとも書かれる。こんなふうに、有りもしない事まで書かれる」そして沙也加を見つめると「これが現実なんだ」と諭した。そして尚も沙也加を見つめる。「さっきはあんた、ペンは剣よりも強と言ったが、続きがあるのを知っているか」と聞く。沙也加は黙ったまま首を振った。山田は「そうだろうな」と呟いたあと「されど、権力には弱だ」沙也加は、あっけにとられたような眼をして「ペンは剣よりも強し。されど権力には弱」と言葉を繋げた。
そのあと新聞記事の話に戻すと「それも二日三日と経つうちに、尾ひれが付いて、呆れた女子空手、ふられた腹いせか。などとおもしろ可笑しく誇張されるのがオチだ。だがそれでもまだ終わりじゃない。ここまで来れば、あとは勝手にデマが独り歩きする。そうなれば、話の尾ひれは更に輪を掛けられ、嘘が嘘を呼び獄中から冤罪をいくら叫んでも、誰も聞いてくれない。そんな状態がいつまでも続くんだ。牢から出られるのは十年後」そう聞くと沙也加は耳を覆って、気分が悪いと言い出した。だが山田は続ける。「もう、こうなればどんなに正当性を叫んでも、世間は報道しか信用しないんだ。味方と信じていた正義派新聞でさえも、最後には警察の見解に従わざるを得なくなる。警察の力とはそれ程までに強大なんだ。これが権力というもんだ」塩沢が、紗耶香を心配して声を掛けたが、大丈夫と言って医務室へ行くのを強く拒んだ。だが顔色の悪さに、隣の席のソファーに寝かせると、文子が脈を取って、お絞りで額を拭いた。このとき塩沢が秘かに「家の子も生きていれば、きっと良いお姉ちゃんになってくれていた」と言ったが、聞きとれなかった。
喫煙所から戻った藤村と山田を指して、美智子が「二人ともこの地を第二の故郷とおしゃっていますが」そう確認する。すると藤村が「子供のころに、親戚に預けられていた」そして、山田に向き直ると「別々の親戚だった」と言う。それを山田が、次を言おうとする藤村を何故か止めた。改めてこの二人を観て取ると、背格好といい顔立ちといい実によく似ていた。
次には唐沢がよそ者への被害について、どうしても言いたい事があると言う。「ちょっと目を離せば盗む。ガソリンもガスも水増し請求する。不動産屋はぽったくり、ハンバーガーなど一見しただけでは分からないものは、内容物に悪戯をする。役所は土地者と組んでいるから、いくら被害を訴えても職員は何一つ事情を知るための質問をしない。だだ聞いて、はい終わりましたと、そんな態度だ。だが、卑劣な土地者の訴えだけは訊く。そこには、よそ者への差別を見せつけるような仕草まである。まるで市役所と土地者は同じ一族だと言わんばかりだ。それがこの地の常識であり、役所職員の務めなんだと自慢しあう」そう示唆した。
そして市役所の方向を指したまま「もう一方は言掛りだ。土地者は、ありとあらゆる言葉を言掛りにする。英語の歌を口ずさめば、外人だと言い。餃子を買えば、中国人だと言い。肉を買えば朝鮮人だと言う。境界知能の土地者のくせに、屁理屈と言掛りだけは長けている。それも子供から年寄りまで、この地と言われる地域全体が、屁理屈と言い掛かりだけにはDNAレベルで手練れいるんだ。この事実を全国の人たちに知ってもらいたい」と訴えた。
ソファーから「私、もう黙っていられない。うけた嫌がらせも差別も仕返しすればいいの」そう言って立ち上がると「復讐よ。屁理屈には屁理屈で、言いがかりには言掛りで言い返す。嫌がらせも差別もやられたらやられたように、いえそれ以上に仕返しすればいいんだわ。何も難しく考えることなんてないのよ。やられたらやり返せばいい。それが奴らのスパイラルに嵌まらない術よ」山田は「確かに沙也加さんの言う通りと思う。ただし、一歩間違えば悲惨なことになるぞ。それでもいいのかね」と返す。紗耶香は「一歩間違えるとは、どう間違えるのよ」と訊くが山田は「ここは敵地だ。警察官も弁護士も敵かも知れない。それがこの地という処なんだ。そうだよ、ここは敵地だ。そんな中で正義を振りかざしても、誰一人助けてくれない。IS国に囚われた者が、いくら正義を叫ぼうとも、なんの意味もなさないのと同じだ」すると沙也加は「だからモンテ・クリストのように、関わった全てに復讐するの」そう言うと、一同を見渡して「大の大人がこれだけ揃っているんだから、どう復讐するかを考える方が、ずっと建設的だわ」と言う。今度は藤村が「沙也加さんの言うことは、痛いほどよく解る。だが具体的に、どう復讐する。言葉だけじゃなく、紗耶香さんを取り囲んだ男子学生に暴力以外で出来る復讐とは、いったい何だろうか」そして文子を観る。「いい復習とはどういう復讐をいうんだろうか」そう言って沙也加を見詰めるた。
まだ答えられない沙也加に、塩沢が「倉田さんは、既に復讐を済ませているんです」そう示唆したが、透かさず「いえ。それは肉体的な復讐のことです。精神的な復讐はこれからの課題なの。今その事で頭が一杯で、どうしたらいいのかまだ答えが出ていません」と一同にペコリと頭を下げた。そこで塩沢は「それでも私から観れば、肉体的だけでも復習を果たせたことに、感激さえ覚えます。私と妻はやり場のない怒りと苦しみから、未だに抜け出すことができません。これからもずっと続くと思います。抜け出す方法を知っている人がいたら、是非とも教えて下さい」と訴えた。誰一人返す言葉が無い。そんな中で文子が再び「復習がなぜ否定されるのか、どうしても理解できない。それどころか仕返しが許されない空気に、理不尽以外の何物でもないことを感じる」と呟いていた。美智子も「行きつくところは、どうしても復習しかないのか」と速記していた。
そこで山田が、この地に残る古い言い伝えを語る。「大阪夏の陣で勝利した徳川兵は、乱取りによって捕らえた女子供を引き連れて帰還する。その一部は甲州街道を帰路とした。ところが、乱取りされた筈の女子供が、行方知れずになるという。その殆どがこの地付近での事だ。その後、女郎や奴隷とされた男の子が、各地の旅籠などで相次いで発見された。それを辿ると、みんなこの地で買い付けられたとされている。以前から、女郎も奴隷も商いとしているとの噂が、この地から全国の宿場に轟いていたからだ。帰還する兵たちは、二人から数人の女子供を引き連れていた。後ろ手に縄で数珠繋ぎに縛り、逃げられないようにした。その縄を持つ一人の兵を、鋤鍬などの農機具を持った百姓の群れが襲う。見た目には百姓だが野良着の下には、かるた胴と呼ばれる、簡素な鎧で身を固めていた足軽だ。覚られないように年寄りを装って話し掛ける。帰還兵とはいえ、結局よそ者は騙せるから、適当な事を言って注意を引きつけるんだ。計画通り後ろに回っていた別の男が、帰還兵に一撃する。こうして女三人を強奪することに成功した」と続ける。
そして「帰る途中、女三人と男の子を連れた、同じような数人の群れに出会った。最後尾に繋がれた十歳ぐらいの子は、下半身が真っ赤だ。それ以上に顔面は蒼白で、激痛に堪え兼ねて嗚咽が止まらない。刀を差した一人の男が、いきなり切りつけた。男の子は無残にも路上の草むらに転がった。すると、駆けつけたリーダー格の男が怒鳴る。馬鹿野郎。銀五十匁を捨てやがってと、斬った男は、どうせすぐに死ぬところだったと、怒鳴り返した。そして死体を指しながら、小僧が暴れるからだと尚も怒鳴り返す。こうして土地者のグループは、それぞれに女三人を引き連れて、この地へと引き揚げた。その一部始終を目撃した若い百姓が、土地者に向かって大鎌を構えていた。だが多勢に無勢ではどうにもならない。そんな中を土地者たちは、意気揚々と通り過ぎて行った。これが現在に続く土地者の血族だ」と、実態を語った。
十八、悪党
百人力「かつては、こんな血族たちの事を悪党と言っていた。元はと言えば山深い部落の賊どもで、旅人を付け狙っての追い剥ぎが生業である。更には、身元がバレないように野営を繰り返しながら、わざわざ遠くの集落を襲った。これが山賊に擬態したときだ。ところが戦国の世になると、時の大名が足軽として抱えるようになった。この地に僅かな所領を与えられたのが始まりで、やがて定住するようになる。賊には近親婚の習わしがあった為、定住すると尚のこと一族の純血は守られた。しかし、生まれて来る子の中には他人を訳もなく忌み嫌う反面、同じ一族の者には異常なほど強い結束を示した。身内には、あれほど強い結束を結ぶのに、他人に対しては異常な敵意を剥き出す。この一つをとっても、先天性の奇異であることが分かる。
そして「戦の無い江戸の世に変わると、土地者はこの地に居ても金にはならないと考えるようになった。そこで、より金の匂いの強い方向へと向かう。土地者には、嗅ぎ分けるための特別な嗅覚が備わっているのか、金の匂い目指して次々に各地へと散らばって行った。おかげで手狭となっていたこの地での人口は、飽和状態になることは決して無かった。普通であれば分家別家によって、枝分かれする度に、地所の目減りは避けられない。だがこの地では近親婚のために、直接的な目減りは無かった。よって宗家本家の資産はそのまま守られた。他にも守られたものは、極端な排他主義と病的なよそ者蔑視の風習が残された」
美智子に渡した手紙の一部を、百人力に表示させる。そこには土地者の前身である、野武士の様子が記されていた。「まだ放浪生活をしていた野武士の集団を、領民たちは人食い族と呼んでいた。だが藩では、人食い族を賊と改めた。それは、賊の野営跡から子供の焼けた骨が見つかった事に由来する。やがて土地者へと擬態するこの野武士は、子共も女も手あたり次第拉致した。奉行は人別帳を頼りに、行方知れずとなっている子供の所在を捜索した。すると、いくつかの集落でそれぞれ数人の子供が、いなくなっていることが判明した。見つかっている子供の骨に対して、見つかっていない子供の方が遥かに多い。そこで藩は、人食い賊は生きた子供を、まだ引き連れているものと断定したのだ。十人の鉄砲隊と十人の弓隊を編成して、発見された野営地を中心に山狩りを行うことになった。野武士は十五人から二十人と思われる。甲冑で身を固めた騎馬隊が総勢十人、それぞれ馬で青崩れ峠に続く山道を走らせた。その先は遠く遠州へと続いている。騎馬隊は本道を先回りして、野武士を挟み撃ちにする作戦だ。そのためには、野武士たちが山を下りる前に、先回りしていなければならない。何れにしても、野武士には大勢の子供が足手まといで、それほど早くは進めない筈だ。それでも憂慮した藩主は、峠の最寄りに在る藩へと応援を要請していた。後を追う二人の鉄砲頭は狼煙で現在地を報せ、先行している騎馬隊は青崩れを超えてでも南下する手はずだった。だが遠州にまで逃げ込まれては、もう打つ手がない。足軽頭は、逃げていく足跡を観て判断に迫られた。野武士は何故かここで二手に分かれたのだ。枯れ葉が積もり始めた晩秋の頃だ。ここから先は、枯れ葉が野武士の足跡を覆い隠している。追われていることを知った野武士は、体力のある年長組と、まだ幼い年少組とに分けていた。体力のある子は当然足も速い。重い鉄砲や槍を担いだ足軽の追跡からも、逃げ切れるものと読んだに違いない。幼い子は人質にして、大きい子を売り捌けば、それなりの稼ぎにはなるはずだった。と、足軽頭は判断した。それなら、先ずは足跡の大きさを知らなければならない。
そこからの山道は二手に分かれる。そこで積もった落ち葉を慎重に払ってみた。しかし、戦国の世が終わって既に久しく、判断には迷いが出る。右なのか左なのか、落ち葉の下に残る足跡など、どれもこれも同じようなもので、決め手がない。そこで山に詳しいとされている、足軽の三人を呼んで判断させた。理由は、体力のある子は山道を登りの方向に進む。体力のない子は下り傾向の道へ進むとした。このときの足軽頭は、すでに判断を誤っていたのだ。せめて斥候として、山に詳しい三人を下り傾向の道へと進ませていれば、被害は最小限に防げた筈だった。しかし、斥候を出すことに決断しなかったため、鉄砲隊は一列縦隊となってそのまま登り方向へと進んだ。その横っ腹に矢を射かけられたのだ。山の斜面上部から、葉の落ちた冬枯れの山は狙い撃ちがきく。しかも火縄の準備に時間のかかる鉄砲は、まだ打ち返せていない。その間に五人が倒された。後続の弓隊が斜面の上に向かって矢を射るが、放物線を描いて力なく、野武士どもの手前に落ちるだけだ。そのとき六人目の鉄砲隊が倒された。弓隊はその後ろに迫っていた。その一人が一の矢を放った。すると見事、上から構えている野武士の一人に命中した。だが、傷は浅いのか、野武士は刺さった矢をへし折ると、仲間の後方へと見えなくなった。そのあと二人の新手が斜面の上から弓を構えて、残りの鉄砲隊を狙っている。この距離では間違いなく弓隊の一人は射倒されるところだ。その瞬間、倒れたのは上で構えていた野武士の一人だった。同時に鉄砲の発射音が轟く。この時間的なズレは、鉄砲と標的の距離が遠い事を示していた。暫くすると、そこへ熊の毛皮で身を包んだ猟師が現れた。銃身に火薬らしきを詰めながら、大木の影に身を潜めると、銃口に向かって口から弾を弾き出す。そして次には構えた瞬間、二発目の発射音が轟いた。もう一人の野武士が、尾根沿いにある雑木の中で、もんどりうって倒れる。こうして猟師は瞬く間に二人を倒していた。
倒した野武士が動けないことを確認すると、枯れ葉の散る空に向かって、ユキとソウイチロウの名を叫んだ。この瞬間、野武士たちは、さらってきた子供と猟師との関係を覚った。更に、これ程怖いものはないと更に覚ることになる。尚も猟師は、三発目の火薬を入れながら、次の弾を口に咥えて標的を睨みつける。野武士は、逃げようとして枯れ葉の斜面を駆け登る。が、急斜面には二度三度と足を取られ、登り切ることができない。ついに弓を投げ捨てると、四つん這いになって登ろうとする。猟師はそこに狙いを定めた。その瞬間、隠れていた他の野武士たちが声を上げて放棄したように逃げ出す。最後尾になった四つん這いの野武士が、三発目の発射音とともに崩れるが、明らかにかすり傷だ。ところが滑りやすい窪地に身を置いたのが災いしていた。野武士は、滑り落ちながら周囲の枯れ葉を巻き込んで更に下へと加速する。それを見捨てたのか、生き残った数人の野武士たちは、尾根伝いに山頂へ向かう。猟師は木の影から既に四発目の狙いを定めていた。だが、射程を超えているのではとの懸念があった。狙われている野武士は、いかに鉄砲の名手でも、ここまでは届くまいと高を括った。そして雑木の中に、遥か下の猟師を眺める。確かにこれだけの距離があると、視界を邪魔する梢さえ弾道の障害物となる。猟師はもう一度娘と息子の名を叫んだ。その声に祈る様な響きを感じた。そして四発目の発射音が山中にこだまする。梢から落下する枯れ葉が一枚だけ宙に舞った。そして静寂が戻る前に、ここまで届くはずがないと、高を括っていた野武士が声も無く倒れた。その野武士は二軒ほど尾根を転がったかと思うと、立木に引っ掛かったあと姿が消えた。おそらく尾根を越えて、その向こう側へと転落したのだろう。数えるとまだ五人の野武士が次々にその尾根を越えて、向こう側の斜面へと消えていく。
猟師はそれを追って、尚も駆け上がる。すると足軽頭の合図で続けとばかり、鉄砲隊弓隊がその尾根を目指した。それを観た猟師は慌てた。今ここで邪魔をされては、さらわれた子供たちの行方が分からなくなると、そのことを心配したのだ。四人の鉄砲隊はまだ射程外なのに、自分勝手に次々と発射する。それは号令する鉄砲頭がまだ追い付いていなのだ。実戦を知っている野武士どもは、その様子を観てニタニタと笑いながら尾根へと散っていった。怖いのはあの猟師一人だけだ。奴はあの重い鉄砲を持って獣道わ登る。すぐに体力が尽きて動けなくなるはずだ。とにかく仲間のいるところまで逃げ切れば、あとは長次郎がなんとかしてしてくれるとの計算があった。
丁度その頃、尾根をもう一つ越えた山の中腹に、その長次郎がいた。頭と呼ばれる大男と共に、見下ろす尾根の位置に仁王立ちしていた。長次郎の肩には、なんと最新式の鉄砲が掛かっている。あの猟師が持っているものは先込め式の古い型式だ。それに対して、長次郎のものは元込め式と言われ、気爆薬を使っていた。次までの発射間隔が劇的に早くなったのが特徴だ。
頭に言わせると、長次郎は元々鉄砲鍛冶を率いる武家の嫡男だった。そこで新型銃の開発にも成功し、名実ともに将来を約束されていた。長次郎の人生において怖いもの無し。言わば最強の絶頂期にあった。ところが鉄砲鍛冶の一人を、なんとその長次郎が殺めたというのだ。すると、殺めた鉄砲鍛冶こそ、元は名のある武家の出でだった。戦の無い太平の世で、家は困窮し食べる物にさえ不自由するという有り様だ。言わば最弱の時だった。だが親戚衆が承知しなかった。遺族を立てて仇討ちを訴え出たのだ。
長次郎は、その日から仇敵として狙われるようになり、野武士へと身を落としたという。この長次郎が聞いた銃声の様から、仲間の野武士たちは、大勢の鉄砲隊に追われていると判断していた。まさか鉄砲隊が我々の討伐に乗り出したとは、これで藩は本腰を入れのだと覚った。この事実にもっと驚いたのは頭だ。でかい図体のわりには、時々意気地のない男だ。だから実際には弟の権八の方が実権を握っていた。だがこの長次郎は、あの残忍な権八が大嫌いだった。あの分かれ道で歳の小さな子たちだけを連れて、先行しているのはその権八と、いつもの二人だ。この二人は権八以上に残忍である。長次郎はそれを心配した。あの三人が揃えば足手まといの子に、何をするか分からないからだ。大切な売り物を谷底へ突き落すなんてことをされたら、俺たちの今年一年の収穫は無くなる。この頼りない頭は、その事が本当に解っているのだろうか。いつかの年のように山を切り開いての、畑仕事なんてものは絶対にまっぴらだと思った。それにこんな気違いどもと、いつまでも一緒にいるわけにはいかない。当分の路銀ぐらいは蓄えているが、仇敵の追跡を振り切るにはまだまだ心細い。それにいつかは永住の地も欲しいのだ。それを権八なんかに邪魔されたくない。分け前の殆どはこの頭と権八が持っていくという。せめてその半分だけでも取ることができるなら、多分追跡を振り切って、どこか遠くに目指す永住の地を手に出来ると、長次郎は夢にまで見ていた。
そこへ尾根を駆け上がって来る野武士たちの姿があった。一人また一人と続いて来る。血相が変わっている事が、目の良い長次郎にはよく分かった。続いて来る三人も顔面は蒼白だ。持っている筈の弓まで見当たらない。長次郎は、まさか弓を置いて来るとは「このばかやろう」と、まだ聞こえる筈もないのに怒鳴っていた。更に続いて来る筈の仲間四人の姿が、いまだに見えない。その瞬間、長次郎はあることに気が付いた。それは鉄砲の発射音が、連段撃ちのように四発立て続けに聞こえていた事だ。どんなに早くても、あの様な間隔では撃てる筈がない。やはり四丁の銃が四人を倒したのだろうか。と、それ以上を考えようとしなかった。
積もった落ち葉の、獣道を駆け上がってきた野武士は、息を切らして盛んに何かを訴える。頭は何を言っているのかと、要領を得ない。長次郎が一人を捕まえて、後続の四人はもう助からない事をやっと聞き出した。頭は、なぜ助けなかったと激怒するが、今はそんな事を言っている場合ではない。それよりここに居る五人が恐れる、あの猟師が気になっていた。奴はいったいどこに身を潜めているのか。こうしている間にも、こっちの様子を窺っているに違いないのだ。先ずはこの五人を落ち着かせ、取り敢えず残り四張りの弓でを陣を構えた。
その時尾根下では大木を背に、猟師がすでに忍び寄っていた。まだ弓の直射では射程外である。しかし射角をつけて射れば、猟師は斜めに落下してくる矢からは逃れられないはずだ。それを読んだのか、猟師は枝の鬱葱としている茂みを選んで身を隠した。野武士の一人が、遠くからこっちを指さしている。次の瞬間、放たれた四本の矢は思惑どおり枝に引っ掛かり、軌道を逸れて落下する。だが内一本が生い茂る梢をかいくぐり、偶然なのか猟師の太ももを掠めた。当たり所が悪かったのか、鮮血がポタポタと流れる。まさか動脈にまで達したのだろうか、とても止まりそうにない。猟師は、身を翻すと元の大木の幹を背にした。毛皮を結んでいる麻縄を解いて、傷口を止血する。そして尾根に向かって銃を構え、右から二番目の野武士に狙いを定めた。こいつの矢だと思った訳ではないが、躊躇うことなく五発目を発射した。狙われた野武士は一瞬の時間差をおいて、長次郎の脇で突っ伏したまま息絶えた。後を追うようにして次の発射音が轟く。長次郎は肩の鉄砲を悠然と構え、照準を猟師の心臓に合わせた。次の六発目を用意するまでには時間的には十分な余裕がある、筈だった。猟師が持っている古そうな先込めの火縄銃に、火薬を入れると次には弾を込める筈だが、その様子がまだ観えない。代わりに、小さな紙包みのようなものを銃口から入れる。間髪を入れず弾みをつけて口から弾き出した。その瞬間が、目のいい筈の長次郎は観えていなかった。
銃身の中で鉛の弾が転がる。薄紙で包んだ火薬を押し込みながら、最後に尾栓と呼ばれる筒元に当たる。この瞬間重い鉛の弾が、掌に僅かな振動を伝える。これを照準を合わせる合図としていた。長次郎は、これだけの距離が有ればまだまだ射程外だ。猟師の狙いどおり、当たることなど絶対にあるもんか。と、そして脇で横たわっている手下は、まぐれで当たったのだと、またも高を括った。先送りしたあの答えの事など、もうすっかり忘れていたのだ。火縄銃の先目当てと前目当が重なる。弾丸はこの一直線上を、目標に向かって忠実に飛ぶはずだ。長次郎は、この流れるような一連の動きに、思わず敬服した。弾込めの瞬間をのぞいて。
そして、これから猟師が行うであろう、弾の押し込み作業を見届けてから発砲しようと待っていた。それは、長次郎自身が改良開発した新型銃の、実力をいまこそ試す為もある。が、その新型銃で倒した猟師が(一体何が起こったのか)と困惑して息絶える、そんな様を楽しみとしていたからだ。
猟師が持つ火縄銃には、銃身の下にカルカという弾の押し込み棒を備えているのが普通だ。目の良い長次郎は、そのカルカをなぜ使わないのかと、まだかまだかと待っていた。そして、一瞬の迷いがここでも過ちを誘った。
待つ間も研究熱心な長次郎は、弾込めを行わない旧式の火縄銃に、どんな仕掛けがあるのかと。これが迷いの瞬間だった。そして、両者が引き金を引いたのは同時だった。いくら目の良い長次郎でも、飛んでくる弾の様子を、物理的に観える訳がない。しかし、長次郎には観えていた。銃口から発射された弾が、現在のライフル銃のように、回転軸を標的に合わせて真直ぐ向かって来る。このとき長次郎は、猟師が持っている火縄銃の仕組みや工夫がやっと観えた。それが四人の仲間たちを次々に倒したという、その答えを今ここで思い覚ったのだ。しかし、余りにも遅すぎた。隣にいる頭が、仰向けのまま大の字に倒れている長次郎に気が付いた。眉間から貫通している銃創を観る。すると長次郎は、僅かに残っている意識で、猟師を指さして「あいつは悪魔だ」と呟いたのが最期となった。後ろで控えている手下に向かって、頭は「子供たちを放してやれ。と、権八に伝えよ」そう命じた。
残った四人の野武士たちは、頭を囲むように次の尾根目指して駆け上がって行く。やはり人望だけは頭にあったのか、手下は身を挺して頭を守ろうとしているのが見て取れた。これは敗走する時の陣形だ。その様子を見ていた猟師は、この賊どもの行く先に子供たちは居ないと判断した。それよりも、単独で尾根を越えて行った、伝令ふうの手下を追い掛けてみようと思った。そこにこそユキもソウイチロウも居るはずだと読んでいた。他の子どもたちときっと一緒に居る。猟師は伝令が消えていった方向へと急ぐ。この時、見覚えのある山に、炭焼き場があったことを思い出した。その中腹辺りには一寸した平地があり、今でも小屋が建っているはずだ。小屋とはいっても、運搬する為の馬と一緒に宿泊できる立派な建物だ。道も立派に整備され、小屋へと続いていた事を思い出した。猟師はそこだ間違いないと思った。子どもたちを隠すには、うってつけの小屋だったと確信する。その運搬道を目指して、一旦はこの山から下りることにした。このまま道なき道を行くより、運搬道に出た方が結果としては早く着く。辺りは冬枯れが始まったとはいえ、雑木林の獣道だ。隠れる物陰には事欠かないと期待した。
止血帯を直す為に、木の根元に身を寄せる。こうして落ち着くと、はるか下には目指す運搬道らしきものが見え隠れしていた。山で生まれ山で育った猟師は、滑る枯れ葉を巧みに利用しながら、斜面を下った。重い火縄銃もこの時ばかりは、気にはならない。そこへ、こぶし大の石が二つ三つと転がって来た。上にいる奴が踏み外したのか、無造作にも転がしたのか、何れにしても今この上にいる奴は、あの伝令しかないはずだ。その姿こそ観えないが、上にいる伝令からは、こっちの姿が観えているのかもしれない。猟師は反射的に木立の影から鉄砲を構えた。暫くすると、また石が転がり落ちて来る。今度は猟師の後方だ。まさか、こいつ迷っているのかと想像した。という事は、こっちの姿は見えていないと思ったからだ。山に慣れない奴が転がした石の様子で、その状況を知ることができる。だが、これだけではまだ決断するには足りない。すると次には、猟師の更に後方から、小石が転がっていることが分かった。もう間違いない。伝令は慣れない山で、行く先を迷っているのだと確信した。
やっと運搬道に下りると、炭焼き小屋目指して走る。もうすぐ助けてやれると、つづら折りの坂道を一気に上り切る。そこに小屋が見えて来るはずだ。最後の急坂を迂回するように外れると風を読んで、わざわざ崖下の藪の中へと入った。火縄の煙で位置を知られない為だ。例え見張りに見つかっても、藪の中から野武士どもを狙うこともできる。さあ悪党め、いつでも相手になってやる。と、腹を括った。そして、藪の中から、ひそかに火縄銃を構えてみた。だが今ここで発砲すれば、山中で迷っていた伝令は、この銃声で方角を知り駆け付けて来る。今来た運搬道を走ればたちまちだ。そこで用意してきた小柄を二振り。それを毛皮の奥襟にある、鞘としているところに仕込んだ。抜きざまに投げられる為だ。そして猟師用の短刀を、腰帯の背中に差し直した。藪からそっと顔をのぞかせる。小屋の周りには見張りらしき姿はない。追手が迫っている事を考えていないのか、ここまで逃げきったと安心しているのか、小屋も前の平地も静まり返っていた。そして拾った小石を投げつける。出入口の戸板に小さく音を立てて転がったあと、野武士の一人が跳ね上げ式の窓をそっと開けた。そこから眠そうな顔を突き出して、辺りの様子を窺っているのか、運搬道への方向を見詰めている。すると、あろうことか人の気配が、後ろから迫って来るのを覚った、あの伝令だ。山中で迷っていた筈の伝令がそこに現れた。奴め、俺の動きを観ていたな、と解った。窓から顔を突き出している野武士が(了吉)と小さく声を掛ける。了吉と呼ばれた伝令は、既に刀を抜いて構えていた。辺りを警戒しながら小屋に近づくと、中に向かって一気に飛び込んだ。戸板の向こうの薄暗がりで何が起こっているのか、容易に想像がつく。
小屋には跳ね上げ式の窓が、正面に三か所設けてあった。その全てが半開して、隙間からこっちの様子を覗いているのが、手に取るように分かった。子供たちは声を上げることもなく、じっと堪えているのか。そのとき出入り口である戸板が一尺ほど開いて、そこから弓に矢をつがえている気配が分かった。戸板との隙間を利用して、狭間にしようというのだ。戸板といっても、普通の民家のものより一回りも二回りも大きく、奥に馬を入れるための門扉のような構造だ。確かに狭間としても十分使えそうだ。
中の様子を観ようと更に目を凝らすが、見えるのは外の明かりが届く範囲まで、その奥の暗がりは全く分からない。せめて子供たちが、何人囚われているのか、どの辺りに居るのかを知りたいと思った。そうでなければまだ鉄砲を使うわけにはいかない。藪のすぐ外に在る岩陰に出て、せめてもう少し中の様子を確かめたいと、後ろ向きのまま出ようとした。そんな姿を、知らない者が見れば、本物の熊が現れたように見える。
ところが、猟師は首筋に冷たいものを感じて、動けなくなった。槍の穂先だ。それも合戦場で使う長槍で、穂先の断面形状は三角形をしている。突き刺すか殴打する以外に、効果的な殺傷力はなく、足軽が隊列を組んで組織的に使ってこその武具だ。藪の中では振り回すことも出来ない。その穂先を、力自慢の猟師が素手で掴んでも、滑らせなければ大した怪我にもならない。しかし、なぜ俺を生け捕りにしようとしているのだろうかと考えた。俺の後続には十四名の弓隊鉄砲隊が続き、十騎の騎馬隊が本道を先行中だ。そうだ、野武士どもはそれを知っているのか。だから、俺を人質として生け捕りにしようとするのだと覚った。つまり俺を藩の関係者と考えているのだ。騎馬兵がこの運搬道を発見するのは、おそらく時間の問題だろう。もしかするとすぐそこまで来ているかも知れないと期待した。それなら、今ここで一か八かを仕掛けるより、一旦捕虜となって子供たちの状況を知りたいと考えた。
猟師はゆっくりと立ち上がり、火縄銃を差し出した。屈辱的なものが収まらない。小突かれながら中に入ると予想以上に広く、子供たちは戸板を引いた、その後ろに押し込まれていた。もしもあの時発砲していれば、子供たちにも当たっていた可能性がある。暗がりに目が慣れてくると、ユキとソウイチロウの顔があった。二人はいち早く気が付いていたようだ。姉のユキが、ソウイチロウや他の子たちに声を出さないように、また野武士には覚られないようにと、指で何かと合図していた。安心したのか二人の顔はどことなく明るい。
子供たちがいる場所には干し草が敷き詰められ、周囲を柵で囲んである。馬を繋ぎ留めておく馬房だ。そこに十二人の子供たちが蹲るように座らされていた。目が慣れてくると年の大きい子たちだと判った。すると小さい子たちはどうなったのか、思わず冷たいものが走った。
その奥には、炭焼き窯に通じると思われる裏口があった。槍を突き付けた奴は、そこから外へ出て、俺の背後に回ったのだろうと推測した。その野武士どもは、伝令も含めて四人だ。一人は弓を持っている。猟師は立ったまま橋を背にして後ろ手に縛り付けられた。そこへ仲間から権八兄いと呼ばれていた男が、猟師の前に仁王立ちする。猟師の持っていた鉄砲を観察するように眺めていたが、いきなり殴りつけた。猟師は顔面といい身体といい、全身をボコボコに殴られた。身体には弱いところもあれば、強いところもある。ダメージを最小限にする術をよく知っていた。それでも子供たちの泣き叫ぶ声を聞きながら、次第に気が遠くなっていく。如何に鍛え上げた身体でも限界がある。とうとう腰を落すように蹲ると、権八は猟師が腰から下げていた革袋に手を突っ込んで、残っていた七発の弾と、火薬を包んだ薄紙を取り出した。それを上がり端に並べて、弾の一つを取って掌に乗せる。すると珍しいものでも観るかのように見つめた。権八の知っている弾とは、まるで違う形状をしていたからだ。それは一見するとこれまでの球ではなく、現代で言う砲弾型をして、後部にはスクリュウ形の羽のようなものを付けていた。後の世で使われる回転式の弾丸だ。空気圧を受けて、ライフルのように弾が回転することで、直進する為の仕組みだった。見慣れないものを見た権八は「こいつは間違いなく藩の役人だ」と決めつけた。そうでなければこんなものを持っているはずがないと。伝令役の野武士が、火薬の入った薄紙の包みを摘まんで、まるで四丁の鉄砲を持っているようだったと、語り始めた。
野武士どもは板の間に上がり、猟師の持ち物を囲んでの話に夢中になっている。その隙をみて猟師の後ろに近付いていたユキが毛皮の下にある帯から、隠している短刀をそっと抜き取った。それを野武士の一人に見られた。
素早くソウイチロウに渡したが、その男はまだユキを疑っている。「おい。いま何をした」と怒鳴る。すると権八がやって来てユキの髪の毛を鷲掴みにし、連れ出そうとした。ユキの悲鳴に小屋が割れんばかりに響く。すると子供たちの間で悲鳴の連鎖が始まった。野武士の手下三人で「権八兄い、それだけはだめだ。その娘は十倍でも売れる上玉だ」と言いながら、なんとか引き止めようとする。悲鳴の連鎖は最年長の子にまで波及していた。権八はしぶしぶ承知するが、あきらめきれない。ここでユキの悲鳴に、親の猟師が意識を取り戻した。野武士どもは虎の尾を踏んでいることに、まだ気が付いていない。ソウイチロウが猟師の縄を切断すると、そのままごっつい掌に短刀を握らせた。意識を取り戻たばかりの猟師は、まだもうろうとしている。が、ユキの壮絶な悲鳴だけは耳に残っていた。見るとユキは裾が乱れ、息も絶え絶えで血の気を失って横たわっていた。猟師は権八を睨みつけて「こいつ」と唸った瞬間には、権八の襟首を掴んだ。驚いた野武士どもは、縛りつけた筈の縄が切られていることに気が付いた。権八は抜こうする刀の柄に手を掛けたが動けない。鞘から抜こうにも、腕が猟師の分厚い胸板に阻まれて、刀が抜けきれないのだ。こうしてみると、あの大柄の権八が小さく観える。尚も猟師は「ユキに何をしたと」と怒鳴りつけながら、鯖折りの腕に尚も力を込めて締めあげる。そして、権八の襟首を引き付けると、短刀をその首に突き付けた。三人の手下どもに、表に出よと目で合図する。それは願ってもないことだと、手下どもは自ら出る。狭い小屋の中では、抜いた刀を思うように振れないからだ。
陽はまだ高く秋の空が拡がっていた。虎の尾を踏んでいることにいまだ気が付いていない三人は、猟師と権八を中心にして遠巻きに囲んだ。他にも気が付いていないことがあった。それは冷静そうに見える猟師だが、その眼は逆上して血走っていた。それに対して、何時も手下から守られてきた権八には、ほんの少し先の未来を予見する想像力は無かった。味方は三人もいるんだと、いつまでも高を括っていた。尚も権八は、猟師が斬り付ければ、その瞬間にはお前こそなますになっていると決めつけていた。だから短刀が少しぐらい食い込んでいても、猟師はこれ以上は動けない筈だと、更に高を括った。その瞬間、権八はその耳に、己の骨が砕ける音を聞いた。
同時に、一人目の手下が猟師の短刀を胸に受けて倒れる。すると、二人目三人目は小柄を受けて続けざまに崩れた。最後の一人は、刺さった小柄を、己の首から抜き取るだけの余力が残っていた。そして、小柄の柄には、小さな房のようなものが付いているのを見て「霧隠れか」と残して絶えた。
こうして勝負はあっけなく終わった。賊どを追って山狩りをしていた十四人の鉄砲隊と弓隊は、がけ下で息絶えている年少たち六人を発見した。猟師に助けられた年長の証言によって、あの分かれ道から、姿が見えなくなったと言う。その時の年少は、二人の手下に連れられて登り傾向の道に入って行ったという。足軽頭が判断を間違えたあの分かれ道だ。それから暫くして二人の手下が戻ってきたが、六人の幼子たちは誰一人戻ってこなかった。山小屋に居た十二人は、駆け付けてきた騎馬隊と一緒に無事ふもとに降りた。そして、逃げた頭と五人の手下と思われる様々な噂が、この山間を中心に遠くの地に残された」と、語った。
山田「これが土地者の本性だ。だが、本番はここからになる。その噂のひとつとは、二年後のことだ。頭と思われる男が、この地に在る宗家の近くで何度も目撃されていた。また、上田城下の近くでは野武士風の男がやって来て、百姓たちから仕入れた農産物を売っては、生計を立てていたという。だが元々商売のへたくそなこの男には、決まった客が寄り付かず、やがては廃業したと言われた。飛騨の高山にも木曽や甲府にも、野武士風の男が突然やって来ては住み着いたとか言われているが、山中で行方を晦ました野武士かどうかまでは分かっていない。そしてこの地の噂では、権八風の大男が、血筋を頼って住み着いた。だが二か月後、追ってきた藩の役人が縄をかけたという。その時、大男はかけられた縄に悲鳴を上げた。縄の下にあるはずの肋骨が内臓に突き刺さり、苦しみぬいて死んだと言われている」
そして「また飯田の城下にも、出どこの知れない男の話が残されていた。この男の場合は、持っていた金を使い果たすと、泥棒を働くようになった。それを見るに見兼ねて、旅籠の主がこの男を拾った。裏庭にある畑の隅に小屋を建てて、下働きなどをして暮らすようになったという。この日も男は主の娘が、夕食を運んで来るのを待っていた。そこを小屋の中へ強引に引き摺り込み、手込めにしたというのだ。これ知った主はその日のうちに男を叩き出した。すると、野武士の時から持っていたという刀を持ち出して、一家三人を惨殺し、隠居部屋に居た無抵抗の老婆にまで、手に掛けたという。役人は藩からの書状でこの男の素性を知り、美濃との国境まで追い詰めて捉えた。老婆にまで手を掛けた理由を問い詰めると(証拠さえ無ければ何をしてもいいんだ)と、薄笑いしたという」
山田は「そのあと男は、惨殺した時の模様を平然と答えた。奉行は男を磔刑に処した。立ち会った役人は、男の首から背骨に沿って、獣毛のようなものが生えていた。その様は、まるで獣のようだったと語った。また、奉行の直筆で、恩を仇で返した男の地元であるこの地では、近親交配が常態化しており、異常者のなんと多いことかと驚いた。と、記されていた。また、役人たちは、野武士どもが四方八方へと散った理由について、追っ手を交わすためとしているが、定かではないとの但し書きがあった」と語った。美智子は「これが、藤村が言っていた野武士である悪党実態だ。その後この地を構成する土地者に擬態する」と、速記した。
そして「やがて幕末に近付くと、各地に散らばっていた、土地者の末裔たちが、この地へと戻って来た。先ず始めたのが組織作りだ。あとは山間の集落から娘を買い取ってきた。と、言い張るが、騙して連れてきたというのが本当のところだ」と記されていた。紗耶香がもう一度「各地とは具体的に何処を指しているのですか」と確かめる。百人力は「野武士の噂が残されている塩尻、上田、佐久、甲府、高遠、伊那などが各地として想定される」そう表示したが、ただし「戦国以前から続いていた、人攫いや人買いを生業とする集団が、この地の土地者であるという、直接的な証拠はいまのところ見つかっていない」と強調した。
美智子は「私たち日本人の先祖には、元々他人を攫ったり、売ったり買ったりする習わしは無かった。そんな平和な縄文文化が長く続いてきたのだ。ところが三~四世紀あたりから、大陸から渡来して来た人たちの影響が強くなり始める。やがて、人買いが行われるようになった。大陸では、人買いは日常化していたと言われている。更には人間を奴隷化する制度まであり、動物や家畜のように扱っていた。あの軍事大国が、それを証明している」と、語った。そのあと画面には「製糸が業として起こされた当初、女工として集められた少女たちは、間違いなく奴隷という扱いだった」と表示した。
(第六話に続く)
差別や虐めが今も続くのは、悪党たちの陰湿な性が関係しているからだ。