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第32話 心の音

 普通なら、こんなに簡単に帝国軍に入れるはずがない。


 それを知ったのは、クオトラが軍の生活に少し慣れ始めた頃だった。


 軍への入団条件は曖昧だったが、ここの兵士たちの多くは、クオトラと同じくどこかの村で生き残り、瀕死の状態で救われた者たちだった。彼らは生き延びた後、厳しい入団試験を乗り越えて軍に加わったらしい。力や戦闘能力、知能、そして健康状態までも細かくテストされる。


 その過程では、血液を抜いての測定まで行われるようだ。そして最終的には、王の前で忠誠を誓い、正式な兵士となる。


 これらに比べると、クオトラの入団は特例的だったように思えた。何度か聞いた話では、王への謁見さえも軍の上層部によって延期され続けているという。


「疲れた……」


 休憩時間になると、クオトラは重い体を引きずりながら椅子に腰掛けた。ここ数ヶ月の訓練は、まるで心と体を蝕むような厳しさだった。陽が昇る頃に目を覚まし、徒手の訓練や運搬作業を繰り返す日々。時折、武器を使った訓練もあるが、大半の仕事は雑用のようなものだった。


 理不尽とも言える忙しさにうんざりしながらも、どこかクオトラはそれを「仕方がない」と受け入れていた。彼にとって軍隊での生活は、無目的な日々から目をそらさせてくれる時間でもあった。


「意外だよな……」


 彼はぽつりと呟いた。軍隊といえば、戦闘ばかりだと思っていた。しかし、実際には外壁の修理や物資の運搬、訓練地の整備など、戦闘以外の仕事が多い。アルフィグでの静かな暮らしとは対照的に、この地では危機感が日常に溶け込んでいた。


 死竜の谷では、死竜が飛び交う光景を目にすることもあるが、それを狩り尽くすなど到底不可能だと思わされる。王都では定期的に死竜の襲撃が起こる。それは死竜の棲家が近いことや、王都の人口密度が高いことが原因だと聞いた。


 ある日、彼は仲良くなった兵士にそう尋ねたことがある。兵士は肩をすくめ、無表情のまま返事をした。


「今はその時期じゃないんだよ」


 一回は真夏。一回は冬の雪解けの頃。


 どうやら年に二回ほどしか大規模な死竜狩りは行われないらしい。その理由は、真夏と冬の雪解けの頃になると、死竜の活動が鈍り、飛んで逃げられるリスクが減るためだという。季節は既に冬。次の『死竜狩り』の時期が迫っていた。


「この時期になると、室内闘技場のありがたさが身に染みるだろう」


 トゥルエイトが、闘技場の観客席に座るクオトラの背中を軽く叩いた。彼の言葉には、いつもの通り、どこか掴みどころがないものを感じる。


 振り返ったクオトラの表情は疲れの色が濃い。だが、トゥルエイトのその無頓着な態度が、逆にどこか安心感を与えてくれた。


「そうだね。この時期に外で訓練するなんてごめんだよ」


 クオトラはため息をつきながら答えた。トゥルエイトから手渡された水筒の水を一気に飲み干す。数百人の兵士が動き回るこの場所は、熱気に溢れており、まるで真夏のように汗が吹き出す。


「武器の扱いには問題ないだろうが、飛び回る死竜を狩るのは別物だ。……せめて、死人の一人にはならないようにしてくれよ」


 トゥルエイトについて最近分かったことがある。このやたらと攻撃的な言葉を使う時は、彼なりにコミュニケーションを取ろうとしているときだという事だ。


「あぁ、僕が死んでしまったら副団長が悲しむだろうからな」


 冗談めかした返事をするクオトラ。しかし、その軽い言葉とは裏腹に、彼の心の中にはまだ拭いきれない不安が渦巻いていた。トゥルエイトは一瞬だけ口元に笑みを浮かべ、立ち上がると背を向けた。


「重量物を運んでいた頃よりは断然楽しいだろうからな。私はこれから会議があるからここで失礼する……あぁ」


 そう言い残し、闘技場から去って行った。


「クオトラ、お腹減ったんじゃない?」


 その直後、フレーリアが軽やかな足取りで駆け寄ってきた。彼女の金髪は後ろで結ばれ、汗ばんだ顔には微かな紅潮が差している。


「ありがとう!」


 クオトラは彼女から渡された食べ物を嬉しそうに受け取った。芋と米を練り合わせた、少し甘めの練り飯だ。軍の訓練に明け暮れる彼にとって、この簡素な食べ物が唯一の楽しみとも言える。フレーリアが体調を崩していたことは気掛かりだったが、今はその様子も見られない。むしろ、以前より元気そうに見える。


 練り飯を頬張りながら、クオトラは闘技場の中央で模擬戦を繰り広げる若い兵士たちを見つめた。休憩時間だというのに、彼らは素手で激しい戦闘訓練を続けている。


「さっき聞いたんだけれど、また死竜の谷に行くんだって?」


 フレーリアがそう尋ねると、クオトラは頷いた。


「うん。それがいまの仕事だからね」


 その答えに、自分自身を納得させるような響きが混じっていた。訓練を通して体が馴染んできている実感はある。力も確かに増している。しかし、それでも不安は消えなかった。緑の器に繋がる手掛かりはまだ見つからず、焦燥感ばかりが募っていた。


「クオトラ、今は焦らず待ちましょう。あの日以降、貴方はずっと走りっぱなしじゃない」


 フレーリアが優しく彼の肩に手を置いた。その温かさが、まるでクオトラの心の奥底にまで届くように感じられる。彼女の言葉は慰めであり、同時に彼にとって必要な現実の指摘でもあった。


「そうだね。ここにいればいつか辿り着けるはずだよね」


 クオトラはふと右目を押さえた。竜の血に適応するたびに、その目が脈打つように疼く。彼の体は、日に日に竜の力に染まっていくかのようだった。その不気味な感覚が、彼を苛んでいた。


「フレーリアはこれからどうしたい?」


 その問いは、これまでクオトラが彼女に向けたことのない、唐突なものだった。彼自身、この疑問をぶつける理由も明確には分かっていなかった。ただ、彼女の隣にいる時間が増えるにつれ、ふと気になったのだ。


 フレーリアは驚いたように目を見開き、戸惑いの色を見せたが、すぐに顔を逸らした。微かな沈黙が二人の間に流れる。しかし、彼女は意を決したように、再びクオトラに向き直る。


「わたしは……もう大事な人を誰も失いたくない。あの七年間は本当に地獄の日々だった……だから、今の時間がずっと続いてほしい」


 その言葉は、彼女の奥底に隠されていた本音そのものだった。フレーリアの声はかすかに震え、抑えきれない感情がにじみ出ている。彼女がこれまでどれだけの孤独や恐怖に苛まれてきたのか。そして、どれほど今の平穏を守りたいと願っているのか――彼女の一言一言が、それを痛いほど物語っていた。


 クオトラはその声を聞き、胸が締めつけられる思いだった。これほどの恐怖や悲しみを抱えてなお、彼の前で笑顔を見せ続けていた彼女。その想いの重さが、今になって彼の心に深く突き刺さる。


 彼女の肩が微かに震えているのがわかったが、フレーリアは決してクオトラに顔を向けようとしなかった。涙を見せたくないという気持ちが伝わってくる。それでも彼女がその肩越しに語る声は、どこまでも誠実だった。


「ごめん……」


 クオトラはそう呟いた。だが、彼自身でもその謝罪が何に向けられたものなのか分からなかった。守りきれなかった過去への後悔か。彼女の想いに対して何もできない自分への憤りか。ただ一つだけ確かなのは、彼が彼女の言葉に何らかの形で応えたいと強く感じていたということだった。


「出来れば……これからずっとこのまま、一緒に平和に暮らしたい。もう、あんな寂しい思いはしたくない」


 フレーリアは震える声で続けた。その言葉は掠れており、近くにいなければ聞き取ることも難しいほどだった。彼女は顔を下に向けたまま、鼻をすすりながらか細い声を紡ぐ。それでも、その言葉は真っ直ぐにクオトラの心に届いた。


 しかし、クオトラの頭の中には、戦いに向かうべきだという内なる声が響いていた。それは、彼に埋め込まれた呪いのようなもの。宿命を背負った彼に、平穏な暮らしは約束されていない。それでも、目の前にいる彼女の存在、その温かい手のひらが、彼の心に残る僅かな安らぎを掴んで離さなかった。


 ふと、クオトラは寒々しい冬の空を見上げる。生ぬるい水滴が頬を伝い落ちる。それは雪ではなく、彼がもはや純粋な人間ではなくなりつつあることを改めて思い知らせるかのようだった。


「もう二度とただ平穏に暮らすことはできないだろう……」


 そう悟りながらも、クオトラはこの一瞬を大切にしようと決めた。目の前の彼女を守るために。


「もう離れたりしない。僕は絶対死なないし、フレーリアも死なせない」


 クオトラのその言葉は、彼が出来る最大限の愛情表現だった。


 その瞬間、フレーリアはまるでその言葉を待っていたかのように、涙を浮かべたまま彼の胸に飛び込んだ。その小さな体は微かに震え、子供のように泣きじゃくる。その震えが、これまで彼女が押し殺してきた感情の深さを物語っていた。


 クオトラは何も言わず、その小さな体をしっかりと抱きしめた。フレーリアの涙が彼の胸を濡らし、その温もりが彼の心を満たしていく。


 その瞬間、彼女が抱える孤独や不安、すべての感情が彼に流れ込んできたように感じた。彼女の決意と、それに応えようとする自分の決意。その二つが、確かな絆として結ばれるのを感じた。


「絶対……絶対だから。離れても、死んでも絶対許さないから」


 フレーリアの声は掠れ、途切れ途切れに響いた。それでも、その言葉には強い決意が込められていた。彼女にとって、クオトラは唯一の存在。どんな困難があろうとも、彼を失うことだけは耐えられないと彼女はそう訴えていた。


 クオトラは、フレーリアの言葉に静かに頷いた。言葉ではなく、その小さな肩を包むように抱きしめることで応えた。彼女の涙が乾くまで、彼はただ静かにその温もりを受け止めていた。

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