でこぼこ
現在、時計の針は午後一時半を示している。
教室のスタジオにいるのは俺だけだ。
「……来ない」
あの小学生は初日から指定の時間に現れなかった。
この前はやる気に満ちた表情をしてただけに、少し落胆する。
子供だから、多少遅れるぐらいはと、最初の十分間は思っていた。だが、三十分が経過した今は帰りたい気持ちが強い。
だがまあ、せっかくだから一回だけ弾いてからここを出るか。そう決めて、俺はピアノ蓋を開ける。
ゆっくりと息を吐いて吸い、鍵盤を押そうとする。
「ごめんなさああああい!」
勢いよく扉が開かれ、詩の大声がいきなり耳に飛び込んでくる。そのせいで手が滑って変な音が鳴ってしまった。
振り返ると、肩で大きく息をしている詩の姿があった。手には小さなビニール袋を持っている。
「あれ、何か弾こうとしてたの~? ご、ごめんね~邪魔してぇ」
そんなことより、まずは遅刻したことを謝罪して頂きたい。
「それはいい。ところでその袋は?」
怒りを抑えつつ、遅刻の原因であろうものを指さす。
「あ~。これはね~」
ガザガザと音をたてて、中から何かを取り出そうとしている。ピアノ用具でも買いに行っていたのだろうか。
「じゃじゃ~ん! ビスケット~!」
思わず拳を振り上げそうになった。
「レッスンの前に、まずはお話をしようと思って~。お茶も買ってあるんだよ~」
詩は床にちょこんと座り、ビスケットのパッケージを開けている。
「い、いやいやいや。ちょっと待って」
慌てて俺は制止する。
「はえ? どうしたの~? あ、もしかしてビスケットきらい~?」
「そうじゃなくて。時間、とっくに過ぎてる」
「ん~?」
詩は時計を見る。首を右に傾け、何故か左にも傾け、元に戻して目をぱちくりとさせる。「ぁぁああああ~! もう四十分も経ってる~!」
頭が痛くなってきた。
「ごめんなさい~。そ、それじゃあ、レッスンをしよ~! ええっと、曲はモーツァルトの~『「女ほどすばらしいものはない」による8つの変奏曲』だよね~? キレイで可愛い曲だよね~!」
違うが???
「えっと、『きらきら星変奏曲』なんだけど」
「なんと~?」
モーツァルトは合ってるんだがな……。
「これ、楽譜」
かばんから取り出して詩に渡す。
「ありがとう~。よし、じゃあ早速弾いてみよ~!」
初日からこんな調子で大丈夫なのだろうか。
ともかく俺は改めて指を鍵盤に置き、ポロンと音を鳴らす。主題が終わり、第一変奏へ。
そして演奏を終え、隣の詩に視線を移す。
「う~ん~」
目を瞑り、腕を組んで首を左に右に動かしている。
やはり、周りの人間からすると自分の演奏はよく思えないのだろうか。いや、だからこそコンクールでは落とされたのだが。
「うん。分かった~!」
詩は真っ直ぐこちらを見てくる。
さて、一体どんな指摘をされるのだろう。
「ずばり、星が足りないんだよ~!」
……さて、一体どんな指摘をされるのだろう。
「あれ、もしもし~。聞こえてる~?」
「ん? ああ、ごめん。よく聞き取れなかったかも」
「そんな~! ちゃんと聞いてよ~!」
お前には言われたくなかった。
「だから、星が足りないんだよ~!」
「やっぱり頭おかしいんじゃないのか」
「え~、そんなことないよ~! 失礼だな~」
しまった。つい本音が。
「で、星が足りないっていうのはどういう意味なんだ?」
「星が足りないってことだよ~?」
「ごめん。もう少し意味が分かるようにしてくれない?」
「ん~っとね~。星っていう~、夜のお空できらきら~って光ってるのが少ないってこと……」
「そうじゃなくて、それがピアノにおいて何を意味するのかを聞いてるんだ!」
ダメだ。もう家へ帰りたい。
「ん~~~~~~~????」
詩は明らかに分かっていない様子だった。
「じ、じゃあ、一回弾いてくれないか? それなら分かるかも」
「あっ! なるほど~。それならやってみる~!」
詩は俺と入れ替わるように座り、音を鳴らす。
確かに違う。音の中に、色が内包しているような。これが詩のいう〝星〟なのか?
「こんな感じだよ~」
第二変奏まで弾き終え、詩は椅子から降りる。
俺は再び席に着き、先ほどの演奏をイメージしながら指を動かしていく。
「ストップ~!」
と、まだ主題部を終えていないのにもかかわらず制止されてしまった。
「まだ足りないよ~! もっときらきらさせて~、星の数を増やして~!」
きらきらさせる? 星を増やす?
同じ日本語のはずなのに、何を言っているかが全く理解できない。
「こ、こうか?」
自分なりに、最初のフレーズを弾いてみる。
「だめだよ~! 星が減っちゃってる~」
は???? 何故????
だんだんとイライラが溜まってくる。
「それなら」
今度はニュアンスを少し変えてみる。
「ん~。きらきらじゃなくて~、ぎらぎらしちゃってる~。もっとふぁ~っと演奏してみようよ~」
分かるかッ!
結局、この日のレッスンはほとんど収穫がなく終わってしまった。