3 酷い話、だがよくある話? 前編
アマンダは、やっと安心したのか、肩の力を抜いたらしいセレスティーヌを見て繻子のように光る黒い瞳を細めた。健気に一人で立とうとしているだろう様子に、何とも言えない保護意欲を掻き立てられる。
ご令嬢が輩に連れ去られそうになったのだ。どんなにか怖かったことだろう。
気丈にも涙を見せず、遠慮しつつも凛とした態度でいた目の前の彼女。
助けられたとはいえ見ず知らずの男か女かもわからない人間に、戸惑いながら警戒しながら、何やら色々と吟味しているようであった。
十七ということであるが、しっかりとしたご令嬢なのであろうことが窺える。
警戒を完璧に解くにはまだ早いが、毛を逆立てた子猫がこちらを窺いながら猫草を食べるように野菜たっぷりのサラダを食べる様子は、大層面白くもあり可愛らしくもあった。
「夏は暑いから体力をつけないとよ。これもお食べなさいよ」
そういいながら、串焼きを二本セレスティーヌの皿へと押しやった。
猫は肉食である。
時折草も食べるが。
「サラダばっかりじゃあダメよ」
うぅ。とか、あぅ。とかいいながら、セレスティーヌは丸いお月さまのような瞳で串焼きとアマンダを交互に見比べた。
「これはアマンダ様のです」
そう言いながら串焼きを押しやる。
もしかしなくても、貴族令嬢が人前で串焼きを齧りつくのは抵抗があるのだろうかと思いつつ、再び押しやった。
「あら、つまみはみんなでシェアするものよ。それにしっかりしたものを食べれないのは暑気あたりの証拠よぉ? ……これから旅をするなら、尚のことしっかり体調を管理しないと」
(旅……。どうしてわかったのかしら)
驚いたような顔でアマンダを見る。アマンダは苦笑いしながら豪快に残りの串焼きを齧ると、セレスティーヌの出掛けるには大きく、旅行には小さいカバンを指さした。
食堂は繁盛しているようで、入れ替わり立ち代わり人が出入りしていた。空いた隣のテーブルに次の人が案内される。先にいたセレスティーヌとアマンダに軽く頭を下げると、おじさんという部類に足を突っ込んでいるくらいの男性が大きく息を吐きながら腰を下ろした。
「おかみ、取り敢えずエールね! 暑くってたまんねぇや」
「あいよ~!」
注文と共にぼやいては、手巾で顔の汗を拭う。威勢のいい女将さんの声が店に響いた。
そして出されたエールを、男は喉を鳴らしながら一気に半分程流し込む。
「くぅぅぅ~~~~っ!! 上ン手い! このために生きているってもんだ」
隣の男性は大きな独り言をいうと、再びおかみを呼んで食事をたのみ始める。
アマンダはこういった場所に慣れているのか、隣の男をちらりと見ただけでマイペースに飲み食いをしていた。
食堂が初めてのセレスティーヌは、やっと活気がある店の様子や周りの人々を観察するまでに落ち着いたのだが、キョロキョロと見まわすのは行儀が悪いだろうと思い、再びアマンダの方へと顔を向けた。
「近くの親戚の家にでも行くの?」
アマンダが何気なく訊ねる。
それはそうであろう。アマンダが高位の人間であるとわかるように、セレスティーヌもまた貴族の令嬢であることは容易に察せられる筈であった。貴族の令嬢が供もつけず馬車にも乗らず歩くなんて、通常ではあり得ないことであろう。
「いえ……ちょっと事情がありまして」
やや声の調子を落としながらセレスティーヌが囁いて、周りに用心深く視線を走らせた。
右隣は壁であり、左隣の先ほどの男は、幸せそうにつまみとエールを交互に飲み食いしている。セレスティーヌの後ろの席は空席になっていたし、正面に座るアマンダの後ろの席では、何やら熱心に議論をしているらしく、こちらの話などハナから耳に届いていない様子であった。
本来なら恥ずべき事ではあるのだが、己の身に降りかかった理不尽なそれに、セレスティーヌが悶々としていない訳ではないのだ。
常日頃おかしなことを口走って来た令息には未練などこれっぽっちもないが、家のことや父の仕事を人質に取られてしまえば理不尽も不義理も、飲み込まなければいけない訳で……
だから事情も身元も解らないだろう名前しか知らないアマンダに、昨日遭った事を告げたところで構わないのではないかと思ったのだった。
よく考えればちょっとヤケになっていたとも言えるし、見ず知らずだからこそ、ぶっちゃけてしまってもよいのではないかと思えてしまった。
酒の肴に面白おかしく笑い飛ばして貰ったって構わない。いや、その方がどれだけ救われることだろうか。
「……非常にお恥ずかしいことなのですが。私、婚約者に婚約破棄を言い渡されまして」
意を決したのか、モソモソと噛んでいたサラダを飲み込むと、セレスティーヌは背筋を伸ばしながらアマンダの黒い瞳をみつめたのだった。
(……おっと。婚約破棄と来たわねぇ)
それなりの事情はあると思ってはいたが。
いきなりぶっ込んで来たなと、相槌を打ちながらアマンダは、温まりだしたサングリアを口に運んだのである。