19 港・後編
向こうも様子を見ていたのだろう。
潮風に錆び付いた扉が、大きく軋んだ音をたてながら重そうに開いた。
セレスティーヌと、彼女を押すように、もしくは盾にするかのように後ろに立つ男が姿を現した。
「お早いお着きですね」
「……セレ……!」
「アマンダ様……申し訳ございません」
後ろ手に拘束されたセレスティーヌを見て逸るような、大きな怪我などはしていない様子を確認してちょっとだけホッとしたアマンダは小さく息を吐きながら首を振った。
もっともセレスティーヌはこんなところまでアマンダを引っ張り出すことになってしまい、酷く自分を責めているのであるが……
「おっと、それ以上近づかないでいただきましょうか」
セレスティーヌを拘束する男が、動こうとするアマンダを制する。
そしてジェイをちらりと一瞥し、表情を変えずに口を開いた。
「……約束が違いますね。ひとりでおいで下さいと申し上げたはずだ。最初の段階で約束を違えられるとは」
「私の身分を知っているんだろう? 長時間、バレずに行動できるとでも?」
アマンダは開き直ったようにジェイを親指で指す。
「私が赤ん坊の頃から身辺を護っているんだ。黙って出て来たところですぐさま見つかって、余計面倒なことになるだけだ」
言われたジェイはその通りとばかりに、にっこりと笑って頷く。
全く緊張感のない様子に男は鼻白む。
「逆に、他には誰も連れていない。本来なら大勢で押し寄せてもおかしくないのに、誠実だと思うけどね。気配が読めるのならば、他に誰もいないことが解るだろう」
男――紳士は考えるようにしばらく黙ると、気配を確認したのだろう、小さく頷いて口を開いた。
「……いいでしょう。もっとも、いつ援軍が来るかは解りませんからね。商談を始めましょうか」
紳士とてひとりで来るとは初めから思っていない。想定内である。
「セレを今すぐ放せ」
「御冗談を」
紳士は笑って首を振る。放した途端捕まることは火を見るよりも明らかだ。
無論アマンダもすんなりと解放するとは考えていない。
「私はどうなっても構いませんので、捕まえてくだ……っ!」
セレスティーヌがアマンダとジェイに向かって叫ぶ途中で、縛り上げた手の縄を締め上げた。
最後は息を詰めた小さな悲鳴が、セレスティーヌの喉の奥に消える。
セレスティーヌ本人よりもアマンダにこそ効く方法だ。
現にアマンダは金の巻き髪に縁どられた精悍な顔を、苦しそうに歪めている。
「手荒なことはよせ!」
「それでは、これ以上ご令嬢が傷つくことが無きよう、ご手配を。我々のこの国における身の安全の確約と出国を許可していただきたい。他国に無事に逃れる手筈を」
アマンダは眉間に皺を寄せた。
「……そのようなことが認められると?」
「はい。……まさか、ご令嬢をお見捨てになると?」
「セレスティーヌを離せ、そして素直に投降しろ」
紳士は無表情なまま、セレスティーヌの首筋に刃物を突き付けた。
「早まるな!」
やっと隠していた武器が出て来て、アマンダとジェイは少し安心する。……絶体絶命に違いはないが、どんなものを隠しているのか解らなくては対策のしようも、下手に手を出すことも出来ない。
勿論まだ他に隠し持っているということも考慮しなくてはならないので、気は抜けないが。
「貴殿の国へ働きかけ、再捜査をしてもらうように約束しよう」
アマンダは紳士に向かって、家の汚名を雪ぐよう働きかける旨を約束する。
紳士は呆れたような、気の抜けたような笑いを漏らす。
「はは。ご厚意は感謝いたしますが、そんな事をして何になるので? 誇り……そんなものは生きている時に必要なもので、死んでからは意味がありませんよ」
「ずっとこのまま、悪に手を染め逃げて生きて行くのか?」
時間を稼いでいるのか、それとも本気で罪人を諭そうというのか。格好はおかしいものの清廉潔白らしい王子を見て、紳士は笑いたいような、それでいて胃の辺りがチリチリとするような感覚を覚える。
(このまま時間を稼ぐつもりか)
意外にも正攻法で悪党を落とすつもりらしい。
そう思いながら仲間から紳士と呼ばれる男は、己とセレスティーヌとの距離をより近づける。相手に寸分の隙も与えないように。
お付きの隠密も情に厚い人間のようで、人質を傷つけないように強引に攻撃をせずに目の前の状況を冷静に見ている――本来は王子のみを護ればいいのに。お人よしなのか、それとも主の心までも守ろうという忠誠心なのかと思いを馳せ、紳士は静かに微笑む。
(娘共々罪人を串刺しにしたところで、誰にも文句は言われないであろうに)
再び口を開いた。
「それ以外に、私が生きる道があるとでも?」
捕まったが最後、命はないであろう。
それどころか、身に覚えのない罪状までこれみよがしに被せられて処されるかもしれない。
今更死んだ人間の汚名を雪いだところでどうなるというのか。何十年も経ち、今ではかつてあった己の家のことを知る人間も少なくなったであろう。下手をしたらすっかり忘れられてすらいるかもしれないのに。
(そのようなもの……誰も残っていない風化し過ぎた過去でしかない)
目の前の王子には何の咎も関りもないことだが、もう今更だ。
そんなものと自分の命とを引き換えにするだけの価値があるようには、残念ながら紳士には思えなかった。己の青い血など、流れ果てて今では赤黒い平民そのものになってしまったと思えた。
「充分な逃走資金をつけてくだされば、隠居してのんびり暮らすことに致しますよ」
「……国宝を削って、ごっそり偽金を作っておいてか?」
更に型を幾つも複製しているのだ。今後も本物にしか見えない偽金を作って、悠々自適に暮らすに決まっているだろうに。アマンダは心の中で悪態をつく。
(どんなに急いで動いても、ナイフを引かれる方が早い……!)
目の前の男がどれほどの手練れかはわからないが、剣でも体技でも組んでしまえばアマンダに分があるだろう。万一に備え騎士と同じに戦える用意はある上、圧倒的な体格差があった。
だが、紳士とセレスティーヌの距離が近すぎる。首を掻っ切ると見せつけて、仕込んである暗器など他の武器を使う可能性もある。
それはジェイも同じようで、どうすればセレスティーヌを傷つけずに事を進められるのかと首を捻るが、一向に答えは出なかった。
(遅い……!)
紳士が内心で焦れながら、後方の海に意識を向ける。
仲間たちが漁船を装いとっくに到着しているはずであるが、全く来る気配がない。
目の前の王子が一緒に行動しているであろうもう二人のお付きが周囲の何処かに潜んでいるかと思っていたが、そんな様子もない。
複数の逃走に備え港や関所に向かったのだろうか。
(その選択自体はおかしくないが、直接対峙すると解っていて王子と護衛ひとりで来させたのか……?)
今になって非常に引っ掛かりを覚えた。
自分らしくないと自嘲して、順番に思考を辿っていく。
王子を危険に晒してまで、行き当たりばったりの捜査に向かうものなのだろうか。幾ら逃がしたくはないと言え、偶然に遭遇する可能性はかなり少ない。
自分たちにたどり着かないよう、今いる場所を伝えてからは繋ぎを取る人間を切ってある。
(仮に、こいつらに知らせた下っ端を捕まえて吐かせたとして、潜伏していた教会にも、船着き場にも辿り着かないはずだが……)
何か根拠があるのかと思い、紳士は眉を寄せた。
マズい。
何か歯車が嚙み合わず、良くない方向へ舵を切ろうとしている。
紳士は重心を身体の後ろへ移し、声を張り上げた。
「どうする? ご令嬢を助けたいなら要求を呑んで貰う!」
そう言い終わるか否やという時に、遠くの方から警鐘らしき鐘の音がけたたましく鳴り響く。
悲しい怒号のような鐘の音は夜明けの空の下、港から港、街から町へと伝わり広がって行った。