10 観察と推測・前編
いつからか、ゆっくりと走っていた馬車が止まった。
どのくらい走ったのだろうか。窓の外はすっかり闇色へと変化し、青白い月が登っている。
馬車の扉が開くと、今まで馬車を御していた男が姿を現す。そしてセレスティーヌを見下ろした。
月明かりに照らされ逆光となり、表情はよく見えない。
「…………」
唇を引き結ぶセレスティーヌを一瞥すると、かがんで足のロープを切った。
肌の近くを滑るナイフに、セレスティーヌは無意識に身体を強張らせた。
「さあ、立つんだ」
男はごく普通の、聞きようによっては優しくすら聞こえる声で言いながら引き上げる。
なるほど、悪人と言うから声高だったり威圧的だったりな態度をイメージするが、男はそう言った様子を感じさせない雰囲気を持っていた。
思ったよりも柔らかい、人に嫌悪感を抱かせない声と口調。
さらりと耳を素通りして行くような声は、不快感を伴わない分記憶にも残り難い。一度や二度聞いたところでは、明日にはすっかり忘れ去り思い出せないことだろう。
身体も中肉中背で、これといった特徴を感じられない。服装も華美過ぎず貧し過ぎもしない普通の服である。
(記憶に残らない……いえ、多分残さないようにしているんだわ)
風景の一部として入り混じり、強い印象を残さない。
それが長く多くの国々を転々と出来るコツのようなものなのかもしれないと、セレスティーヌは考えた。
誘拐されたという恐怖なのか長く横たえられていたからなのか、小さく足がもつれふらつきそうになる。気弱になってどうすると自身を叱咤して両足を開き踏ん張った。
男は無理に引っ張るでもなく、セレスティーヌが落ち着くのを待ってから寂れた教会へと歩みを進めた。
数時間ぶりに外へ出たセレスティーヌは周囲を見渡した。
市街地からは少し離れたそこは、管理する者がいなくなったのだろう教会だ。周囲には枝が手入れをされずに伸びたままの木が数本植わっている。かつては集落があったのだろう。流行病の蔓延で小さな集落が潰れることはたまにあることだ。
周囲には明かりもなく、勿論ディバインに訪れたことがないセレスティーヌにとっては初めての場所だ。しかし少しでも何か情報をと思い、月明かりを頼りに周囲を見回す。
景色はよく見えないが、遠くに波の音がする。きっと海が近いのだろう。
建付けの悪い粗末な扉を開けば、暖炉に火が焚かれていた。
隙間風が入る教会の居住部分なのだろう。数人の男たちがカードゲームに興じていたようで、入ってきたふたりを見て動きを止めた。
「遅かったな」
人相の悪い男が口を開いた。
「ああ。ちょっと回り道をしてきた」
「……相変わらず用心深いな」
小太りの男が苦笑いをするように言う。
「随分上玉じゃねぇか」
痩せぎすの男がセレスティーヌを見た。
「大事な商品だ。価値を下げるようなことはするな」
「……わかってるよ」
セレスティーヌを連れてきた男はリーダー格なのか、静かに視線に不快感を滲ませて苦言を呈すると、痩せぎすの男は興味を無くしたかのように再びカードへと視線を移した。
ここがアジトなのか。
セレスティーヌは深く息を吐いて、進むよう促す男と共に部屋をあとにする。
一瞬浮かんだ卑下た視線と笑みに、上玉とは自分のことなのかと思い至った。元々おしゃれには然程興味もなく、幼い頃からの婚約者だったダニエルには冴えないだの地味だのと言われ続けたためか、自分の見た目に対する評価はすこぶる低い。
なので、男の投げた言葉が自分への評価だとは結び付かず、周囲を見渡し、しばし誰のことかと首を傾げたのだった。
旅の中、再三アマンダに『可愛らしいのだから気をつけろ』と言われたが……
(お世辞だとばかり思っていたけど)
この件に関しては話半分というか、まともに取り合っていなかった。自分を見て可愛いだとか綺麗だとか言う人間は、両親とアマンダくらいだと本気で思っていたからである。
アマンダに至っては妹のような、もしくは小動物のような感覚だろうと思っている。
しかし、見る人によってはそうでもないのかもしれないと思い至ると、何だか不思議な感じがした。
(…………。だけど、別の安全面についても気をつけなくてはいけないことが増えただけよね)
それはこの状況で面倒が増えるだけだ。
セレスティーヌは小さく息を吐いた。
余計なことを考えている内に男が小さな部屋の扉を開く。使用人か、はたまた修道士の部屋なのだろうか。小さな部屋の半分ほどを朽ちかけたベッドが占領している。
男はセレスティーヌに毛布を手渡した。
「この部屋で大人しくしておくことだ」
「……………」
セレスティーヌは銀の瞳を眇めて男を見る。犯罪者特有の険のある様子は感じられない。理知的にすら見える茶色の瞳が、平均的な顔立ちの中に納まっていた。
「私の家は貧乏なので、身代金など出せませんよ」
ずっと黙ったままの声は掠れていた。
男の出方を見るために、そう言ったままセレスティーヌは唇を引き結んだ。
「……さっき『商品』と言ったのが聞こえなかったか? 奴隷商人に売られるかもしれないだろう。らしくないな、タリス子爵令嬢」
やはり。
セレスティーヌの正体を知っての連れ去りなのだ。
「それともこちらがどれだけ情報を持っているのか探るための質問かな? ご令嬢らしからぬ度胸と機転の持ち主らしいからね」
男は穏やかに笑みを浮かべた。
奴隷商人。飛び出してきた言葉に内心で肝が冷える。
貴族の令嬢を売り飛ばすなら、労働力としては向かないので愛玩用にだろう。平民の中には、貴族女性を慰み者にすることに至上の喜びを感じる人たちがいると聞く。
普段の身分差による鬱憤を晴らすのだろう。
「そんなことをするなら自ら命を絶つ、とでも言うつもりかな?」
男の言葉に、セレスティーヌは言葉を呑み込んだ。
セレスティーヌの気性も、少なからず調査済みなのだろう。
「そんなことは勿体ない。だから貴女を奴隷商人になど売りはしないさ」
「私は『商品』なのでは?」
男は口の端を引き上げた。
「その頭脳を我々にお貸しいただければ、今よりももっと仕事がやり易くはなるが、頷いてはくださらないだろう?」
(最悪だわ……!)
商品と言うのは、間違いなくアマンダに対してだ。
「ふふふ。察しが早いね! なにも嘆くことはない。惚れた女性に労力を割くことは男にとって、そう手間ではないのだよ」
「……なにか勘違いしていると思いますよ」
思ってもみない言葉に、セレスティーヌは面喰う。そして絞り出すように言葉を紡いだ。
男は微かに眉を上げる。
「勘違いしているのは貴女たちだよ」
何をどう勘違いだというのか。
セレスティーヌは何か少しでも情報を引き出そうと思うが、出来る気がしない。
目の前の男の手のひらの上で好き勝手に転がされている気分だ。
「本気でわからないのかな? 優秀な頭脳も偏りがあるのだねぇ」
……王子様も報われないね、そう男は口の中で呟いた。
「どうやって我々のことに気づいたのか知りたいが、余計なおしゃべりは身を滅ぼすからね」
そう言うと男は部屋から出て行き、静かに扉を閉めた。
大きな施錠の音が狭い部屋に響く。
セレスティーヌはかすかにカビの匂いがする部屋の中で途方に暮れた。