36 次の一歩を・中編
ちょっといいか、と船長に言われ男は頷いた。
日も落ち、空には星が瞬いている。
凪いだ海原が暗い空の色を映し、どこまでも続いていた。
「……で、どうするつもりだ?」
船にあたる波の音と、船長の静かな声が耳に届く。
一日の仕事を終え、食事と酒を楽しんでいるため甲板に人はいない。それをいいことに空き箱を並べて向かい合わせに座った。
高いマストの見張り台に、暗い大海原を見つめる者がいるだけだ。よほど声を張らない限り話している内容までは解らないであろう。
どう応えればいいものかと考えあぐねていると、船長が続けて口を開く。
「あんな日に大怪我を負って海に投げ出されていたんだ。本命か下っ端かはわからねえが、無関係だとは言えないだろうが……」
「そうですね」
落ち着いた声で男が返す。
「まだ記憶は戻らねえのか」
「はい」
答える男の顔を、船長が見極めるように覗き込む。
全てを見透かしてしまいそうな薄暗い瞳が、やはり人生の空虚を知るだろう男の瞳を執拗に探った。
「どっかの国に、『怪しきは罰せず』って言葉があるそうだ」
聞いたことがあるような気がして、男は何も覚えてはいない記憶を探る。
水か砂を掬っては、指の間を見えない何かがすり抜けては落ちて行く感じがした。
「今の状態で出て行って、訳のわからないまま言われるまま罰を受けたとして、それは本当に償ったと言えるのか?」
「言いたいことはわかりますが……間違いを犯せば罰せられるのは道理でしょう」
さすがに他の者と同じように目を瞑れと言うとは思っていないが、考えていた言葉とは違う言葉に、男は内心首を傾げた。
一方の船長は、自分と同じくらいの年だろう男を見て、本来は生真面目な人間だったのだろうと思った。
「万が一みつかって我々に迷惑をかけたくもないし、か」
少し間をおいて、男は正直に頷いた。
それだけではもちろんないが、確かにそう考える自分がいることも確かだ。
「そうですね……皆さん、命を助けてもらった恩人ですから。迷惑をかけたくないというのは偽らざる気持ちではあります」
船長は男に向き直る。
「俺は別に、隠して逃げろって言っているわけじゃねえ……そこまで本当に思うなら、懸命に思い出せ。それまでは適当な正義感で命を粗末にすることはするなと言っているんだ」
船長の薄暗い目が、月を照り返す海の色のように光っている。
「自分の罪を思い出すまで、誰よりも真っ当に、愚直に生きろ。お前さんを慕うあの若い船乗りの為に生きろ。身を粉にして働け。困っている人間がいれば進んで助けろ。死にたければ、死に直面する人間の代わりに命を差し出せ」
静かに訥々とではあるが、船長の鬼気迫る言葉に男は息を呑んだ。
「そして自分のやらかした罪を思い出したなら、潔く名乗り出ろ。躊躇はするな。それがお前さんのケジメだからだ」
中途半端に逃げずに、きちんと向き合えということなのだろう。
頷くことも首を振る事も出来ず、男は暗く燃えるような瞳を見つめた。
静かでいて激しい、海のうねりそのものだと感じた。
本日計4回(7時頃、11時頃、14時頃、17時頃)更新予定です。
ラストまで更新いたしますので、お時間のよい時にご確認いただけましたら幸いです。