libertad
出番は、演者を待ってはくれない。
あれから数名の演奏が続き、いよいよ最後、俺と詩の時間がやってこようとしていた。
「いよいよだね~」
緊張とは無縁と言わんばかりに、左側にいる詩はいつものテンションで話しかけてきた。
「あ、ああ」
「あれ~、緊張してるの~?」
「してない。集中しているだけだ」
「む~、ダメだよ~。こういうときこそ、スマイルスマイル~!」
ニッコニッコと笑いながら視界に入ってこようとする。うっとうしいので俺は逆に目線を逸らす。
すると今度は俺の左手を掴んできた。
「これなら~、緊張しないよね~?」
「だからしてないって……」
俺は振り払おうとする。
――震えていた。俺ではない、小さな手が。
「お前、緊張している、のか」
気がつけば、口から声が出ていた。
「へ? あ~」
詩は下を見て、気まずそうに笑いながら手を離す。
「はは~。わたしって分かりやすいな~」
それはずいぶんと前から知っていたが、そんなことはどうでもいい。
「前に、コンクールで氷吏さんがぷすーってしてたって言ったよね~?」
「ぷすーっは違う気がするが、まあそうだな」
「それ、氷吏さんだけじゃ、なかったんだ」
まあ、そうだろうな。
上を目指して必死に努力してきたピアニスト達が集っているところで、他人の演奏を聴いて素直に笑顔になれる訳がないだろう。
「わたしはね、聴いてくれたみんなを、笑顔にしたいんだ」
……夢物語だ。
音楽はこの現代でも芸術であることには変わりない。芸術には、好みがつきものだ。どんなにクオリティーが高くても、好みに合わなければ評価されない場合だって充分にある。
「あのコンクール以外でも、笑ってくれない人はいたんだ。大体の人たちは笑顔だったけど~」
だがそれを、今の彼女にぶつけてはいけない。でなければ、目の前の女の子が壊れてしまうような気がする。
語っている時の詩が、ちょっとした衝撃で割れてしまうガラスのように思えるから。
「それに気づいてからね、よく緊張するんだ」
「楽しくは、ないのか?」
「楽しいよ。けど、やっぱり不安」
詩は、信じたいのか。自分の夢は、必ず叶えられるものなのだと。
俺と、何も変わらないではないか。母を超える。そのために、がむしゃらに頑張って。でも上手くいかなくて。なんとかしようと足掻いている。
「不安になってる場合か」
俺はしゃがんで詩の顔をしっかりと見る。
「ぇ」
彼女の目が大きく開く。
「ピアノでみんなを笑顔にするんだろう。なら、お前がここで萎縮していたら、できるものもできなくなるだろう?」
我ながら、矛盾しているなと思う。
だけどこいつなら、気がついた時には成し遂げているのではないかと、どこかでそんな予感がする。
「だからお前は、お前のやりたいようにピアノを弾くんだ」
今度は、俺が頑張る番だ。
「うん。なんだか勇気、でたかも~」
うっすらと、詩は笑う。
「わかった~。でも、もちろん氷吏さんを一人だけ~、置いてけぼりにはしないよ~?」
そっと、詩は両手で俺の手を握る。
「一緒に、楽しく踊ろうね~」
「ああ」
俺も顔をほころばせる。これでこそ、俺の知る篠崎詩だ。
……いかんいかん。恥ずかしくなってきた。
「篠崎詩さん。小柳氷吏さん。ピアソラ作曲。『リベルタンゴ』」
アナウンスが流れる。詩が手を離し、俺はそのタイミングで立ち上がった。
「いくぞ」
「はい~!」
俺たちは、一斉に明るく照らされた舞台へと歩き出す。
ソロの時みたく前に立ち、同時に礼をする。
やはり、拍手の音が大きい。きっと自分ではなく、詩に向けられているのだろう。
顔を上げ、俺はピアノ椅子の左側に、詩は右側に座る。
目線を合わせ、俺から弾き始める。
歯切れの良いロック調のフレーズの後に、詩は高音でアクセントを加える。
この作曲者であるピアソラ、彼の通り名が〝タンゴの破壊者〟。それまでのタンゴの常識を覆したのがこの曲だ。
本当に一九七〇年代に作られたのかと疑ってしまうほど、弾いていて痺れる。ロックのような疾走感と圧を会場中に放っていく。
だが、何か物足りない。
いつもの詩と違う。いつもの自由さがなく、音に硬さを感じる。このままでは絶対にダメだ。
一つ試してみよう。
本来なら低音を担当する俺は、詩が鳴らす音よりも目立ちすぎてはいけない。それは素人でも想像がつくことだ。
だが、そんな常識はいらない。
タイミングを見計らう。まだだ。まだ、まだ、まだまだまだまだ…………ここだッ。
ピアノを壊すかのごとく、文字通り指を叩きつける。
「っ?」
詩が僅かに息をのんだことが伝わってくる。
どうやら気づいたらしい。
それから詩の目が少し揺らぐ。俺は頷くようにより大胆に鍵盤を押す。
瞬間、隣からあり得ないほどパワーのある音が聞こえた。
詩が――暴れ出した。
縦横無尽に、指を動かしていく。俺の事など眼中にないのだろう。気を抜けば置いて行かれる。
やはり、そうだったか。
詩のことだ。俺に気を遣っていたのだろう。
なんともまあ、ばからしい。そして憎たらしい。
3―3―2のカウントを意識しつつ、振り落とされないように必死に指を動かす。
観るタンゴから聴くタンゴへ。それまでになかったアレンジがなされ、常識外のリズムを取り入れ、前代未聞の音楽となったこの曲のように、俺と詩は協力するのではなく勝負をする。協調性なんてクソくらえだ。最初から俺たちに、そんな大それたことなんてできるはずがないのだから。
一度、音が静かになる。しかし血は徐々に煮えたぎっていく。複雑なシンコペーションで且つ間隔の詰まったフレーズを繰り返し、再び特徴的なオクターブのリフを奏でる。
もっと、もっと、もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと、もっとだ!
俺は挑発するように音を変化させ、詩が予想を超えたアドリブをする。体裁を保つのに必死になりながらも、演奏はさらなる盛り上がりを見せる。
俺たちは全力でぶつかり合い、ラストに詩は渾身のBの和音に加えてグリッサンドで降下し、体をこちらに大きく寄せて鳴らしきった。
……長く続くと思っていたのに、なんだかあっけなく終わってしまった。体力はまだ、充分にあるというのに。
思わず鍵盤に触ってしまいそうになる。だが、隣から袖を小さくつままれた。
「ほら~、いくよ~」
詩はそう促す。
だがそんな彼女も、どこか物足りなさそうにしていた。
それでも、俺たちの時間はここまでだ。だから舞台を去らないといけない。それは理解している。だが、体が動かない。詩も、立ち上がろうとしない。諦めろという意味を込めて、俺は首を横に振る。そんなことをせずに自分から立ち上がればいいのに。でも無理だ。だけど……。
「アンコール! アンコール!」
突然、ホールに聞き覚えのある声が響く。俺と詩はすぐにその方向を見る。
そこは観客席で、声の主は……篠崎先生だ。
発表会でアンコールとか、バカなんじゃないのか。
だがそんな考えはお構いなしといわんばかりに、さらに声が増える、増えて、増え続ける。手拍子をする人さえも出てきた。どうなっているんだ。
「氷吏さん」
俺は詩を見る。彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ、挑戦的な笑みを浮かべる。
「ついてきてくださいね?」
「……なめやがって」
今に見てろ。
俺はすぐにピアノに向き直り、右から左へグリッサンドし、アレンジを加えまくって演奏を始める。隣から原型をギリギリとどめた旋律が返ってくる。
やりやがったな。俺は思わず詩の方を見る。視線に気づいたのか、彼女をこちらを見返し、まだまだ序の口をいわんばかりに口角を上げる。
もはや完全に俺たちの自己満足による演奏になってしまっている。
だが、いいじゃないか。
元々由来のlibertadには、〝自由〟の意があるのだから。
それに観客席にいる人たちが、わくわくしながらこちらを見ている。なら、その期待に応えなければならないだろう。
だがそんな思いは一瞬で忘れ、俺はひたすら、詩との無限に続くのではと思えるほどの音楽に身を委ねた。