ラプソディー&ワルツ
ソロの出番がやってこようとしていた。
薄暗い舞台袖で、俺は何度も深呼吸を繰り返す。落ち着けと、自分に言い聞かせるように。
拍手の音が耳に入ってくる。いつの間にか、前の演奏が終わっていたらしい。
前の演奏者が、ふぅと息を吐きながら俺の横を通り過ぎる。心臓の鼓動が速くなっていくばかりだ。
「小柳氷吏さん。ガーシュイン作曲。『ラプソディーインブルー』」
アナウンスが流れる。同時に俺は一気に息を吐き、舞台へと歩き出した。
照明があたり、一瞬だけ目を細める。
前へ行き、観客席を見る。そこには、お客さんがまばらに座っていた。
一礼して拍手を受けた後、俺はピアノ椅子に座って弾きやすいように位置を調整する。指先を鍵盤に乗せ、またゆっくりと深呼吸をする。
細かく小さく上下に震えさせるように二音を奏して勢いよく音の階段を駆け上る。
指が、軽い。
余計な不純物が、体から一切消えた。
ラプソディーならではの自由な構造が、練習の時よりも楽しく思える。
ステップを踏むようなスタッカートが楽しい。疲れを知らず、指は意思とは関係なく動いている。
真夜中の静けさ、暗い夜空の情景をしっとりと奏でる。
太陽が顔を出す。重厚な和音の一つ一つから、夜明けを歓迎する思いが滲み出る。
そしてここから、特殊な弾き方を要求される。右手の上に左手を重ねるような形になり、サスティンペダルを一切踏まずにほぼ同じフレーズを繰り返す。雨でも降ったのだろうか。小さなトラブルにでも見舞われた印象を受けるパートだ。
そして左手を元の低音部に移動させたり、また戻したりして、最後には右手で高音部へグリッサンドしながら、左手で単音を繊細に、だけれど大胆に添える。
その後は複雑なシンコペーションのメロディーをオクターブメ奏法でひたすらに勢いよく紡いでいく。必要な音の伸びが一秒でも消えないように、序盤にあった特徴的な旋律を紡いでいく。
まさにラプソディー。まさにシンフォニックジャズ。まさにイン・ブルー。
大空を駆け、さらに高みへ。
そしてフィナーレに、俺はA#7の和音を思いっっっきり鳴らした。
残響がうっすらと広がる。目に汗が入ってきた。背中の感触から、シャツもびっしょり濡れてしまっているのが分かる。
ここまで演奏にのめり込めたのは初めてかもしれない。感動で胸がいっぱいだ。
……いけない。早く舞台を去らなくては。
俺は飛び跳ねるようにして椅子から立ち上がり、前へと歩き、礼をする。
――一つ、また一つ、拍手の音が膨れ上がってきた。
驚いて、俺は顔を上げる。
観客は全員、微笑んでいた。
一体俺のピアノのどこがそうさせてしまったのか、それは分からない。
だが今は、初めて見るこの景色を、しっかりと脳に焼き付けよう。
「すごく感動した~!」
控え室に入ってすぐに、詩が俺の両手を掴んでブンブンと縦に振ってきた。
「あんなにワクワクした『ラプソディーインブルー』は初めて~! 素敵~!」
まるで自分のことのように喜ぶ詩を見ていると、なんだかこっちが恥ずかしくなってくる。
周りを見ると、他の生徒たちがチラチラとこちらに視線をよこしていた。
「それに~、すごく楽しそうに弾いてたよね~! かっこよかった~!」
なんとなく、俺は咳払いをする。
「分かった分かった。というか、詩の出番はすぐだろう? 早く行ったらどうだ?」
「あ~、確かに~。じゃあ、行ってくる~!」
距離が遠いわけでもないのに、詩は大きく手を振って部屋を後にした。
あんなに笑顔の詩は初めてだ。
自分のピアノであれだけの反応を示してくれるのは、正直悪い気がしない。
俺は空いている席に座り、部屋にあるモニターを見る。
今までのコンクールではあまり他人の演奏を聴いてこなかった。しかし緊張が解れたのか、自然と耳に入ってくる。
こんなにもリラックスした状態で音楽を聴くのは、何だか久しぶりな気がする。
「篠原詩さん。ショパン作曲『華麗なる大円舞曲』」
詩は軽い足音を響かせながら、舞台の前まで歩いて一礼する。
演奏前とは思えない大きな拍手だ。それだけ期待されている、ということだろう。
椅子に座り、いよいよ演奏が始まる。
シのフラットのトリルをファンファーレとし、三拍子のリズムできらびやかな和音とメロディーのせめぎ合いを繰り返す。聴くだけなら簡単そうに聞こえる曲だが、弾いて初めて分かる難しさがある。
同音連打。普通にトリルをすればよいというものではない。
繰り返しのフレーズが終わると、すぐにその箇所に入る。
一つでもアクセントが乱れるとすぐに調和が乱される繊細なパートだ。連打の後には跳躍するように音が下がり、また続けざまに、鍵盤を連続して叩いては上へと上がる。
だが、それこそがこの楽曲の魅力だ。踊るための曲であるからこそのリズムの乗りやすさ。しかしどこか芸術的で、聴いていて心躍る気持ちになる。さすがショパンだ。ほとんど完璧に弾きこなしている詩も恐ろしい。
半分が過ぎたところでテンポが速くなり、さらに不協和音で鍵盤の階段を上り下りする。切れのよいスタッカートがより異質さを際立たせる。だがそれがいい。この刺激があるからこそ、聴いていても決して飽きない。
そこから休憩といわんばかりに落ち着いたテーマになる。踊る側にとっても聴く側にとっても嬉しい配慮だ。
そしてラストスパートに入る。最初の繰り返しのパートをもう一度弾く。さらに強弱のアレンジがなされている。そこで一度無音――左手の三拍子、そして右手はわざとらしく鳴らされる不快感のある音が徐々に大きくなり、フィナーレといわんばかりに盛り上がる。詩は、この世で一番の快感を味わっているのかというほど気持ちよさそうに笑っている。
繊細で手数の多いレガートを左へ右へ。そしてG#m6の三連符を決め、ミ♭でしっかりと締めた。
完璧だった。これ、本当にワルツだったのか?
踊ることさえ忘れてしまうぞ、これは。
詩は肩で息をしながら椅子から立ち上がり、前に出て礼をする。
それに気づいたのは、隣に座っている人の拍手のおかげだった。
モニターから、俺の周囲から、立て続けに音が増えていく。
やはり、焦ってしまう。早く、このピアニストを超えねばならないと。
だがそれよりも、俺はこの後の連弾の時間が恐ろしくなってきた。
本当に、俺で釣り合うのか?
今までの中でそれを思わなかったことはない。だが、その時とは比較にならないほどのプレッシャーが体にのしかかってくる。
いま舞台に広がっている空気の一切を損なわずに弾ききれるのか。
自分が、試されているような気がした。