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平和だ。ロゼは木立の隙間に腰を下ろし、陽だまりの中でホットサンドを頬張りながらしみじみと思った。目の前には大きな霊唱。今日も美しいそれは、どれだけ眺めても飽きない。
先日の一件でトアンは忙しいのか、ここ数日はお呼びがかからなかった。だからロゼは休憩時間をかつての日課にあてている。
(あの人、どうなったんだろう)
ロゼが拘束し、トアンが「人質」にした青年。
あの翌日、煉瓦亭での仕事の前に、ロゼはこそこそと現場に行ってみた。そこに倒れる男たちの姿はなく、霊唱には歌い返しの陣が残っていた。彼ら自身で唱えたのか、誰か仲間が助けに来てそうしたのか、ロゼにはわからない。
だが、よかった、と思った。あのままでいるのは大変だっただろう。
ロゼは自分があまり物事に頓着しないことに多少自覚がある。彼らの目的、トアンの存在、これからのこと、実際あまり気にならないのだ。
(結局、私には関係ない。これまでに一度として関係があったこともない)
ロゼの目は感情を映さず、霊唱を見るようでいて何も見ていなかった。思い起こすのは、生涯を過ごすと思っていた幽閉塔の部屋。
クリーム色の壁紙。ランプの明かりと積み重なる本。ロゼが毎日向かい続けた重厚な石の机。万年筆、インクの匂い。本の中に現れる人々だけがロゼにとっての「人間」だった。
精霊教は精霊王への献身を通じた人間たちの救済を説く。ロゼは一度もそれを実感として持ったことがなかった。なぜ救済が必要なのか。精霊を精霊そのものとして感謝するだけではなぜ駄目なのか。愛し子とはなんなのか。どうして人は「救われたい」と思うのか。
塔を出て、人間たちと暮らして、初めて知ったのだ。
(みんな、とても生きることに一生懸命だ)
その必死さが自分にはないことにも、気づいてしまった。
(だって私たちはこの世を巡る精霊の一部。たまたまひと時人間の形をとっただけの、無常の存在。私は精霊にしか興味を持てない。それだけしか確かなものはない)
カレンやアスラン、ドゥールといった親切な人々のことを、ロゼは好ましいと思う。カレンとその亡き夫のような、魂が精霊の元に還っても繋がり続けるような「何か」には憧れすら抱く。けれどロゼにはよくわからない。
ロゼの立ち位置はいつも、人間よりも精霊に近い。自分の感情には、本当の意味での「情」は存在しないように思える。
人間にもなりきれず、かと言って精霊王の声も聞けない不完全な愛し子もどき。
どっちつかずの自分には、これが私だと胸を張れるものがない。
(でも、褒められるのは嬉しい)
ロゼはトアンが「よくやった」と自分の頭を叩くときの、あれがとても好きだ。自分を肯定されたと感じるのだ。
すっかり自分はあの人に手懐けられた犬と化している気もしないではない。でもロゼはそのことに、あまり不満はないのだった。
しばしそうして物思いに耽っていたロゼを現実に引き戻したのは、誰かが木々をかき分けて近寄ってくる音だった。ロゼは反射的にそちらを見る。
ややあって飛び出してきたのは、
「あ……ああっ……」
たっぷりとした黒髪をきつく一つに縛り、山歩きの服装として満点の長袖の上下に身を包んだ女性。霊唱陣を指差し震えている。
「オリヴィアさん」
「あったーーーーー!」
オリヴィアは快哉を叫んだ。
「やっと、やっと見つけた!ああ、もう、ああもう!あー嬉しいーー!」
今にも喜びに泣き出しそうなオリヴィアを、ロゼはしばし呆気にとられながら眺めた。しばらくそうして飛び跳ねていたオリヴィアがやっと自分を取り戻し、ロゼの存在に気づくまでは、数分かかった。
「あら、あなた」
オリヴィアは本当に今の今まで気づかなかったという風に驚いている。
「オリヴィアさん、こんにちは」
土に直接腰をおろし、昼食を広げるロゼの様子を、オリヴィアは上から下まで確認する。それから、ふと何かに気づいたかのように厳しい顔でロゼを睨んだ。
「この場所、トアン大神官に聞いたの?」
「え?」
「この霊唱の場所よ。あの人があなたに教えたの?」
ロゼにはいまいち話が見えない。
「ええっと、違います。トアンさんとここに来たことはないです」
「だったらどうしてこんな場所でご飯なんて食べてるのよ。
「ええっ、その、偶然見つけて、綺麗だったので」
見ながら食べようかと思って……と、オリヴィアの勢いに気圧されしりすぼみになるロゼの言葉を、彼女はちっとも信じていないようだった。軽蔑するような半眼を投げかけられ、ロゼは困り果てる。
「ああ、そう。なるほどね。そういうこと」
「『そういうこと』」
どういうことなんだろう。
「でも、残念ね。これからこの街は忙しくなる。トアン大神官も、もう暇していられないのよ」
やっぱりあの人は暇していたんだろうか、とロゼは関係のないことを考えた。
結局トアンが街に来てしていたことといえば、散歩だ。悪い人たちを捕まえようと何かしら画策してのことだったのだろうが、少なくとも実際に彼がしたのは散歩だけ。
「何かあるんですか?」
尋ねたロゼの無知を笑うように、オリヴィアは鼻をならす。
そして心底誇らしい、といった風に言い放った。
「夏の月祭りに、輝きの愛し子様がいらっしゃるのよ」
ロゼは石のように固まった。頭は真っ白だ。何の言葉も出てこない。
その反応をどうとったのか、オリヴィアは得意げに続ける。
「世間知らずのあなたでも、愛し子様のことは知っていたようね?かのお方がこんな地方都市の祭礼にこられるなど類を見ないことよ。これから神殿はお迎えのご準備で忙しくなるわ」
トアン大神官も、もうあなたと遊んでいる暇はないということよ、とオリヴィアは続けたが、ロゼは聞いていなかった。
逃げよう。
それしかない。
全て置いて今すぐ逃げるしか。
その後もオリヴィアは、トアンにとってのロゼがどれほど矮小な存在であるかを言い募ったが、ぴくりとも反応せず呆けているロゼを見て、つまらなそうに話をやめた。
「まあ、でも、あなたはあなたの役割を全うすることね。リーヨンならそこそこ良い男が他に見つかるわよ」
何に対する慰めかもわからない捨て台詞を吐いて、オリヴィアは去っていく。
(私の役割)
そんなもの、それこそ兄に聞きたい。
でも聞きたくない。知りたくない。
(逃げよう)
ロゼはそう決めた。




