特別講義
これで済めば良かったのだが。
「一等星が消えちゃったね~。むむむ~」
「星どころかまっくらだよ~! 明かりをつけて~!」
「も~、全部同じ光にしちゃだめぇ~!」
とまあこんな感じで、演奏のアドバイスはいくら日をまたいでも変わることはなく、俺は一向に彼女に応えられなかった。
正直、もうやめたい。
だがあんなお願いをしてしまった以上、自分からやめさせてくれ、なんて言えるはずがない。なんとか我慢していかなければ。
そして学校が休みであるこの日も、俺は教室に向かっていた。
しかし、今日はいつもとは違う。
詩いわく、「ぜ~ったいに、氷吏さんのピアノがじょうずになる~、特別授業をするよ~!」とのことらしい。篠崎先生によると詩が勝手に言い出したことだそうで、授業料は一切かからないらしい。行く気はなかったのだが、どうしても来て欲しいとねだられてしまった。断れば後で面倒くさくなるに違いない。
まあ、肝心のピアノに対する期待は、ほとんどない。〝絶対に上手くなる〟なんてフレーズは嘘の匂いしかしない。
そうこうしているうちに教室に着き、クーラーの涼しさに感謝しながら部屋の扉を開ける。
「あ、氷吏さんだ~。こんにちは~」
ピアノの近くの床に座っていた詩が、笑顔でこちらに手を振る。
彼女の片手には、楽譜があった。今日は最初から真面目にする気なのだろうか。
「よ~し。時間だし~、これからレッスンしよ~!」
拳を上げ、詩は気分上々といった様子でいる。
これなら、比較的マシな時間になるだろう。いや、出来れば小学生に教えを請いたくはないのだが。
俺はショルダーバッグを荷物入れのかごに入れて楽譜を取り出し、ピアノ蓋の裏にある譜面台に置いて椅子に座ろうと……。
「ちょっとまった~!」
突然、詩が俺の右腕を掴んできた。
「どうしたんだ?」
なんだか、嫌な予感がする。
「あのあの~。今日のレッスンは~、特別な内容にしようと思ってるの~」
「へ、へえ。特別、ね。どんなことをするんだ?」
頼むから比較的普通なものであってくれ。
「ふっふっふ~。それはね~」
詩は両手を腰に当てる。そして勢いよく人差し指を扉に向け――。
「お出かけだよ~!」
訳の分からないことを口にした。
「わあ~、素敵なちょうちょさんがたくさんだぁ~!」
住宅街にある小さな公園で、詩がパァっと顔を明るくさせて飛び跳ねている。
まさか本当に出かけることになるとは。
「氷吏さ~ん、来てくださ~い。ここに見たことのないお花さんが~!」
「分かったから大声を出さないでくれ」
少し恥ずかしくなりながら、俺は詩へと歩み寄る。
「わぁはあ~! かわいい~! 今まで何回も来たことあるのに、なんで気づかなかったんだろ~!」
そこには、色とりどりの花々が確かにきれいに咲いている。
「氷吏さんは、どのお花が好きなの~?」
「別にどれも好きじゃないよ」
「え~! いっぱいあるんだから、どれかは絶対好きでしょ~?」
「まあ、強いて言うならあの赤いやつかな」
「お~! 確かにかっこいいもんね~!」
また頭が痛くなってきた。
「で、なんでこんなところに?」
すると詩は、待ってましたといわんばかりに両手を腰に当てた。
「ふっふっふ~。これはね~、リフレッシュの講義なんだよ~」
控えめにいって意味が分からない。
「お話を聞いてると~、氷吏さんってず~とピアノしてるでしょ~?」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないよ~! だからこうしてね~、きちんとお休みしないと~」
「なら帰らせてくれ」
俺は振り返って歩き出す。
すると詩は走って回り込み、両手を大きく広げて行く手を塞いできた。
「ちょっと~、まだ終わってないよ~!」
「終わりだ」
俺はもう一度後ろを向く。しかし詩がすぐさま前に出てきた。
「終わってない~!」
今度は右に行こうとするがまた邪魔をされる。左に動いた瞬間には、動きを読んだかの如く先回りされた。今度はフェイントをかけるが引っかかってくれない。
くそっ、絶対に俺は家でピアノを弾くんだ!
ダメだった。
「ふお~! これはわたしが好きな少女漫画の最新巻~! 買わないと~!」
帰宅を諦めた俺が連れて来られたのは、ショッピングモールにある小さな本屋だった。詩は、本棚から漫画を一冊取り出してはしゃいでいた。
「あれもこれも~、欲しい本がたくさんだぁ~!」
次から次へと、詩は目を輝かせながら本を手に取っていく。
「氷吏さんは、なにも買わないの~?」
詩から不思議そうに問われる。
「買わない」
「本~、読まないの~?」
「そんなことはないよ。小説ぐらいは……」
と、新刊コーナーに目を向けると俺の好きな作家の本があった。いつの間に新作を出していたのだろう。思わず俺は手に取る。
「ほえ~。ミステリーが好きなのか~」
詩が背伸びをして表紙を覗こうとしてきた。
「悪いか?」
「ううん~。あっちにも~、人気? な本がたくさんあったから~」
詩の指さす方を見ると、大きいPOPが設置されているコーナーが確かにあった。見に行ってみると、俺が前から気になっていた本がたくさんあった。
だがここで買ってしまうのは、何だかしゃくに障る。
「せっかく来たんだし~、欲しいものは買っちゃおうよ~!」
悪魔が囁くように促してくる。
いや、けど。あーくそっ! ピアノに集中するために意図的に買わないようにしてたのに……。惑わされるな俺っ! ここは我慢だ……!
「あ~、この本あと一冊しかない~」
いつの間にか少し離れたところに移動していた詩が、そんなことを呟く。よく見るとその本は、期間限定の表紙になっている、俺の一番好きなミステリー作家の本で。
「お買い上げ、ありがとうございました~」
や、やってしまった。
店を離れた俺たちは、近くにあるベンチに座って休んでいた。満足いく買い物が出来たからか、袋いっぱいに詰められた本を眺めながら詩が鼻歌を歌っていた。
「早く読みたいな~。ね~氷吏さん?」
「……そうだな」
帰ったら押し入れにしまっておこう。
「さて、まだまだ今日はこれからだよ~。いっぱい、いろんなところに行こ~!」
もう、帰られそうな雰囲気ではなかった。
「あのね」
笑顔だった詩が真顔になる。
「な、なんだ?」
表情の変化が極端すぎて、思わず戸惑ってしまう。
そして詩は、ある場所を指さし、
「おトイレに行きたいから~、この本たちの入った袋を持っててほしいな~」
「あ、ああ。わかった」
詩は俺にビニール袋を渡してすぐに走って行った。