小さな怪物
「ありゃりゃ~?」
女の子が首を傾げる。
この子、見たことがある。
桃色のワンピース、ふんわりとカールしたセミロングの髪。
もしかして、あの時の……。
「あー! 会場で目が合った人だぁ~!」
お願いだから人違いであって欲しかった。
というか、さっきお母さんって言ってなかったか?
「あれ~、なんでここに~? もしかしてピアノ習いに来たとか~?」
女の子が走ってこちらに近づいてくる。
「そ、そんなところ」
「む~。目を逸らさないで~!」
やめろ。近くで飛び跳ねるな。うっとうしい。
と、篠崎先生が割って入ってきた。
「詩。とりあえず電話の子機をちょうだい」
「あ~! ごめんなさ~い」
女の子から子機を受け取った篠崎先生は通話をしながらスタジオを離れた。
なんだか、居心地が悪い。
というか、先生と女の子、いや詩は家族だったんだな。
「ねえねえ~。普段何の曲弾いてるのぉ~?」
詩は手を後ろに組み、上目遣いでこちらを見てくる。
「い、色々」
「色々じゃわかんないよ~!」
「なんだっていいだろう」
「あ~。またそっぽ向いた~。こっち見てよぉ~!」
やめてくれ。俺と目を合わせようとするな。
「ん~。ま、いっかぁ。ところで~、ここには最近入ったの~?」
めっちゃ質問してくるなこいつ。
「秘密」
「隠したがりなの~?」
「隠したがりなんだ」
「そうなのよ。氷吏くんは隠したがりなの」
「うおっ! いつの間に戻ってきたんですか先生」
「まったく、困っちゃうわね~。ほんと、困っちゃう」
詩の後ろに立っている先生のわざとらしい口ぶりに、俺は少しだけイラッとする。
「何が言いたいんですか?」
「え? いやいや、そっちからお願いしてきたことでしょう?」
先生の人差し指が、詩に向けられる。
「この教室の中にいる人間で一番上手い人、なんてねえ?」
血の気がサァーっと引いていく。
いや、嘘だろう?
「先生、まさか」
「あら、氷吏くんはもう高校二年生なんだし、自分の発言ぐらい自分で責任をとってもらわないとねえ?」
先生はニヤァっとしながら、詩の肩に両手を置く。
「ん~? どうしたのぉ~?」
顔を上げて詩は先生を見る。
い、いやいや。さすがにないだろう。いくら詩がコンクールで賞を取ったとはいえ、まだ小学生だぞ?
落ち着け、氷吏よ。らしくないぞ。
きちんと、現実を見るんだ。
「という訳で。今日から詩には、氷吏くんの講師になってもらいまーす! どんどんパフパフ~!」
……………………。
…………。
……?
「「ええええええええええええええええええええええ?」」
あ、詩とハモった。じゃなくて、いいいやいやいやいや!
「ちょっと待ってください! 本当ですか? この子の他にいないんですか!」
「残念ながらいないわねぇ。講師陣の中では私が一番ピアノ弾けるけど、詩は私の全盛期のときよりも実力あるから」
「そんなバカな」
だめだ。終わったかもしれない。
「ほ、ほえ~。わたしがこうしをぉ~」
詩はほけーっとしている。
待てよ。いや、まだだ。
詩がやりたいと言わなければいい。というか、彼女との会話で俺に好印象を持つ要素は皆無だったはず。
よし。安心した。今度こそ現実を見るんだ。小柳【ルビ:こやなぎ】氷吏!
「分かった! わたしやるよ~!」
ん? あれ? どういうことだろう。なぜか詩が気合い十分とばかりに両手でガッツポーズを作っている。
「はーいけってーい! 氷吏くん、これからは詩があなたの講師よ!」
えー。
声に出すことすら億劫になるほど、俺は絶望していた。
受賞を目指していたコンクールであっさりと負かされた小学生から、手ほどきを受ける?
どういう拷問なんだ、それは。
「あ、近いうちに発表会することになったから、それもよろしくね~」
正直そんなことはどうだっていい。とにかく、どうにかしてやめさせないと。
「氷吏さ~ん!」
いつの間にか先生の手を離れていた詩は、一歩近づいて俺の両手を握る。
「これから、よろしくおねがいします~!」
そう言って、彼女は笑みを浮かべる。
……もう、断れそうな空気ではなかった。