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違和感を感じたのは、市場の服屋で支払いを済ませている時だった。
(嫌な感じだ)
それはどこか遠くない場所で、悪い気を放っている。まるで屋台で焼く肉の臭いのように、ロゼにはそれが「誘っている」と感じた。惹きつけ、悪いことをさせようとしている。
ロゼは感じるままに歩いた。市場は中心地の広場に出ていて、そこからは商店が立ち並ぶ通りに向かって舗装された石畳が続いている。その道を辿ってしばらく過ぎれば住宅地だ。中級の市民たちが門を構えるその道を通るのは初めてだったが、ロゼは誘われるままに迷いなく歩いた。
青いレンガ屋根の集合住宅の前で、その「気」が一層強くなる。
(なんだろう。精霊を呼ぼうとしてる。でもこれじゃあ……)
何かが大きく間違っている、ロゼはそう感じた。恐らく霊唱だ。精霊たちが少しづつ集まってきているから、歌われてからそう時間が経っていない。でも、暗く冷たい力。止めた方がいい、とロゼは本能的に感じた。
霊唱が歌われたのなら、陣がそこ残っている。その大小に関わらず、ロゼならば見つけられる。昔とった杵柄と言うべきか、ロゼは霊唱に関わることならば全般に長けている。もはや誰に褒められることもない特技だ。
玄関先の階段、手すり、建物本体を順番に見上げて、「それ」がどうやら建物と隣家の間、狭い隙間の先にあると目星をつけた。ロゼなら通れるだろう。そう思って足を踏み出した、その時だった。
「痛い、痛ぃい!」
悲鳴と共に、這々の体で建物を飛び出してきたのは妙齢の女性だ。大きく張った腹を抑えている。妊婦だ。彼女の身体に危害が加わっている。
ロゼはそこまでを瞬時に考えて、駆け出した。痛みに苦しむ女性ではなく、霊唱の元へ。
「あった!」
赤褐色の陣。歪んだ楕円。供物はカトラ。願いは「脱落」。
ロゼは迷わず小声で歌った。円陣を整え、供物はそのまま、願いを「守護」に。長い詠唱は必要ない。ただ言い換えてやればいい。精霊は元々、奪うよりも「与える」霊唱を好むものだ。
ロゼの節に合わせて陣が形を変える。赤い陣はその色を落とし、白々と輝きだす。
(元の歌い手が歌ってからまだ時間は経ってない。その人の霊力で、まだ間に合う)
ロゼ一人が歌う霊唱では精霊は呼びかけに応じない。もう何千回と試し、その度に思い知ったことだ。でもその繰り返しの中で、誰かが残した霊唱にならば関与できるとロゼは知った。歌い手の霊力が残っていれば、それをそのままロゼには「歌い直せる」。
間も無く霊唱は輝きを収め、歪みない円に銀の文様を残した。うまくいった。だが先ほどの女性とその胎児を救うに間に合ったかはわからない。そのことに気づき、ロゼは慌てて建物の正面に舞い戻った。すると、
「あれ、ロゼ!?」
「アスラン!」
そこには女性を介抱する見慣れた神官服、アスランの姿があった。
「大丈夫?」
ロゼは二人に駆け寄り、女性の様子を伺う。彼女は気を失っているのか目を閉じ、しかし穏やかに呼吸しているようだった。
「さっきまで痛がってたんだけど、今は落ち着いたみたいだ。これから治療院に連れて行くよ」
アスランはそう言うと手慣れた様子で女性を抱え上げ、そして後ろを振り返った。
「では、私はいってきます」
「ああ、気をつけて」
よかった、と安堵したのもつかの間、そこにもう一人いたことに、ロゼはその男が声を発して初めて気づいた。視線を向ければ目に入るのは、銀糸の入った青い神官服に、白い帯。
(いじわる大神官)
トアンの見目は、ロゼが想像していたものと全く異なっていた。もれ聞く噂話から、ロゼは勝手に華奢で軟派な詐欺師然とした男を想像していたが、実際のトアンはどちらかといえば筋肉質な長身で、ゆるく編まれた白金色の長髪とのアンバランスさが謎めいた雰囲気をもたらしていた。
視線が噛み合うと同時に、ロゼは、自分がずっと相手から観察されていたことに気づく。
(え、気まずい)
アスランが足早に去ってしまい、残されたのは自分と、初対面の男のみ。ここは余計なことを言わずに立ち去るに限ると判断し、ロゼは早々に逃げの一手を打つことにした。
「あの、それじゃ」
「何をした?」
真顔の男から放たれた言葉に、ロゼは固まった。
「アンタ、『歌った』だろう。何をした」
聞かれたはずがない。焦っていたとはいえロゼは口ずさんだだけだ。誰にも聞こえるはずがない。それに、ロゼは自身の霊唱を残していない。「書き換えた」だけ。
ロゼの脳内にはぐるぐると言い訳が巡ったが、男に返すべき言葉は出てこない。射るような視線から逃れることもできず、無言で見つめあいながら、ロゼは生涯経験したことがないほどの冷や汗をかいていた。言うことが見つからない。
ロゼには知る由もないことであったが、
沈黙は、肯定だ。
「なるほど」
男、トアンは薄っすらと笑みを浮かべた。それは、あたかも獲物を見つけた狩猟者の顔で、
「わ」
ロゼが半年で身につけた拙い処世術では、選べる道は一つしかない。
「わかりません!すみません!失礼します!」
絶対に振り返らないと心に決めて、ロゼは駆け出した。逃げるしかない。
そのまま煉瓦亭の扉に手をかけるまで、ロゼは一度も立ち止まらなかった。トアンは追ってはこなかった。