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「シュリヨンの花は咲いたか?」
開口一番そんなことを尋ねられたので、ロゼは笑顔で答えた。
「咲きましたよ!でも思った以上に苦かったです。あれはそのまま食すにはちょっと……」
ロゼの答えにトアンは少々面食らったようだった。
「食べたのか?」
「『シュリヨンという淑女から溢れる蜜』、と本にあったので」
甘いのかなと思ったんですけど、と続けると、トアンは吹き出した。
この人と会話しているとこういうことがままある。自分は一般常識にのみ疎いのだと思っていたが、実は学び続けてきた分野に関しても、知らないことが多いのかもしれない。大概トアンは馬鹿にせずロゼの知識を正してくれるが、今回の自分はよほどおかしなことを言ったらしい。
ロゼがトアンのもとで「働く」ようになってしばらく経つ。その生活は思ったよりも悪くなく、むしろロゼにとってはこれまでと同じかそれ以上に「充実」した毎日となっていた。
毎日新しい発見があるが、その一つはトアンという人間が思いの外、素直に笑う男だということだ。
「なるほど、『世界録』か。あれはそういう意味じゃない」
「どういう意味なんですか?」
ロゼが大好きな本、始まりの愛し子が書いた「世界録」は、大陸を旅したかの人の旅行記だ。その本の中で、シュリヨンについてはこう書かれている。
『気高き貴婦人の花、その凛然たる立ち姿。秘められた花弁が開くとき、シュリヨンという淑女から溢れる蜜に男は歓喜する』
ロゼが諳んじると、トアンはとうとう声をあげて笑った。
そして子供にするようにロゼの頭をぽんぽんと叩く。
「アンタにはまだ早い」
この人は自分を犬か何かだと思っているのではないか、とロゼはたまに思う。結局「シュリヨンの蜜」の本当の意味は教えてもらえなかった。
ロゼの生活の大筋は変わらない。煉瓦亭で寝起きし、煉瓦亭で働く。唯一変わったのが、昼過ぎから夕方までの時間、トアンの手伝いをしていることだ。もともとその時間帯に長い休憩を取らせてくれることが多かったカレンは、トアンの依頼を快諾した。この子が大神官様のお手伝いをできるなど光栄なことだ、と嬉しそうですらあった。
トアンはロゼに、彼のために働けと言った。だが実際にしているのは、
(散歩と雑談、あとはたまに、「書き換え」……)
今日も今日とて二人はぶらぶらと中心街を歩き回っていた。
行く先は、これまでのロゼであればあまり足を運ばなかった場所ばかり。だから気づかなかったのだ。主に入り組んだ裏路地に、または住居の隙間に、ぱらぱらと点在する不穏な霊唱。どれも数日内に歌われたもので、同じ特徴を有し、そして毎日どこかに増えている。
トアンは街を歩き回ってそれを探していたのだ。
その行く先々で人々に声をかけ、親睦を深めながら。
「今日は見当たりませんね」
「そうだな。そろそろ思い知ったことだろう」
「何をですか?」
横に並ぶトアンを見上げて尋ねると、男は意味ありげにロゼを見返す。
「手強い厄介者がいる、とな」
その意味がわからず、視線で先を尋ねたが、トアンは楽しげな笑みを返すのみだった。
悪い影響をもたらそうとする異国の霊唱。その歌い手の目的は当然、この街、もしくは国への攻撃だろう。霊唱を用いた国間の争いがあることはロゼも知識として知っている。歴史書の中でも繰り返されてきたことだ。
だがロゼがわざわざ書き換えずとも、トアンなら自分で歌い返せるはずだ。元の陣に被せるようにして新しい陣を残せばいい。大神官ほどの霊力を持つ者の霊唱であれば、元の陣の効果を打ち消し、ゆくゆくは陣を消せるだろう。こめられた霊力が尽きれば陣は消える。
トアンはあえてそうせず、他国のなにがしかが残す霊唱を見つけるとは、ロゼに願望のみを書き換えさせる。
「餌をまいている」、とトアンは言う。それ以上は教えてくれない。
気にはなるが、それほどでもない。トアンがロゼの存在を聖都に秘密にするという約束を守ってくれている限り、できることがあるならば協力したいとロゼは思っている。
それに、それらしくなくとも彼は大神官だ。精霊王の意思に背くようなことはしていないだろう。多分。
ところでロゼは未だに、トアンの霊唱を聞いたことがない。
「聞きたいんですけど」
「イヤだ」
笑顔の一刀両断である。ロゼはめげずに言い募った。
「ちょっとだけでも……」
「イヤだ。アンタ、他人の霊唱を聞いているときに自分がどんな顔をしているか知らないだろう」
思わぬことを言われてロゼは考えた。顔?
その様子からロゼの自覚のなさを悟ったトアンは、呆れたように半眼で告げる。
「褒美の肉によだれを垂らす犬の顔だ」
失礼すぎる。
だが確かに心境として間違っていないので、ロゼはそれはそうと甘んじて認めることにした。
「じゃあ私は今トアンさんに「おあずけ」されてるんですか」
トアンは声をあげて笑う。
「そうだ」
「いじわるですね」
「知らなかったのか?」
したり顔で目を細めるその表情は「意地悪神官」の印象そのもの。
「……もしかしてわざわざ私に「書き換え」させるのって、私の前で歌いたくないからですか」
「さてな」
さらりとはぐらかされ、ロゼは不服ながらも、それ以上聞くのをやめた。どうせ教えてくれない。
「さて裏も回るか」
そういって裏路地に足を向けるトアンに、ロゼは大人しくついていった。




