音の内面
数日後、俺は音楽教室の一室でピアノのレッスンを受けていた。
「また落ちちゃったわね~」
ピアノ椅子に座っている俺の横で、同じく椅子に腰を下ろしている講師の篠崎先生がわざとらしく言った。
彼女も、この前のコンクール会場に来ていたらしい。
「でも、次は必ずとります」
「心意気だけはあるんだけどね~」
篠崎先生は含みのあるようなことを呟いて、天井を仰ぎ見る。
彼女の態度が、コンクール帰りの父さんと重なって見えてしまう。
「何が言いたいんですか?」
「急に声を低くしないでちょうだい。怖いわ」
篠崎先生は軽く咳払いをする。
「氷吏くんも気づいていると思うけど、この二年間ほとんどと言っていいほど上手くなってないわよ」
一瞬、息が詰まった。
「中一の頃は素人だった氷吏くんが、三年で信じられないぐらい成長したのは驚いたけどね。もしかすると、伸び悩みの時期ってことなのかもね」
どこか諦めている様子の篠崎先生に、俺は呼吸を整えつつ言葉を返す。
「まだ分からないでしょう」
「確かにそうだけど、度外視していい話でもないわ」
冷淡に、篠崎先生は話を続ける。
「人には何かしらの才能はあるけれど、その限界値は千差万別よ。必ずしも、氷吏くんにお母さん並みの潜在能力があるとも限らないわ」
そんなこと、嫌でも理解している。
「僕には絶対に無理だ。そういうことですか」
「誰もそんなこと言ってないわよ」
「同じことでしょう!」
無意識に強い語調になってしまう。
「家で反省は済ませました。あの時のような演奏はもうしません」
ピアノに向き直り、ピアノ蓋を開けて赤い布をどかす。
「じゃあ、実際に聴いてみようかしらね」
期待していない、というように聞こえる。先生の姿は見えないが、腕と足を組んで上から目線で見ているような、そんな態度である気がする。
今に見てろ。そんな反抗心を、鍵盤にぶつける。
『きらきら星変奏曲』。
元のきらきら星をモーツァルトが変奏曲にしたものだ。
まずは優しく、基本的なきらきら星のフレーズを奏でていく。その後の第一変奏ではサステインペダルを使わずに、ほとんど隙間のないメロディを紡ぐ。右手を無駄なく動かし、スタッカートで切れがよくなるようにする。第二変奏ではペダルを用いるが、対極的に左手の音数が途端に多くなる。右手も和音と細かく音が入ってくるため、非常に難しい。アクセントと重厚さを意識しつつ指を躍動させる。
こうして第四、第五と続き、全十二変奏の様々なアレンジがされたきらきら星をすべて弾ききった。
手応えは抜群だ。確実にコンクール本番よりも演奏できている。これが最初からできていればと思うが、後悔しても仕方がない。
俺は手を膝の上に乗せて、篠崎先生を見る。
彼女は、真顔だった。
そして口が開かれる。
「つまらない」
ドスッ。
突然ナイフで腹を刺されたような、そんな痛みを伴う衝撃が襲いかかってきた。
下手だ、と告げられたときよりも何百倍も辛い。
「改善はされてる。本番でミスしていたところは確かに直っているわ」
「……では、何がダメだったと?」
コンクールの後に一人で反省点を洗い出して、数日後に届いた演奏動画を何回も見直して四六時中ピアノを弾いた。何回も録音して、試行を繰り返し、聴き直し続け、数日を費やしてようやく欠点を潰した。そのはずだ。強く確信したのを覚えている。
自分が何を間違えたのかが、分からない。
「そんなの聴けば簡単に分かるわ。……まったく心に響かないのよ」
「響かない?」
先生の言っていることが、分からない。
正しい演奏表現をしたはずだ。正確に音を鳴らしたはずだ。
楽譜から意味と意図を読み取り、完璧に再現したはずだ。
心響く名曲ならば、結果的に心に響くような演奏になっているはず。
「演奏は完璧だったわ。一切の無駄がない」
先生はため息をつく。
「だからこそ、つまらない」
なんだよ、それ。
「なら、どうしろと?」
必死に、声を絞り出す。
「ピアノ、楽しくないでしょ」
「楽しく弾いて上手くなるなら、苦労なんてしてませんッ!」
俺は思わず立ち上がる。
じゃあなんだ。母さんは楽しく弾いたから、武道館ライブを成功させたのか?
そんな訳がない。
そこには裏付けされた高度な技術があるはずだ。本人の感情を、ピアノが生き物のように受け取って音に反映する。そんなことがあり得るわけがない。
音楽は、魔法じゃない。
「そんなふざけたことを言うなら、他の人と担当を変わってくださいッ! この教室にいる人間の中で一番上手い人を……」
ガチャリ。
扉が開かれ、思わず発言を止める。
「お母さ~ん。電話……が?」
そこには、小さな女の子がいた。