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カレンのすごいところは、その懐の広さだと思う。
「今日の夜はそんなに混みそうもないから、あんたがいてもやるこたないよ。好きにしてきな」
「はい、ありがとうございます」
ぶっきらぼうな言い方で渡されるのは、出来立てのホットサンド。忙しい合間をぬって彼女が必ず用意してくれるロゼのまかないだ。忙しい時分にロゼが犯した失敗を大剣幕で怒鳴りつけはしたものの、一度波が過ぎれば、こうして食事を持たせ十分な休憩を取らせてくれる。
ホットサンドを懐に抱いて店を出て、ロゼは癖のように店先の看板を見上げた。カレンの夫は数年前に他界し、それ以来は一人で店を切り盛りしているという。彼女の赤茶の髪色を愛した夫。つけた食堂の名は「煉瓦亭」。飾り看板に鈍く光る赤銅色のその名を見るたびに、ロゼは形容しがたい喜びを感じる。人と人との情や繋がりのようなものは、ロゼには馴染みがなく、けれどその存在にとても暖かな幸せを感じるのだった。
聖都を追い出された日、与えられた金貨でなんとかたどり着いたこの街リーヨンを、ロゼは愛している。聖都から馬車で5時間ほど離れた中規模の港湾都市。王都とその賑わいは比べるべくもないと人はいうが、ロゼにとっては十分に大きく、そして多様な人々が住んでいる。
煉瓦亭で、ロゼは朝の9時から夜の8時まで働く。辛いと思ったことは一度もない。合間合間に休憩がもらえるし、こうして食事ももらえる。失敗ばかりしてはいるものの、体を動かしたり、人と話したりすることがこんなにも楽しいことだとは知らなかった。カレンは食堂に備え付けだった物置の一部屋を空けて、そこをロゼの部屋にしてくれた。ロゼはそこで寝起きし、仕事をし、ご飯を食べる。それだけで毎日はこれまでにないほど充実していて、そしてその全てに満足している。
(生活って、素敵だ)
その上、その合間で与えられる休憩時間には、最近日課が増えた。今日も今日とて日課をこなすべく、ロゼは店から綺麗に舗装された石畳を歩く。兵士の詰所を過ぎ、数十分もすれば、そこはシュリヨンの森の入り口だ。
「こんにちは、シュリヨン」
かけた声に返事はないが、木々がさわさわと揺れて頷く。森は霊力の宝庫だ。特にこの森、シュリヨンは、穏やかで暖かな霊力に満ちている。人と精霊が相対しているとこうはいかない。人間が愚かな振る舞いを繰り返せば、彼らはこちらに牙を向く。ロゼはあらゆる文献からそのことを知識として知っていたから、最初は恐々としながらシュリヨンに立ち入った。
だがすぐにわかった。ここは、人を歓迎してくれる。
「良い街だね。わかるよ。みんな良い人だもの。それにこれもある」
シュリヨンの森でそれを見つけたのは数日前のことだ。不自然にひらけた空間に浮かぶのは、銀色の淡い輝きで繊細な文様を描く、見たことがないほどに大きく美しい、それは霊唱と呼ばれるもの。
『霊唱とは陣であり唱である。神霊を解しそれと対峙せよ。彼らを敬いそれを乞え。さすれば導かれん』
ロゼが塔で擦り切れるほど読んだ、「始まりの愛し子」の執筆した本にはそうある。この大陸で霊唱を唱えるのは神官たちだ。下級神官たちの唄でもお守りほどの効果が得られるが、より霊力をもつ高位の神官であれば、例えば災害から街を守ることも、逆に攻撃することもできる。
愛し子ともなれば、より広域に対して強い霊力を保たせることができる。
「誰が歌った霊唱なんだろう。本当に綺麗」
ロゼは霊唱陣の前に座り込み、ホットサンドを頬張りながらしげしげとそれを眺める。美しく完全な円形の中に細かく書き込まれた文様の数々は、その一つ一つに意味がある。
「シエントラをこんな位置に……そうか、これは形を変えたエルトラなんだ。じゃあやっぱり、守ってくれとお願いしているわけじゃないんだね」
ぶつぶつと独り言を言いながらホットサンドを咀嚼する。今日の具材はハムとチーズだ。パンにたっぷり塗られたバターが噛むごとに染み出し、美味しい。
「そうだ、懇願が入ってない。婚姻……違うなあ、友愛?」
現代に愛し子は四人いて、ロゼは本来その一人だったのだが、いわゆる出来損ないだった(らしい)。精霊王の愛し子と呼ばれる存在たちは、この大陸中に広がる精霊教の神の代弁者に等しく、精霊王の声を聞き、その導きを世に伝え、そして圧倒的な精霊力を霊唱を通して行使する。
だがロゼには何もできなかった。何の声も聞こえなかったし、霊唱は一切の霊力を発動しなかった。そんなことは歴史上初めてで、そして精霊王の声を聞けない愛し子の存在は、誰にも知られてはいけなかった。なぜならそれは、「精霊教の危機を招くから」だと、兄は言った。
世話役も誰も、ロゼが本当は愛し子として生まれたのだとは、知らなかった。ロゼはいないものとされた。
「あ、ここちょっと歪んでる。ふふ、難しい部分だよね、歌ってるときに慌てたのかな」
だからロゼは、知識で補うことにした。幸い霊唱の陣自体は、知識さえあれば誰にでも描ける。霊力を伴わない歌に意味などないが、愛し子であるからには精霊王の意思をくみ世の助けとならなければならない。
……という建前はともかく、ロゼには他にやることがなかった。誰も彼もがロゼの扱いに困っていて、邪険にもできないようだった。神殿に保管された蔵書の数々は、望めばいつでも手元に届けられた。
そうして、ロゼの知識は大きく偏った。精霊のこと、精霊が宿りやすい植物とそれらを調合してつくる霊薬のこと。それから、人の持つ霊力と霊唱のこと。これら主に精霊にまつわることであれば、おそらく大陸中を探してもロゼほどの知識を備えた人間は見つからないだろう。なにせ生まれてこのかたそれらの研究しかやることがなかったのだ。聖都という場所柄、どこにもない記録の数々が、そこにはあった。
でも、霊唱の分析や霊薬づくりは今やただの趣味だ。もう愛し子でもないロゼがそれをやる理由はない。とはいえライフワークのようなものなので、こうして個人的に楽しんでいるのだった。
「綺麗だね。すごく優しい霊唱。歌い手は、どんな人だったのかな……」
手元のホットサンドはすっかり包み紙が残るばかり。ロゼはしばし霊唱の歌い手に思いを馳せたあと、森を後にして食堂への道を戻った。
その後ろ姿を眺める人影があったことには、気づかなかった。