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罠だった。
「それで、どう思う」
「どう、と言われましても……」
リーヨンは比較的治安の良い街だが、それでも人が集まる場所には犯罪も起こる。カレンに口酸っぱく言い聞かされているので、ロゼはやましげな店が点在する裏道には決して入らない。
そんな、普段であれば足を踏み入れない、中心街の裏路地で、トアンとロゼは鈍く光る霊唱陣を並んで眺めていた。
おかしいとは思ったのだ。トアンは森とは反対方向にずんずん歩いて行くし、どこに行くのかと聞いても「着けばわかる」などとはぐらかされ、それでロゼは諦めてついてきてしまった。
途中で引き返せばよかったし、そもそも付いて来なければよかった。けれどトアンにはどこか人に有無を言わせないオーラがあり、そしてロゼは単純な上に楽天家だ。
どう考えても、トアンは露骨にロゼを試している。
絶対に何もいうものかと心に決めて、けれど目は勝手に霊唱の細部をなぞっていた。性分なので止められない。
(とても嫌な霊唱だ。それにこの歌い方、この間と同じ人?多分、異国の歌い手……)
霊唱には地域性がある。同じ精霊教でも重視している内容が地域ごと異なるからだ。聖都の神官たちは「聖都らしい」、折り目正しい霊唱をするが、地方ではその土地土地に受け継がれた特有の歌い方がある。
目の前の霊唱はまず大枠となる円が楕円に近く、これは多く南の地域で見られる。精霊への供物を意味するトライエンにも様々な種類があり、聖都では主に波線に花の模様が浮かぶシエントラを歌うが、この霊唱で歌われているのはカトラ。これは南の、特に山岳地方の歌い手たちが多用する。
それぞれの特徴は、先日ロゼが書き換えた霊唱と一致していた。
歌ったのは誰だろうか。ロゼは脳内に世界地図を広げて考えてみる。これら特徴に合致し、そしてこの霊唱の効果を考えれば、恐らくそれはこの国と関係の悪い……。
「わかりません」
「ほう」
「何もわかりません」
「なるほど」
トアンの目が明らかに霊唱陣ではなくロゼを観察していると気づき、ロゼは勢いよく思考を止めた。
「歪な霊唱だろう。それに聖都の霊唱とは異なった特徴が多い」
「そうなんですか」
「ああ。霊唱自体の効力は大して強くはないがな」
「へえ〜」
「だが友好的なものじゃないことも確かだ。陣の中心にある文様をよく見たか?」
トアンに言われて、ロゼの目は反射的にその文様を探す。
「あっ」
霊唱陣の中心にいれる文様は、その霊唱が象徴するもの、精霊への願いだ。大抵そこに入るのは守護や護身の文様だが、他にも様々あり、これに限ってはどの地域でも共通している。
「『破壊』によく似ているな」
(私もそうだと思った。でも違う)
「『崩壊』でもない」
(違う、それよりももっと強い)
「守護ではありえない」
(まさか!)
「詠唱の失敗か?」
違う、これは、
「聖書の禁忌『滅び』……」
「ほう」
「あ」
ロゼは馬鹿だ。
慌ててトアンを見ると、彼は目を細めて美しい笑みを浮かべていた。
「いや、その」
「詳しく聞かせてくれるな?」
「いえ、わかりません、何も」
「それはもう聞き飽きた」
笑みを深くしたトアンに、ロゼの足は自然と後ずさりをしていた。だが狭い路地裏に逃げ場などない。ロゼが下がるだけその間を詰めるようにトアンがにじり寄ってくるので、とうとうロゼは冷たい石壁に背中がつくまで追い詰められてしまった。
背の高いトアンに間近に寄られる圧迫感と、眼前の美しい笑みに完全に囚われたロゼの脳内には、なんの言い訳も浮かんでこない。
「『滅び』は聖書の禁忌だと言ったな」
「ひえ」
「その通りだ。神官たちもその歌を知らない。決して教わらないからだ」
「や、あの」
「なぜ知っている」
(うわあああああ)
「……とは、聞かないでおいてやろう。今日のところは」
予想外の言葉に、ロゼは目を瞬かせた。
その反応に満足げに目を細め、トアンは独り言のように続ける。
「先日の霊唱陣はこれに似通っていたな」
トアンはあたかも今思い出したかのように言う。ロゼはもうこの先を聞くのが恐ろしく、さながら蛇に睨まれた蛙のように微動だにせず立っていた。実際トアンの身体があまりに近いので、動くに動けない。
「だがあれは守護だった。そのほかの特徴はこれと共通しているのに、あれだけが守護。色も白銀。おかしなことだ、俺が同じ日の朝に見た時は確かに赤褐色の「脱落」の陣だった」
まさか、トアンはあの霊唱の存在を知って様子をみていたのか。だからあの時、都合よくその場にいた。
ではロゼの行動は、ずっと見られていたのか。
「他人の霊唱の効果を消すには、歌い返さなければいけない。その場合歌い返しの陣が残っているはずだがそれもない。あり得ないことだが、大枠をそのまま残し、整え、願望を「書き換えた」誰かがいる。それもほんの数秒のうちに」
トアンは自分が結論にたどり着いた道筋を丁寧に説明する。それをロゼは、罪人が自らの罪を暴かれるような心地で聞いた。
「荒唐無稽だ。そんな人間の存在を知れば聖都は大騒ぎになるだろう。処遇が気になるところだな。処刑か、幽閉か」
(いえ、魂の抹消です)
兄がこのことを知れば自分は絶対に許されない。兄の言葉通り、「聖都に仇なす者」として消される。聖都に連れ戻されてしまえば、ロゼの「わかりません」など一切通用しないだろう。なかったことにされてしまう。存在の全てが、
「お願いします!言わないでください!」
ロゼは両手を祈るように握りしめ、必死に訴えた。
「やっと認める気になったか?」
「はい、すみません、私です。言わないでください。お願いします」
「ハハ、俺は大神官だぞ?その俺に、聖都に隠し事をしろというのか」
白々しい様子で笑うトアンからは真剣味が感じられなかったが、今のロゼにはわからなかった。握った手に額を押し付け、お願いします、と繰り返し乞う。
そんなロゼをトアンはしばし楽しげに眺め、十分な間をとってから、言った。
「いいだろう」
「えっ」
勢いよく顔をあげたロゼの前、すぐ近くに男の顔がある。
「その代わり、俺のために働いてもらう」
トアンの指先がロゼの顎に触れ、ついと顔を上げさせられる。男の顔はさらに近く、その横髪がロゼの首元をさらりと撫でた。
「そうすれば、聖都には秘密にしてやってもいい」
路地裏という場所も相まって、側から見ればそれは恋人同士の親密な語らいに見えたかもしれない。しかしロゼの心境としては、肉食獣に喉元を噛みつかれた草食獣だった。
ロゼは完全に仕留められた。