舞台へ
「なるほど。だからなのね、氷吏くんのピアノがガラリと変わったのは」
数日が経ち、俺は再び音楽教室でレッスンを受けていた。
結局、俺は受講を継続することに決めた。まだまだ、自分の知らないことがあったことに気づかされたからだ。
自分より年下の、女子小学生のおかげで。
だが、同時に焦ってしまいそうになる。彼女が遙か先へと到達している気がしてしまう。
それでも俺は、ピアノを、音楽を楽しむことに注力することにした。
もちろん、本来の目標を諦めた訳ではない。ただ、そこへと至るまでに必要なものがなんであるかを知ったにすぎない。
「我ながらどうなるか心配だったけど、いい方に向かってくれてよかったわ~。あれから『きらきら星変奏曲』でテストして、満点だったって聞いたわよ」
「それは、まあ」
別の日のレッスンでいきなりやれと言われて驚いたが、なんとかなって安心した。「きれいで素敵で、氷吏さんの色々な星空が見れて幸せだった~!」とのことらしいが、具体的な評価は結局分からないままだ。
「それで、詩は来ないんですか」
そう。この場には篠崎先生と俺しかいない。
「あら、詩にまた教えて貰いたいの? まったく、嫌がってたくせに~。はっ! それとも、ついに目覚めちゃったとか?」
「間違ってもありえません」
それはただの犯罪者だろう。
「まあ、無事に壁を乗り越えられたことだし、もういいでしょと思ってね。ほら、あの子何言ってるか分からないときあるし、続ける方が大変でしょ?」
発言の何もかもが理解不能だったが?
「でも、氷吏くんがどぉぉぉぉぉぉしてもっていうなら」
篠崎先生がかばんから何かを取り出そうとしている。なんだろう。もう嫌な予感しかしない。
「ジャジャーン! 今月やる発表会のフライヤー!」
両手で勢いよく紙を見せつけられる。
「……発表会?」
何も聞いていない……と思っていたが、そういえば開催すると過去に聞いたような気がする。会場や時間をぼんやりと確認していくと、
『連弾 篠崎詩&小柳氷吏』
目を疑いたくなる文字列を発見した。
「いやいやいやいや! 待ってください。一体どういうことですか!」
「どういうこともなにも、氷吏くんには詩と連弾してもらうことになったから」
「何故なんですか? というか一度もそんな話聞いてませんよ!」
「だって言ってないもの」
「横暴だ!」
普通あり得ないだろう!
「でもほら、ガーシュインも同じ【ルビ:「おんな」じ】ように曲作らされて名盤を生んだんだから、きっと大丈夫よ!」
「そんな天才と俺を一緒にしないでください! 何があってこうなったんですか!」
「し、仕方なかったのよ! この前電話で出演断られちゃって、一枠空いちゃったんだから」
「だからって無許可はないでしょう……」
思わず大きくため息をついてしまう。
「はぁ。ちなみに、詩はどうなんです? 乗り気なんですか?」
「『わぁ~! すごく楽しみ~!』ってウキウキだったわ」
でしょうね。なんだかそんな気がしていた。
「というわけで、レッスンとは別で二人で練習しといてね~」
終了時刻になったのか、篠崎先生は椅子から立ち上がってスタジオを出ようとする。
俺も帰ろうとする。
あ、そういえば大事なことを一つ質問し忘れていた。
「先生。ちなみに演目はなんですか?」
「ああ。そうだった。伝えるの忘れてたわ」
急ごしらえになるだろうから、難しい曲ではないだろう。
そう思いながら聞いたタイトルは……。
「なんであんなに難しい曲を……」
更衣室で着替えを済ました俺は、控え室の椅子に座ってペットボトルの水を一口飲む。
あれからあっという間に本番になった。といっても、期間は二週間ほどしかなかったのだが。
おかげで、練習は苦労した。
何せ擬音でしか説明できない詩がパートナーなのだ。息もなかなか合わず、発言も訳が分からなすぎて困った。一応何とかしたつもりではいるのだが、不安が残る。
ちなみに、連弾は発表会の一番最後だ。その前にソロでの出演もある。そっちの練習もしないといけなかったため、正直辛かった。
それに、舞台に立って弾くのはあのコンクール以来だ。だからこそ、緊張が増して鼓動が速くなる。
思わずため息が出る。
「氷吏さ~ん!」
声のする方へ視線を向けると、詩が元気よく手を振っていた。衣装は以前のコンクールと同じ、桃色のドレスだ。彼女は裾を踏まないようにスカート部分を両手でつまみ上げながらこちらへ近づいてくる。
「元気がないみたいだけど~、大丈夫~?」
「大丈夫じゃ……いや、なんでもない」
「? そう~?」
ここでパートナーを不安にさせるわけにはいかない。できるだけ、いつも通りに振るまわなければ。
「安心して~。 今日まで一生懸命練習してきたから~、絶対に成功するよ~!」
「あ、ああ。そうだな」
割とバラバラだった気がするが。まあいい。
「今日は、楽しもうね~!」
そう言って詩は微笑む。
そうだった。先のことを考えるのではなく、今に集中しなければ。危うく忘れるところだった。
「もちろんだ」
俺もできるだけ口角を上げる。こいつには、感謝しなければならないな。
「じゃあ、わたしはお友達のところに行くから~」
「ああ。またあとで」
詩はステップを踏むように軽い足取りで控え室を去る。
さて、俺もイメージトレーニングでもするか。