葛藤
照明が舞台を照らす。
耳障りな拍手の音が、会場中に響く。
そして俺は、群衆の中でぽつんと一人、二階席から一階の光景を見ている。
落ちた。
目標にしてきたピアノコンクール。結果的に、入選すら出来なかった。
毎日ピアノを弾き続け、高みへと目指してきてなお、届かなかった。
ステージの中心に立っているのは――女子小学生。
桃色の繊細で美しいドレスを身に纏っている彼女は、そのたれ目を閉じ、ふんわりとカールしたセミロングの髪を揺らしながら一礼する。
彼女の順位は、一位。
ああ……天才とはこういう人のことを言うのだろう。
無駄のない透き通るような音、解像度の高い表現力、まるで花と戯れているかのような優雅な演奏姿。そのすべてが、目の前の景色へと繋がっているのだろう。
俺は心の中に広がっている黒いもやもやを体から追い払うように、ため息をつく。悔しさで落ち着いていられず、ホールを出ようと立ち上がる。
すると一瞬、あの子と目があった気がした。
何故か、不安そうな表情をしている。
……いや、気のせいだろう。
俺は更衣室に向かい、着替えてすぐに外へ出た。オレンジ色の夕日が空一面を薄く染めている。風が湿気を含んでじめじめしており、加えて生暖かい。ひどく嫌な気持ちになりながら、俺は道路の脇にある父の車へと近づき、助手席の扉を開けて中へ乗り込む。
「落ちたのか」
ポケットから電子たばこを取り出しながら、予見していたかのように淡々と聞いてくる。
「落ちた」
「残念だったな」
「心にもないことを言わなくていい」
父は車を発進させると同時に、少しだけ開放してある窓から外へ煙を吐く。
「これで三回連続か」
「そうだな」
答えてからしばらくの間、俺たちはずっと黙っていた。
流れていく景色をガラス越しに眺めようとすると、自分の姿がうっすらと映った。顔色は優れず、そのくせ髪色は明るい茶色でマッシュヘアにしている。正直気持ちが悪い。
あっという間だった。
すぐにでもプロになりたくて、中三の時に同じコンクールに初めて出演したことを思い出す。
あれから、何も変わっていない。
「ところで氷吏、これからどうするんだ」
「まだ何も決めてない」
「ピアノはやめるのか」
「やめない」
「そんなにも、ピアノがしたいのか」
「したいさ」
「死んだ母さんを超えるため、だったか」
「ああ」
「ずっと聞いているが、そんなことして何になる」
「母さんのためだ」
「はぁ。これもずっと言っているが、意味が分からないぞ」
「俺が下手だと、母さんまでバカにされるだろう。それだけは、許せない」
「さも当然のことのように発言してるが、被害妄想だろうそれは」
「実際にされたんだよ」
「誰に」
「中学にいたピアノ弾き」
「どうせ何も考えずに鍵盤を叩いている連中だろうに」
ここまでが俺たちの定跡だ。毎年同じような会話を繰り返している。
「そろそろやめたらどうだ」
プチンっと頭の中で何かが切れ、気がつけば俺は父さんの左腕を掴んでいた。
「離してくれないか。運転できない」
「何で俺がピアノから手を引かないといけないんだ」
諦めたのか、父さんは左手をハンドルからどかして片手運転に切り替えた。
「さっきも言ったが、意味がないからだ」
「人の名誉を守ることが無意味だとでもいうのか」
「優秀な成績を残したピアニストだ。たかが子供にバカにされたところで、傷一つ付くわけないだろう」
表情一つ変えずにいる父さんを、俺は睨む。
「だとしても、そんな奴らが存在していること自体が許せないんだ」
頭の中で、あいつらのセリフが響いてくる。
「お前あのピアニストの子供なのに、あんまり上手くないよな~」「おまえの母さん、あんまり大したことなかったりして!」
思い出したくもない。嘲笑するようなあの憎たらしい声と表情は。だんだんイライラしてくる。
「おい。いい加減に手をどけてくれ」
俺は黙って手を離し、再び窓の外に目を向ける。
「ともかく、ピアノ教室はそこそこ金がかかるんだ。いい結果を出してくれよ」
「言われなくても分かってる」
どうせ俺には、もうピアノしかないのだから。