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神殿に入ろうとしたオリヴィアの視界の端をかすめる、くすんだ灰色の髪。視線を向ければ、お団子頭の小柄な娘もこちらに気づいた。彼女はぺこりと小さく会釈し、そのまま駆け出して行く。
トアン大神官がリーヨンに来てからもうひと月近くが経とうとしている。彼の毎日はといえば、礼拝にはかろうじて顔を出すものの、それ以外では日がな一日街をぶらぶらと散策しているようだ。当初はリーヨンの神殿の神官を順番に伴っていた彼だが、最近はあの煉瓦亭の娘、ロゼを連れている姿を良く見かける。
曰く、「手伝ってもらっている」らしい。
霊力もない、この国どころか世間一般の常識にすら疎い娘に、何を手伝わせているというのか。自分の方が絶対に役に立つのに、とオリヴィアは歯噛みした。
オリヴィアはもともとリーヨンよりもずっと小さな街の生まれだ。神官になったのは、そうでなければあの田舎街で、うだつの上がらない男たちの一人と結婚し、そうして生涯を終える未来しか残されていなかったからだ。
精霊教は巨大な宗教団体だ。選べるキャリアも幅が広い。中級以上の神官になれば、地方の神殿勤めの他にも、専門職の道だって選べるようになる。神殿勤めの下級神官として市民の小さな困りごとを聞いて回ったり、冠婚葬祭の霊唱を担当したり、そういった仕事も別に嫌いではない。でも例えばアスランのように、その役割に満足してもいない。
(私は出世して、力ある神官の地位が欲しい)
そのためにはまず中級神官にならなくてはならない。できれば大神官にも名前を売っておきたい。
だというのに。
『シュリヨンの森で古の霊唱を探してこい。見つけられたら再試験にしてやろう』
オリヴィアは昇級試験を通らなかった。
大神官トアンはあの日、好きな霊唱を唱えろと言い、オリヴィアはこれまでもっとも歌った回数の多い、「守護」を唱えた。トアンは真顔で聞いていたが、浮かび上がった霊唱陣を良く見もせずに、そういったのだ。
(私の陣の方が、アスランよりも力があったのに)
アスランにも同じことを要求したトアンは、アスランの陣のことはしげしげと眺めていた。それから、発声がどうだのトライエンがどうだのと、細かいアドバイスをしたのだ。
オリヴィアにはなんの具体的な話もしてくれなかったのに。
(街に同伴したのもアスランばかりで、私は一度だけ)
悔しい。でも、上昇志向が強く負けず嫌いなオリヴィアは、めげなかった。それ以来、毎朝早朝から森に入り、慣れない山歩きを繰り返し、トアンのいう「古の霊唱」を探している。
だがそれは影も形もなく、オリヴィアがこの数週間で得たものといえば、足の筋力と山道の知識だけだ。
神殿の門をくぐれば、聖堂には掃除を行う数人の下級神官と、それを手伝うトアンの姿があった。
「おはようございます、トアン大神官」
「おはよう。森はどうだった」
嫌味かとオリヴィアは思ったが、顔には出さなかった。この男はオリヴィアと顔を合わせるたび、今日の森はどうだった、とそれしか聞かない。
「今日も何も見つかりませんでした」
「そうか。シュリヨンの花は咲いたか?」
(シュリヨンの花?)
「え?ええと、確認していません。明日は見るようにします」
そんな指示は出されていなかったのでオリヴィアは少々困惑したが、模範的な回答をする。その答えにトアンはつまらなそうな顔をして、そうか、とだけ言った。
(何、その、顔!?)
オリヴィアは苛立ちが顔にでないよう、口を引き結び手のひらを強く握る。
自分はアスランとは違う。配属時に与えられた街や地域に関する資料だってしっかり読み込んだし、ちゃんと記憶している。シュリヨンの花とはあの森に咲く青い花の通称だ。そんなことはわかっている。でもその開花を確認しろとは言われていない。
オリヴィアは苛々と掃除道具を手に取り、苛立ちをぶつけるように石造りの椅子を擦った。
「おはようオリヴィア」
「……おはよう」
声をかけてきたアスランに笑顔を向ける余裕はなく、オリヴィアはムッとした表情のまま挨拶を返す。それだけでアスランは何事か悟ったようだ。自身も雑巾を手に取ると、隣に並んで掃除を始める。
「またトアン大神官に何か言われた……?」
「何も。私はつまらない能無し神官よ。でも絶対にこのままじゃおかない」
「……顔がやばいよ、オリヴィア……」
怯えたアスランの様子に、自分が悪魔もかくやの形相をしているらしいと気づいたが、オリヴィアはふん、と鼻を鳴らした。




