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アスランは朝から神殿に向かっていた。その足取りは重く、悲壮な表情を浮かべている。
リーヨンの街の神殿は街の中心街からほど近くにある。この街は精霊教信仰が厚く、神官の扱いも良いので、アスランはここに配属されてから長らく心安い日々を過ごしていた。言い方を変えれば、ぬるま湯に使っていたのである。
聖都訓練時代の辛い修行の日々はもう遠い昔のようだ。下級神官として独り立ちして4年になるが、昇級試験も「受かったら嬉しいな」程度に考えていたし、そんな折に先輩の上級神官からお前なら受かるなどと太鼓判を押され、すでにその気になっていただ。
アスランは実直で敬虔な信徒だが、調子に乗りやすく、気が弱いのが玉に傷だ、と上級神官が影で評していたことを、彼は知らなかった。
「おはよう、アスラン」
「ああ、オリヴィア、おはよう」
同僚の下級神官オリヴィアはすでに神殿で待っていた。精霊教の神官に性別は関係ない。オリヴィアは波打つ黒髪が美しい娘で、アスランとは歳も近く仲が良い。リーヨンへの配属はアスランより後だが、すっかりここに馴染み、今やアスランよりも市民の信頼を得ているようだった。そんなしっかり者の彼女ですらも、今日は緊張した面持ちだ。
「大神官は……」
「まだよ。朝早くに森に向かわれたって」
「じゃあオリヴィアもまだ会ってないんだな?」
「会ってないけど、昨日街で見たわ。散歩してた」
散歩。
「あああ、どうしよう、大丈夫かな、俺、最近守護の霊唱しかしてないよ」
「私だってそうよ、この街は平和だもの。でも下級から中級への試験は大概守護か護身だって聞くから、よっぽどミスしなきゃ大丈夫よ」
オリヴィアは半分自分に言い聞かせるようにそう言うと、小さく息を吐いた。彼女もアスランと同じく、昨晩は必死に聖書を読み込んだ口だろう。上級神官に代わって大神官、それも高名、もしくは悪名高いトアン大神官が試験官としてこの街に来ていると突然知らされたのは昨日の昼だった。
「それ、なに?」
オリヴィアは話題を変えたかったのか、アスランの手にする紙袋に気づいて尋ねた。
「ああ、さっき煉瓦亭で買った昼飯。カレンさんのホットサンド」
「え、いいなあ。美味しいよねあそこ」
見せて、と言うオリヴィアに紙袋を渡すと、わ〜ハムチーズだ、半分ちょうだい、などと言う。アスランはそれどころではなかったが、上の空のままいいよと答えた。
「あの子、元気?煉瓦亭の」
聞かれて、アスランの脳内に小柄な銀髪がちょこまかと動き回る様が思い浮かび、知らずと笑みがこぼれた。
「ロゼなら元気だよ。一生懸命働いてる。最初はどうなることかと思ったけど、すっかり馴染んだし」
「そっか、よかったね。どこから来たんだっけ」
「詳しくは聞いてない。あんまり言いたくなさそうだったし。でもあの感じだから、他国の没落貴族の娘かなと」
「ああ、箱入りっぽいもんね。あの話ほんと笑った。ほら、アスランの神官服を汚したって時にさ」
どこからかこの街に逃げついたらしいロゼを、街の馬車留めで見つけて半年になるだろうか。彼女は全く物を知らない様子で、どこか浮世離れして見えた。
煉瓦亭で働き始めた数日後、様子を見に言ったアスランに、ロゼは盛大に料理をぶちまけた。
「洗って同じのを着るって言ったら、衝撃を受けてたもんな……」
服を洗うという発想自体がない反応だった、とアスランは思う。では汚れるたびに新しく買い換えるのかと聞けば、ロゼは考え込み、それから、考えたことがなかった、と言った。
これまでよほど家事からは縁遠い生活だったのだろう。それにしても、洗濯を知らない人間はどんな生活をしていたのだろうか。そこからの、今の生活への落差はいかばかりか。
だがロゼは毎日楽しそうだ。彼女が愚痴をこぼすところを未だ見たことがない。ロゼは、失敗してもなんだか楽しそうにしている。
彼女は自分の歳も正確に把握していない様子だったが、18かそこらだろう。アスランはロゼを見ると田舎の妹を思い出し、他人とは思えないのだった。そんな彼女が元気に働いている様子を見ると、自分も励まされる。
アスランとオリヴィアはそれからしばし世間話に花を開かせた。最近生まれた誰々の家の赤ん坊は可愛い、その祝福は私がしたかった、だの、あそこの新作メニューは当たりだから食べに言った方がいい、だのと。だから、足音もなく二人に近づいたその人の存在に、声をかけられるまで気づかなかった。
「随分と楽しそうだな」
石造りの神殿にその声はよく響いた。二人はぴたりと会話を止めて、声の主を見る。
「その様子だと試験の準備は余裕か?では早速始めよう」
アスランたち下級神官とは違う、銀糸の刺繍が入った上等の神官服。腰には大神官の地位にのみ許される純白に金の文様の帯を巻き、太い三つ編みに編まれ背中に長く垂れ下がる髪は、霊力の高さを示す白金色。
「俺がトアンだ。さあ、どちらから始める?」
トアンは唇に薄笑みを浮かべ、顔面蒼白の二人を楽しげに眺めた。