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第36.5話 原初の悲劇

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 本当に偶然だった。地下室で書物を読み漁っているうちに、つい眠り込んでしまったこと。それが、命運を分けた。


 地下室の階段を上り、地上の部屋へと続く扉を開けた瞬間、目の前の光景に言葉を失った。部屋の半分は瓦礫の山と化し、家そのものが崩壊していた。そして、そこには赤黒い竜がいた。血のような瞳でこちらを見据えるその竜が、咆哮とともに飛びかかってきた。


 恐怖に突き動かされ、反射的に後退した瞬間、竜は瓦礫に激突し、その血肉が弾け飛んだ。その一部が飛沫となり、私の顔や口内に侵入する。濃厚な腐臭が鼻腔を焼き、舌先には嫌な粘り気と固い異物の感触。


 吐き出そうとしたが、体は言うことを聞かなかった。意志に反して喉が動き、飲み込んでしまう。


『吐き出さなくては』


 そう思った時にはもう遅かった。喉を通り、胃へと落ちていくそれは、体の奥底でじわじわと広がる異質な熱を生み出した。内臓が沸騰するかのような痛みと不快感に、私はその場に倒れ込む。




 気がつけば、あたりには静寂だけが残っていた。時間がどれほど経ったのかもわからない。ただ、妙に体が軽く、精気が溢れているのを感じた。そんな自分が気味悪かった。


 外へ出ると、街は壊滅していた。瓦礫と化した建物の影には、かつて人であったものの名残が累々と積み重なっている。腐臭が風に乗り、辺り一帯を支配していた。


「誰か……! 誰か……!」


 叫びながら、無我夢中で走り回った。崩れた建物の間を駆け抜け、瓦礫に身を潜める者を探す。それでも誰一人として応える声はなかった。


 疲労に膝をつきながら、街の中央にある教会へと向かった。街で最も大きな建物のひとつであるその場所も無残に破壊され、屋根は竜によって狙いすましたように潰されていた。中には数え切れないほどの血肉が山となり積み上がっている。


 膝から崩れ落ち、声にならない叫びを上げた。


「誰か……誰か……!」


 喉は既に枯れ果て、声はかすれ、涙も尽きていた。それでも、誰も応えてはくれない。ふと見上げた壊れた天井の向こう、空には赤黒い竜が浮かんでいる。その顔は、まるで嘲笑っているかのようだった。


 何が楽しいのか、何が面白いのか。私には何もわからない。ただ、すべての元凶があの竜であることだけは理解できた。


 赤い雨が降り注ぎ、地面を染めていく。その雨はやがて透明に変わり、私の腕には雨粒が跡を残した。滴った赤い雨の跡からは、糸を引くような瘢痕が生まれ、血管のように脈打ち始めていた。


 その脈動は内臓の熱と共鳴するかのようで、私の体は自分のものではないかのように感じられた。


「もうどうなってもいい」


 すべてを失った絶望の中、私は自暴自棄になっていた。なぜあのとき、家族は地下に呼ばなかったのか。なぜ街の人々は逃げなかったのか。そして、なぜあの竜はこの街を滅ぼしたのか。


 狂おうとしても狂えない。叫んでも誰も答えない


「殺してやる」


 憎しみが胸を支配する。あの竜に近づくために、竜の血肉を喰らう。それしか思いつかなかった。腐敗した竜の死体に手を伸ばし、血肉を掴み取る。腐臭と粘り気に耐えながら、それを無理やり喉へと押し込んだ。


 これまでに感じたことの無い吐き気。体が『これは食べ物では無い』と声を上げているのが感じられる。


 一回目とは違い、自身の意思で嚥下を行わなければならない。何度も吐き出しそうになるのを無理やり手のひらで押さえつけて飲み下す。


 しかし、そこまでして飲み込んだというのに体にはなんの変化もない。必要なものは血肉ではなかったようだった。


 グジュグジュとこれまでに触れたことの無く、形容しがたい感触の肉塊を弄る。その中に小石ほどの硬い感触を見つけ、急いで拾い上げた。


 曇った光を放つそれは明らかに触れてはいけない気配を醸し出している。熱くは無いのに、触れている箇所が火傷をしてしまいそうなよく分からない感覚。


 だが、いまからそれを飲み下さなくてはならない。


「もう、どうなってもいい」


 生唾を飲み込む。しかし、これで命が無くなるのならばそれはそれで良いと自分に言い聞かせる。


 大きく息を吐き出して、口の中に放り込む。


「うっ……」


 口内に石が触れる度に、触れた場所が熱を帯びる。留めるほどに危険だと思い、一息に飲み下した。


 熱湯なんて比べ物にならない。熱いどころか、胃が溶けだしてるのではないかと思えてしまう気持ち悪さを耐え切ると、熱さが暖かさに変わり体内にエネルギーが溢れているような気がしていた。


 周囲にはまだまだ赤黒い竜の死体が転がっている。立ち上がれば視界がふらつき、歩きだせば真っ直ぐ歩く事もままならない。


 それでもすぐそこにある肉塊にはたどり着けてしまい、気持ちの悪い血肉を掻き分けつつ、鈍く光る石を探す。



 何時間も何時間もそうして石を探しては飲み下すうちに、街中で見つけられる肉塊は全て漁りきってしまった。終わったと思った瞬間に、糸が切れたように体の力が抜けていく。


 私……は。私に『今』出来ることは無い……けれども伝えなくては。


「エルージュティアの悲劇……」


 這うようにして建物に身を隠す。そうして決意を固めた。


「この出来事を……後世へ伝える……。私は彼を許さない」


 『エルージュティアの悲劇』


 この日のことをきっと彼は忘れない。そして誰にも忘れさせないために呟いたその言葉を血に濡れた紙に書き込んだ。


 そしてこの記名を最後に、生まれ変わることを誓う。


 体全体に限界を超えた気持ち悪さを抱えながら、彼は眠りについた。

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