聖母
それからゲームセンターに行ったり、スイーツバイキングに連れられたりと振り回され続け、いつの間にか日が暮れかけていた。
「はぁ~、楽しかった~!」
俺の隣を歩く詩は、両手に袋を持ちながらスキップをしていた。小学生の体力が怖い。俺は徒歩移動に加えて、詩が持ちきれない荷物と自分の持ち物で体が限界だ。
このあと教室に戻るらしいので、そこまでは持っていてやろう。というか本やらぬいぐるみやらたくさん入った袋たちを、彼女が一人で持ちきれる訳がない。
「氷吏さ~ん」
彼女は俺の疲れなんて知ったこっちゃないと言わんばかりに、笑みを浮かべてこちらを見る。
「楽しかった?」
……その言葉から、いつもの緩い雰囲気とは違う何かを感じた。
「まあ、それなりに」
ここで嘘をつくのは違うと思った。
ゲーセンの音楽ゲームは意外とやりがいがあったし、スイーツバイキングで久しぶりに甘い物をたくさん食べれたし、正直ピアノのことは半分ぐらい忘れてしまっていた。
パシャ。
シャッター音がいきなり聞こえた。
「いい写真とれた~!」
どうやら犯人は詩らしい。
勝手に人の写真を撮るなと注意しようとすると、その前に詩にスマホの画面を見せられた。
「笑えたんだね~」
そこには、ぎこちなく笑っている俺の姿があった。
してやられた。少し気分が悪くなる。
「じゃあ、俺は帰るからな」
軽く挨拶をした俺は、詩に背を向けてこの場を去ろうとする。
「え~! ちょっとまって~!」
待つ義理はない。
「まだ授業は終わってないよ~!」
何?
振り返ると、そこには口角を上げた詩の姿があった。
そして彼女は、音楽教室を指差す。
仕方ない。ここまで来たんだ。最後まで子供のわがままに付き合ってやろう。
俺たちは教室へと入る。すると奥の事務室から篠崎先生が出てきた。すかさず詩は声をかける。
「お母さ~ん。お部屋どこか空いてない~?」
「んー? 手前のところなら空いてるから、好きに使っていいわよ」
「ありがとう~!」
言われた部屋に詩から先に入る。
そのまま俺がピアノ椅子に、と思っていたのだが。
すでにそこには、詩が座っていた。
「何を、するんだ」
一応、確認してみる。
「ほえ? そんなの決まってるよ~」
彼女は指先を鍵盤に乗せ、音を鳴らす。
『アヴェマリア』。それも、バッハとグノーの楽曲だ。
優しい音色のアルペジオが、階段を上り下りするように奏でられる。単純で、だからこそ慈愛に満ちた美しい主旋律が、歌うようにして紡がれる。
忘れもしない。それは、世界三大アヴェマリアのうちの一曲だからでも、クリスマスシーズンでよく流れるからでもない。
初めて、母さんが弾いてくれた曲だったからだ。
母さんは、まさに聖母のような温かさを持っていた。どんな時でも笑顔だった。感謝の心を忘れることもなく、驕ることもしない。俺にとって、憧れだった。そんな人のアヴェマリアが、素晴らしくないはずがなかった。自然と心のわだかまりがとれて、笑顔になれる。母さんが弾くこの曲は、他の曲と比べて特別なものだった。
あの瞬間、俺は母さんのピアノが好きになったんだ。
パシャッ。
突然のシャッター音に、ハッとさせられる。ピアノの音はもう聞こえない。
「あ~、氷吏さんが帰ってきた~!」
出どころは、詩が持っていたスマホだった。いつの間にか、演奏は終わっていたらしい。
何が起きたのだろう。もしかして現実を忘れてしまうほど、あいつの音にのめり込んでしまったとでもいうのか?
「いや~、いい写真が撮れたよ~」
困惑が収まらない中、詩は俺へと近づいてスマホの画面を見せてきた。
俺が、自分でも見たことのないほどに穏やかな顔をしていた。
「気づいてた~?」
「……いや」
分からない。詩のピアノで母さんを想起したからか? それとも、詩と母さんを重ねてしまったからか?
「ほほ~。さっきよりいい笑顔~。かわいい~!」
「うるさい。いいから消せ!」
段々と恥ずかしくなってきた。
「というかなんで『アヴェマリア』なんだ?」
「ん~っとぉ。それはね、この曲が~、わたしランキング一位になるぐらい~、大好きなんだ~。体がぽかぽかしてね~。よくお母さんと弾いてたの~」
詩はスマホをポケットにしまい、微笑んでから一言。
「楽しかった?」
「し、知らん」
こればかりは、意地でも口に出してはいけない気がする。
「……ずっと、思ってたの」
詩は後ろに手を組み、歩き回りながら語る。
「コンクールで氷吏さんを見かけたとき……氷吏さんはぷすーってしてた」
「そりゃ目指していた場所に、届かなかったからな」
詩の表情が、暗くなる。
「不思議に思ってたの。聴いてくれる人たちは、わたしの演奏で笑ってくれるのに……どうして悲しそうな顔をするんだろうって」
「お前が、天才だからだろう。自分が苦労しても辿り付けない場所に、楽々と歩いて行けるんだから。誰だって、お前を妬みたくなる」
詩はしばらく腕を組んで唸る。
「でも――氷吏さんはピアノが楽しいって思ってるんだよね?」
「っ?」
確かに、そうかもしれない。
今の俺は、母さんをバカにされたくないという一心でピアノを弾いている。だけど元を辿れば、あの日聴いたような心温まるピアノを奏でてみたいと、無意識に思っているのではないのか。
「だから、ね?」
詩はピアノから離れる。
目の前には、黒光りしているアップライトピアノが、弾き手を求めているかのようにあった。
「聴かせて欲しいな。氷吏さんの、心からの音。今まで感じてきた、いろんなこと」
あまりにも自然に、俺はピアノ椅子に座って足をペダルに乗せていた。
確証のない根拠が、目の前の鍵盤にある気がする。弾けば何かが変わると。
何をしても上達しない。何を成しても進んでいる気がしない。そんな先が見えない砂漠のその先が、きっとそこにある。
そしてこれは、言葉で表してはいけない気がする。
そうして俺は、聖母を称える歌を、そっと奏で始めた。