五月のとある一週間
また、悪夢のような1週間が始まった。
5月某日、月曜日。その日は、いつもと同じような顔をして始まった。
退屈な授業を退屈なままにこなし、目新しさもなく、さほど面白くもない雑談に愛想笑いで相槌を打つ。
つまらない午前中が終われば、クラスの情報通がまた「隣のクラスに転校生が」と喧伝して回り、なんだなんだと野次馬達がそれを追いかける。
僕は真面目な顔で「押しかけたら隣のクラスに迷惑なんじゃない?」と差し障りのないことを言って、がらんどうになった教室で一人、机に伏せって時間を潰すのだ。
もう何度目になるだろう。僕はすっかり数えるのをやめた日付けに思いを馳せて、意味もなく学生手帳のカレンダーを捲る。高校2年生の春。5月の中頃。ゴールデンウィークなる大型連休が終わったばかりの怠い身体を引き摺る毎日。いい加減、飽き飽きだ。
刺激が欲しい、などとは思わない。けれど、毎週のようにこんなことを内心で独り言ちるのはもう、うんざりだった。
転校生はどうやら有名大学の附属高校からの転入生らしく、よくもまぁわざわざこんな場末の市立校に引っ越して来たものだと逆に感心してしまう。すっかり擦り切れた感情の中で、まだ辛うじて残っているのはそんな感想だけだった。
最悪の1週間の始まりは、本当に何事も起こらない、そんな一日だった。
火曜日。その日は嫌になるくらいの大雨だった。気まぐれにスマホの待ち受け画面を変えて、ぐるりと教室を見回す。
クラスメイト達は変わり映えもなく、今日も雨で持久走が中止になったことを素直に喜んでいる。これだけ退屈だと、持久走のように何も考えなくていい時間がむしろ恋しい。変わり映えがしないからこそ、何度やっても同じように打ち込める授業は癒しだ。スポーツは得意でもないし、持久走なんて嫌いな授業の筆頭だったけれど、他の授業に比べれば幾分かマシというものだ。
この日は担任が休む。だから、担任が受け持っていた物理の授業は大賑わいだった。自習時間と言われてはいるが、まじめに自習をする生徒なんてほとんどいない。日々の抑圧からのしばしの解放と言わんばかりに、彼らは見回りの教師の目を盗んでは噂話に興じている。噂の中心はもっぱら隣の転校生の話だった。月曜日の抜き打ち試験の結果が満点だったとか、そんな下らない話だったと思う。
ちっとも興味が湧かないので、僕はただただ答えが分かりきったプリントの空隙を、すっかり意味を失った記号の羅列で埋める作業を繰り返す。頭を空にできるこの瞬間は、珍しく癒しの時間に感じられた。無駄なことをしている自覚はあれど、受け入れるしかほかになかった。
最悪の1週間の2日目も、何事もなくただただ終わった。
水曜日。週半ばに差し掛かろうというその日は、前日とは打って変わっての快晴だった。濡れてぬかるんだグラウンドを、前日の意趣返しだと言わんばかりに走らされる日だ。文句を言う生徒達を尻目に、僕だけがいそいそと準備を終える。
「お前、体育嫌いだったよな?」
仲の良かったクラスメイトが言う。嫌いだ。嫌いだとも。それでも、他の授業よりかは幾分かマシなのだ。この1週間は。
僕は毎度のように怪訝そうな顔をするクラスメイトにすっかり板についてしまった愛想笑いを返して、前日気合を入れて磨いた靴に足を通す。
「今日は、随分綺麗なんだね、靴」
誰かに話しかけられた。知らない声だ。振り返ると、見たことのない生徒が立っていた。どことなくやつれた目つきの少女。あまりの生気のなさに、一瞬話しかけてきたのがその子とは思えないほどだった。
「唯一の楽しみだから」
手短に答えて、集合場所に向かう。そうか、あれが噂の転校生かと気が付いたのは、1日が終わって床についた時だった。珍しいこともあるものだ。本当に、珍しい一日だった。
木曜日。特筆すべきこともない、平々凡々な一日。自分の誕生日だったような気もするが、甘ったるいだけのショートケーキと味が濃いだけの鶏肉だけが記憶に残っている。この日、僕は学校を休む。前日、明日が楽しみすぎて眠れなかった、なんて嘯いて。この日は色々と限界だった。
金曜日。昨日が誕生日だったのに、と主役の不在を惜しむようなことを言うクラスメイト達に謝って、僕は誇張すると山のように、写実的に言えば平積みにされたバースデーカードを一枚一枚確認する。何故か隣のクラスの生徒のものだろう可愛らしい模様のカードも混ざっているが、分かりきった内容をいちいち確認するのも面倒だと斜め読みをしてカバンに突っ込んだ。
週末になると、何故だか担任に心配されるようになったが、僕はその節穴を内心でせせら笑って社交辞令を述べ、学校を後にした。
土曜日。学校にすら行かないのは苦痛だった。暇にかまけて部活を覗きに登校したり、日がな一日変わり映えのしないバラエティを眺めてみたり。大方のことはやり尽くした休日なんてものは、そんなものだ。味気なく、1日が過ぎていく。午前中で耐えきれなくなって、その日の午後、僕はいつものように、自室でプランとロープを垂らして遊んだ。
日曜日。日曜日が来なくなって、もうどれくらいになるだろう。けたたましい目覚まし時計に強引に起こされて、僕はスマホに表示された今日の日付を確認する。
見慣れた月日。見慣れた画面。5月某日、月曜日。
あぁ。
また、悪夢のような一週間が始まった。
この忌々しいループ現象に付き合わされるようになったのは、もうどれくらい前だったろうか。自分なりにやれることはやった筈だ。ある時は一週間学校を休んでみた。ある時は普通に新しい一週間を過ごした。ある時は……。
そんなことを気が遠くなる日数こなして、分かったことがいくつかある。
何をしても、あるいはしなくても、一週間をいつ終わらせても、僕はこの5月某日に戻ってくるということ。
その日に起こることは、何回やり直してもほとんど変わらないこと。
僕以外の人については、ちゃんと新しい一週間であること。
そして、いつまで経ってもこの1週間から抜け出せないことだ。
逆に言えば、気の遠くなるような日数、もはや年月とも言えるだろう時間を重ねても、それだけしか分かっていないとも言える。「徒労に徒労を重ねている」という題で、何度か前の週に辞書を引きながら詩を作ったくらいだ。担任に見せたところ、いたく気に入られて今月末までが締切の文芸大賞に応募してみないかと打診されたくらいの力作である。尤も、そんな月末は到底訪れないのでそれこそ徒労である。
何かわかりやすいきっかけでもあれば、状況を打開するヒントでもあっただろうか。いや、きっとなかったんだろう。あるなら、今頃何かが起こっているはずだから。
ラノベのような劇的な出来事もなければ、映画のようなダイナミックな展開もない。ただ終わらないだけの一週間が無為に続いている。きっとこのまま、何もなく、何事も起こらず、ただただこの退屈な時間だけが続いていくのだろう。そう思うと、今週は始まりからして憂鬱だった。朝からそんな考え事をしていたからだろう。時計の針はすっかり遅刻しそうな時刻を指していて、僕は思わず顔を顰めた。
「遅刻すると、担任が煩いんだよな、今日は」
いつも時間のことには厳しい担任だったが、この日は特別時間に厳しい。ゴールデンウィーク明けだからこそ、私生活の弛んだ生徒の気を引き締めなければならないと意気込んでいるのだろう。僕にしてみれば『余計なお世話』の一言だが、多分本当に良い教師なのだと思う。
とはいえ、良い教師であろうがなかろうが、ぎゃんぎゃん喚いて説教されるのは苦役だ。僕は用意された変わり映えしない朝食のパンを咥えて、駆け足で学校に向かった。
幸い、学校は自宅から目と鼻の先である。もうかなり前になる進路選択の時、家から徒歩で通えると言うだけで選んだだけのことはあり、頑張ればものの数分で辿り着ける。僕は咥えたパンを咀嚼もせずに、住宅街の通りを走る。
暇を持て余して散々探索したこともあり、この辺りは裏道から獣道まで隅々頭に入っている。なにせ、時間帯によっての人通りすら完璧に暗記しているのだ。この1週間に限って言えば、僕より好タイムで登校できる生徒は片手で数えられる程度だろう。
走り去るトラックの背に向かって走り、後ろから来た絶対に僕を轢かない乗用車にクラクションを鳴らされながら、街中を疾走する。そして、そのまま分かりきった道を通って学校に辿り着ける……筈だった。
「えっ?」
その日は、誰も通っていないはずの道路。その死角の角から飛び出してきた女子生徒とばちりと目が合う。どことなくやつれた目。生気に欠けた出立ち。その目が心底驚いた風に見開かれたのを見たのは、もしかしなくても初めてだった。慌てて止まろうとして、僕はあわや転倒という所までつんのめる。前のめりに倒れそうになった僕は、咄嗟に目の前の物に捕まろうと手を伸ばした。
その手が何か引っ掛かりのあるものに触れ、身体を支える力を僅かに感じた、その刹那。何かが弾けるような感触がして、一気に体が地面に落ちた。鈍痛。咥えていたパンが地面に転がり、ついでに僕もその上に顔を埋める。薄っぺらいトーストではクッションにすらならず、アスファルトの硬さがトーストの熱量を持って僕の顔面を襲った。
僕は、ぶつけたせいで痛む鼻頭をさすり、ダメになったパンに一抹の勿体なさを感じながら、ぶつかりそうになった少女はどうなったろうかと顔を上げた。果たして、少女は物理的なダメージはほとんど負っていないように見えた。ほとんど、と言ったのは、顔を上げた僕の目の前で、分厚いヴェールを取り払われた少女の別のパンが開帳していたからだ。大人しそうな顔に似合わず、レース刺繍の黒色だった。
「うわぁ、初めて見た」
呆然とした自分の口から出てきたのは、そんな感想だった。事態を飲み込み始めた少女の顔に、みるみる生気が戻ってくる。否、それはおそらく、血色の赤色ではなく羞恥の赤色であろう。
「へ」
「へ?」
少女の口から、僅かに裏返った音が響く。
「変態性欲、下劣、悪趣味、卑劣漢!」
その日、僕は初めて、その少女から手痛い張り手を貰った。
「おかしい、おかしい。この時間、ここには絶対、誰もいないはずなのに」
幸いにもホックが外れただけのヴェールを纏い直して少女。居合わせたのだから仕方あるまい、と内心で僕。
「あの」
「なに、不埒愚劣無礼千万」
随分と偏差値の高そうな罵倒である。流石は元有名大附属高校の生徒だと感心せざるを得ない。ではなく。
僕は、一度咳払いをして、少女……転入生の、名前は確か高嶺とか言ったか。彼女の目を見て、真摯に訴えかけた。
「転校初日から遅刻というのはいかがなものかと」
「どの口がっ……!」
と、高嶺は口を開きかけて、いよいよもって時間的に余裕がないことを思い出せたらしかった。
「よく覚えておきなさい、破廉恥輪島!」
「あぁ、はいはい、覚えておくよ、高嶺さん」
自分が悪いとは言っても、散々罵倒されて気分が良い筈もなく。僕らは、互いに苛立ちを隠そうともせず、二人で急いで学校に向かったのだった。
「何だ、輪島。珍しく遅刻ギリギリの登校じゃないか」
汗だくで着席した僕に声をかけてきたのは、クラスメイトで親友だった隣の席の萱野だ。萱野は、一言で言えば陽キャ、よく言えば明るく気さくで細かい所によく気付く奴、悪く言えば口うるさくて目敏いお調子者だ。
「考え事をしていたら家を出るのが遅くなっただけだよ」
「考え事〜?お前が?」
「……その言い方はちょっと失礼だぞ、萱野君」
実際、萱野の知る僕は考え事とか悩み事とは縁遠い性格であろうことは自分が一番よく知っている。しかし、それはそうとそういう言い方をされると気になるのが人間というものであろう。
僕の言葉に、萱野は珍しく……本当に珍しく……ぽかんと驚いた風な顔をした。近年稀に見る間抜けヅラである。スマホを構えられる状態であればすぐさま写真に残したのに、残念ながらスマホはカバンの奥底である。
「何か、あれだな。輪島、今日ちょっと雰囲気違うな」
「そうかな?」
それはそうだろう。なんて言ったって、萱野が知っている僕は気が遠くなるような日数を経験する前の僕なのだから。しかし、萱野のこの反応を見るのは、長く繰り返していて初めてである。何故かと考えて、そういえば今日は前の自分を演じていなかったなと思い当たる。
「って、んなワケないじゃん、一昨日一緒に遊びに行ったばっかだろ、萱野。そんな急に人が変わるかよ」
「だよな。わり、多分気のせいだ」
(笑)とでも付きそうな語尾で萱野。僕も「大丈夫か〜?」と草が生い茂った感じで返す。そうだ、僕らはこうじゃないとダメなのだ。
「そうだ、輪島、聞いたか?今日、隣のクラスに転校生が来るんだってさ。なんでも、県内の某国立大の附属高校からの転入生らしいぜ」
丁度さっき会って来た所だ、なんて言えるはずもなく。僕は「そうなんだ」と適当な相槌を打った。
しかし、転入生の高嶺。これまで話したこともほとんどなく、噂話しか印象にない生徒だったが……。実際に会ってみた印象としては、どこか引っ掛かりを覚える。
初対面の印象としては最悪だったことは間違いない。何せ、大事な布切れを意図したことではないとはいえ意図しない形で一方的に見ることになったのは事実だ。ちなみに僕個人としての感情としては嬉しさ半分罪悪感半分罵倒されての憎さが半分という具合だ。うん?今、半分って何回言ったかな。
いや、そんなどうでもいい事ではなくて、何か大事なところでもっと引っ掛かるべき所があるような、ないような。僕は久々に生じた知らない出来事に対して、随分長い間錆びついた頭を動かし始める。
「あ」
そして考えること数分程度。遂に、僕は自身が高嶺転入生に対して抱いていた引っ掛かりに思い当たった。
『よく覚えておきなさい、破廉恥輪島!』
別れ際、高嶺は確かにそう言った。果たして、今日が転校初日という生徒が、正式に編入してくるさらに前に、しかも隣のクラスの名も無き男子生徒の名前を、ピタリと言い当てる事が可能だろうか。それも、悩むような素振りもなしに、さも当たり前かのように呼ぶ事など、普通の人間にできよう筈もない。ならば、あの高嶺という生徒は——
「こら、お前たち、朝から騒がしいぞ。静かにしなさい。当番、挨拶」
僕の思考を強引に止めたのは、ガララと扉を開けて教室に入ってきた担任の一声だった。僕は当番の号令に慌てて起立して、一旦考えることをやめた。
昼休み。毎度のごとく、教室は転校生の噂で持ちきりだった。普段なら興味もなく聞き流している僕だったが、今朝のこともあったので、今日ばかりはこっそり聞き耳を立てることにした。
とはいえ、所詮は噂話。有名大学の附属高校からの転入生だとか、ミステリアスな雰囲気が良いとか、今付き合ってる人はいないらしいとか、そんな下らない、なんなら聞いたことのあるような話題ばかりだった。
そして遂に、それじゃあ実際にその転校生を拝みに行こうというムードになって、いつもならここで好奇心旺盛な萱野あたりが提案するのだ。
「それじゃあ、隣のクラスに噂の転校生を拝みに——」
行こうぜ、と。そう言う萱野をいつものように窘めようとして、萱野がぱくぱくと金魚のように口を動かしたまま固まっているのに気が付いた。その視線は一点から動いていない。
はて、何を見ているのだろう。そちらに目をやれば、そこにいたのは今朝方見かけた少女にそっくりな少女だった。そっくりな、と形容したのは、今朝に見かけた時とはすっかり雰囲気が違っていたからだ。
気だるげな目からは気だるさが抜け、神秘的な光が灯っているように見える。そして、生気が抜けたような空気感は、すっかり落ち着き払った大人のような雰囲気に変じていた。
人を偏差値の高そうな罵倒語で罵っていた時とも、以前一度だけ声をかけられた時とも違う雰囲気に、僕は一瞬、それが今朝方に見かけた人物と同じ人物だとは判断できなかった。
「あの」
彼女が一言口を開くと、ざわついていた生徒達が一斉に口を閉ざす。その時の彼女は、何故かそうしなければならないと思ってしまうような不思議な威圧感を纏っていた。僕とクラスメイト達はその後に続く彼女の言葉を固唾を飲んで待ち構える。
「輪島君、いらっしゃいますか?」
果たして、そんな風に噂の転校生が宣うものだから、クラスメイトと、ついでに転校生の後ろに集まっていた野次馬共の奇異の視線が一直線に僕に向かってくる。久方ぶりに感じる視線は、随分と居心地が悪いものだった。
「おい。おい輪島、噂の転校生殿が御指名だぞ!」
何とかして逃げられないか。そう画策しようとした僕の肩を、萱野がバンバンと叩く。よく言えば明るい、悪く言えば喧しい萱野の声が教室中に響いた。こうなれば、もはや何も逃げるという選択肢はあってないような物である。僕は立ち上がって、改めて件の転校生と目を合わせる。
こんなイベントは、随分長く続けた1週間どころか、それ以前の一生の中でも初めてだ。こういう時、どうするのが正解だったか。狼狽える僕の気など露ほども知らず、僕と転校生の間の人垣がさながらモーセの如く割れて、道が開かれる。
「えっと、高嶺さん、何か用事?」
不思議と、僕の声がいやに響いたような錯覚がした。
「はい、その、今朝の御礼を是非、と思いまして」
今朝の御礼。彼女が覚えておけと言い放った件であろう。
「何だ輪島ァ!抜け駆けかぁ!?」
などと、クラスメイトでもある男子生徒の一人が口を開くと、途端に静寂は破れ、温度差で鼓膜が破れるかと思うほどの大声が教室中に響き渡る。こうなると、教室が完全に無法地帯に成り果てるまで秒読みの状態であろう。しからば、渦中の僕と転校生は早々にこの場を立ち去った方が賢明に違いない。
僕は耳を塞ぎたくなるのを我慢して、目の前にいた転校生の手を引いて走り出した。ここでどのような奇行をしようと、どうせ来週にはまたいつも通りなのだ。僕はすっかり開き直って、人混みのできつつあった廊下を駆け抜ける。
「逃げたぞ!」
「何だ何だ!?」
「吊るせー!」
何か物騒な言葉に追われている気がする。しかし、走り出した以上、止まってしまえば飢えた肉食獣どもの格好の餌食になるのは目に見えている。体育の時間、無心になって走り続けた成果を見せる時が来た。僕は高嶺転入生の手を引きながら、この時間に人通りが少ない場所に思いを巡らせる。
「この時間なら、第三理科室が鍵も開いていて人が少ないはずよ」
「第三……あぁ、なるほど」
第三理科室。普段滅多に使われない教室で、この日は何故か丸一日空いている部屋だった。丁度、渡り廊下を挟んだ向こう側で、食堂に向かう人通りが多いこの時間なら、逆方向に向かう二人組を追跡するのは困難だろう。
「それ、採用!」
僕は正面に見える上級生の群れに向けて身体を滑り込ませる。迷惑そうな上級生の声と、背後の同級生がげっと息を呑むのが聞こえる。ざまぁ見ろだ。僕らは、追跡者に負けず劣らずの密度の上級生達に隠れて、第三理科室を目指した。
第三理科室の扉を開けて滑り込み。追手が追いつく前に内側から施錠する。薄暗いカーテンのかけられた理科室に鍵をかけてしまえば、ここは絶対に見つからない隠れ家になる。転校生騒ぎに耐えられなかった頃、何度か隠れるのに使った事があるので、その効力はよく知っている。
「結構強引なのね、強硬突破変態脱がし魔の輪島くんは」
「そういう高嶺さんはねちねちねちねち本当にうるさいな。除湿機でも貸そうか?」
この場合悪いのは100%僕なのだが、売り言葉に買い言葉で悪態をつく。そもそも普段いない場所によりにもよって今日いた高嶺が悪いというところもないではない、筈である。
「……まぁ、本題はそこではないから、今は許してあげます」
しばしの間の睨み合い。先に矛を収めてくれたのは、高嶺の方だった。あまりに呆気なく矛を引くものだから、構えたままの僕の方が拍子抜けだった。こうなると、いつまでも意地を張っているのも格好が悪い。
「……僕の方も、売り言葉に買い言葉だった。ごめん」
しっかり頭を下げて、改めて少女、高嶺の姿をしっかりと目に入れる。染み付いたかのような無駄に良い姿勢。出る所は気持ち出て、締まるところはしっかり締まったモデル体型。顔立ちは、とびきり美人という訳ではなかろうが、こんな田舎の学生達と比較すれば勝負にならないくらいには整っている。これまでの週で聞いてきた噂が正しければ、ちゃんとスポーツもできて勉学もできるようだから、まさしく天が二物も三物も与えたような人なのだろう。
そして、僕の予想が正しければ、僕と同じ秘密を抱えている。
「それで、本題は……。もしかして、この不可思議な……忌々しい、ループ現象のこと?」
尋ねると、彼女は確信していたというのが半分、驚いたというのが半分くらいの顔をした。
「冴えない奴と思っていたけれど、ちゃんと頭は回るのね、あなた」
「そりゃあ、どうも。どうせあなたほどではないですけど」
所々、失礼な物言いをするのは、きっと彼女の生来の性質に違いあるまい。僕は率直に言うと気を悪くしながらも、大人な対応でやり過ごす。
「まぁ、初対面でいきなり名前を呼ばれたら流石に気が付くわよね」
「そちらも、初対面でいきなり転校生だと看破されれば流石に見当もついたようで」
言うと、高嶺はなにやら気を害したように眉を顰めた。
「もしかして私のことを馬鹿にしてる?」
「もしかして僕の事を小馬鹿にされているのではと思ったので意趣返しになるかなと」
思わず本音が溢れる。これはもしかしなくても虎の尾か逆鱗にでも触れてしまったかもしれない。僕はまた偏差値の高い罵倒を受けるのだろうと身構える。しかし、僕の予想に反して、高嶺はついうっかりとでも言いたそうな表情で口元を手で隠すというあざと可愛いポイント的にかなり高得点を狙える構えを取った。
「ごめんなさい、ちゃんと他人と話すのが久しぶりだったから、つい思った事を正直一遍に包み隠さず言ってしまっていたわ」
「それは謝っている体で暗に僕のことを馬鹿だと思っていた事を認めてるんだよなぁ」
意図せぬ毒舌は下手な罵倒よりも効くのだなぁと雑感。続いた微妙な沈黙のあと、僕らはどちらともなく小さく笑った。
あぁ、これだ。これこそが、僕の求めていた物だ。
刺激が欲しい、などとは思わない。劇的な変化もいらない。ただこうして、取り止めのない、内容の無いような話で誰かと笑い合いたい。
今この瞬間にしてみれば劇的で刺激的な変化となったけれど、元々はそんなに高望みではなかったはずのささやかな高望み。それが叶っただけで、今の僕は救われていた。
「こんな風に、また誰かと話せるなんて思ってもみなかった。決まりきってない、はじめての会話ができるなんて——」
それは、奇遇にも僕自身が感じていたのと同じ感想で。僕らはそれから、ひとしきり静かに笑い合った。丁度その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが響く。
「あ、お昼休みが……」
「もう、休み時間なんてどうでもいいわ」
「本当?でも、転校初日でしょ?」
「何回目か分からない転校初日だもの。それより——」
するり、彼女は制服の胸のリボンを解いて、第一ボタンを外す。それは、ひどく扇情的な仕草だった。絶妙に制服の下の聖域を開示せず、それでいて先ほどまで隠されていた、ほんのり汗が浮いた鎖骨をこれでもかと言わんばかりに見せつけてくる。僕はごくり、と自分の喉が生唾を飲み干す音を耳にして、ようやく我に返った。
「だ、だめだ高嶺さん、いくらなんでも出会ったばかりで早すぎる……」
「早すぎるもなにも、私は早くしてしまいたいの」
情熱的なお誘い。すっかり枯れていたと思っていた情念が再燃し始めるのを感じる。しかし、輪島よ。君は本当にそれで良いのか?自問自答する。否、断じて否である。男輪島、容姿にも能力にも恵まれない自身が唯一誇れるのは紳士たる自覚ではなかったか。そんな事はなかったかもしれないが、なし崩し的に登って良い階段でもあるまい。
僕は腸を、否、我が身を断つかの如き覚悟を決めて、大きく首を横に振った。だめだ、高嶺。淑女たるもの恥じらいを忘れてはいけない。
「早くしたいかもしれないけど、そういうのはお互いをもっと良く知ってから——」
「今更何を言ってるの?ループ現象を終わらせるための話をするんだから、お互いループ現象に巻き込まれた者同士ということが分かれば十分でしょう?」
「だからそういうことは——」
それでも高嶺の誘惑は止まらなかった。一度は断った。二度目も耐えた、しかし三度となれば、かの有名な三顧の礼に倣って据え膳食わねば却って無礼というもの——
「って、ループ現象を終わらせる、話?」
「ほかに何があるのよ……。それにしても、二人でいると暑いわね、この部屋……」
……恥を知るべきは僕の方だったかもしれない。僕は忸怩たる想いで、呼ばれてもいないのに元気よく起立して今にも課題の発表をしてしまいそうな我が半身を心中で泣いて斬り捨て、内心で高嶺に平身低頭陳謝する。猛省、僕は不埒愚劣無礼千万でございました。
その後、とっぷり日が暮れるまで僕と高嶺は話し込んだ。話題はもちろん、このループ現象についてお互いが知っていること、試してみたこと、その全てについてである。その結果、驚くべき事実が判明した。
「——つまり、高嶺がこのループ現象に巻き込まれるのは、今回が初めてではないってこと?」
「うん。さっきも話したけれど、今週に入るまでは、私が"戻りたい"と思った時だけ、その1週間を繰り返すことができていたの。けれど、今週に入って、私の意図に反してループ現象が続いているわ」
「それはつまり、高嶺さんが超能力者だった、ってこと?」
「今、私が何者かなんて哲学をする事に意味なんてないけれど……そういう事になるかもね」
なんという事だ。つまり、ことの始まりはこうだ。高嶺は紆余曲折を経て転校してくる事になった。そして、転校最初の1週間を何故かやり直したいと思って、実際にやり直した。その結果、高嶺は自分の意図に反してループ現象から逃れられなくなり——僕は、それに巻き込まれたらしいという事だった。
「それは、高嶺さんが結局全て悪いのでは?」
「そう言われても、もう私の手から離れているのだから仕方ないでしょう?」
開き直られてしまった。けれど、仕方ないことかもしれない。僕がやってきた事に負けず劣らず、高嶺さんも色々やってきたのだ。しかも話を聞く限り、この制御できないループ現象に陥ってからの日数はおそらく彼女の方が幾分か長い。そう言えるのは、僕がループを認識し始めた頃には、彼女は既に今の感じだった……と、思うからだ。具体的には、最初の方の週は髪型が違ったらしい。
今は首下くらいまである髪をストレートにしているが、元々は後ろ手に纏めてポニーテイルを作っていたそうだ。ポニテの高嶺を想像してみる。可愛らしい。が、確かに見た事はない。
「それで、当事者の高嶺さんに何とかできないとなると、僕なんかが加わったくらいで何とかなるとは思えないのだけど?」
「それは甘い考えね、輪島くん。グラブジャムンの100倍甘いわ」
「ちょっと偏差値が高いのか低いのか微妙に分からない喩え方はやめてもらっていいですか?」
「一人でできた事は一人しかいなかったからやっていただけのこと……二人いれば二人いるなりの新しい事ができるのよ。 "Two heads are better than one"という言葉をご存じない?」
「ごめん、何言ってるか分からない」
突っ込みを無視された挙句なんだかよくわからない慣用句を引用された。とはいえ、確かに、一人より二人が良いという言葉もある。ここは一つ、高嶺の言い分に耳を傾けるのも悪くない選択肢に思えた。
「それじゃあ、今週はこんな感じで思い付いた事をなんでも試して行きましょう」
いつもと少し違う月曜日は、何か新しい事が始まりそうな、そんな一日だった。
火曜日。相変わらずの雨だった。いつものように担任もいない。しかし、普段通りだったのはそこまでで、4時間目の自習時間になると、僕の席の周りはいつになく高い人口密度でごった返していた。
「昨日は午後から高嶺さんとどこにいたんだよ!」
「高嶺さんとはどういう関係なんだ、吐け!」
「むしろ吊るせ!」
おおよそ、そのような男子生徒達の詰問である。隣の席から逃げられなかった萱野も巻き込まれているが、奴は雰囲気に飲まれてすっかり僕を問い詰める側に回っている。僕は曖昧に笑って誤魔化して、何ともなかったとか体調を崩した高嶺を保健室に送った後バックれただけだのと昨日打ち合わせた通りの言い訳で切り抜ける。
3時間目までは聞きたいと聞きたくないの狭間でなんとか踏みとどまっていたクラスメイトたちも、3時間目、隣のクラスの自習時間に響いてきた喧騒に感化されて我慢の限界だったらしい。
地獄のような自習時間を終えると、僕は大慌てで教室を出て、人目を避けるべく屋上に向かった。屋上とは言っても、外までは出ない。屋上に続く扉の前にある少人数で隠れるにはうってつけのスペースが目的地である。雨の日に屋上に近づく生徒は殆どいない。特に今日は、絶対に誰も来ないのを熟知している。
僕がそこでしばらく待っていると、少し遅れてちょっと疲れた風な高嶺がやってきた。
「随分やつれてるね、高嶺さん」
「そういう輪島くんもね。高校生の野次馬根性を過小評価していたわ……」
そういう僕らも高校生なんだぜ、とはとても言えなかった。
「それで、今日はどうする?」
「うん、昨日の晩しっかり考えたんだけど、まずは色んな所を遊んで回るのがいいと思うの」
突然頭のおかしい事を言い始める高嶺に、僕は憐憫の目を向けた。高嶺は露骨に嫌そうな顔をして、僕を見返してくる。
「やめなさい。そんな目で見るのはやめなさい」
「いや、疲れでとうとう頭がやられたんだなと思って」
「そんなわけないでしょ?昨日話した通り、このループ現象は私の無意識の暴走が原因だと思うの。だから——」
そこまで噛み砕いて説明されれば、さしもの僕にも高嶺の言わんとしていることは伝わった。
「もう今週はいいやって心から認められるようになれば終わるかもしれない、ってこと?」
「そう!でも、一人で遊ぶのはやり尽くしたから——」
「僕ら二人で遊んだらどうか、ってこと?」
何とも贅沢な解決法である。しかし、当の本人が言うならそうなのだろう。どのみち、藁にも縋る立場の僕に拒否権などないのだ。ループ現象の解決と、ちょっと可愛い女の子とのデートが両立すると思えば、役得というものだろう。
僕らは放課後、どこでどう遊ぶかを決めるために再び集まる事を約束して、昼休みの邂逅を一旦終える事にした。
「はー。でも、こんな風に相談できる人がいるなんて思ってもなかったから、ちょっとだけ安心ね」
そんな風に胸を撫で下ろす高嶺は、昨日見た時より幾分か気が緩んでいるように見えた。
結局、その日の放課後、今週の日曜日に都会の大きな遊園地に遊びに行く事を決めて、風向きの変わり始めた2日目は終わった。
水曜日。この先の未来を暗示しているかのようなさわやかな快晴だった。
「ちょっと前から思ってたんだけど、水曜日は毎回靴が綺麗だよね」
体育の時間、クラス別の号令と準備体操を終えた僕の元に、同じく準備を終えた体操服の高嶺がやってきた。そういえば、体育は学年合同なのだから当然といえば当然の話だった。
前の高校のものであろう見覚えのない体操服を、僕は思わずまじまじと見てしまう。いけない、これでは不躾変態痴れ者輪島などと言われてしまう。僕は咄嗟に視線を逸らした。
体育の時は髪を纏める方が楽なのだろう、高嶺はいつか話題に上がったポニーテイルの髪型だった。しかし、やはりその姿に見覚えがない。その事について尋ねると、ここしばらくは"女の子の特権"で体育は見学していたのだとか。それは、通りで体操服姿すら見覚えがないはずだ。しかし女の子の特権とは何だろう。尋ねても、高嶺は曖昧な言葉で誤魔化すばかりだ。まぁ、僕には及びもつかない特権なのだろう。
「身体を動かしていると余計な事を考えなくて済むからね。ちょっとした癒しだったんだ」
「そんなものかしら?でも、最近はいつも後ろの集団にいるわよね?」
小首をかしげる高嶺。本当に、人のことをよく見ている。僕はちょっと詰まって、さっきとは別な意味で視線を逸らした。
「報われない努力というのがこの世にはあるんだよ、高嶺さん。僕は元々、運動があまり得意ではなかったから」
むしろ、今は適切なペース配分ができていると言う所を評価して欲しい。などと、僕が内心で言い訳をしていると、高嶺は憐れむような目を僕に向けてくる。
「確かに、このループじゃあ体力も上がらないものね……」
「やめてくれ。そんな目で僕を見るのはやめてくれ」
……余談だが。この日の体育で、僕は高嶺の身体能力が噂に違わず立派なものであることを思い知らされた。ぬかるんだ道を走るのは初めてだろうに、足を取られる事もなく華麗に走り切った様には感動すら覚えた。
木曜日。……この日に登校するのは、何週間ぶりだろうか。
朝、教室に入ると、僕は盛大なクラッカーで迎えられた——なんて事はなく。教室に入ってくる友人達が口々に祝いの言葉とバースデーカードを置いていくのに、愛想笑いで礼を言ってカバンに詰め込むくらいなものである。誕生日とは言っても所詮その程度のささやかなものだ。しかし、その日はいつもとちょっとだけ様子が違った。
「……やぁ、おはよう、高嶺さん」
「おはようございます、輪島くん」
朝一番から高嶺と顔を合わせるのはこれが2回目か。何事かと、既に登校していたクラスメイトたちもちらちらとこちらを窺っているのか分かる。
「えっと、何か用事?」
「今日があなたのお誕生日だと、昨日クラスの友達に教えて頂きましたから。色々お世話になっているので、一応お祝いをと思っただけです。おめでとうございます」
そう言って差し出されたバースデーカードは、多分CMか何かで見た覚えのある可愛らしい柄のカードだった。開いてみると、高い教養の滲み出た、かつ可愛らしい文字でシンプルに「お誕生日おめでとうございます」と書かれている。別に何でもない社交辞令のカードなのだろうが、これが今週一杯しかないというのが惜しく感じる程度には、ちょっと嬉しい出来事だった。感動する僕の耳元で、高嶺が囁く。
「せっかくだから、今日の誕生日パーティー、お邪魔してもいいかしら?」
「えっ?」
「友人の誕生日パーティーに参加するの、初めてなのよね。満足したらこのループ現象も終わるかもしれないわよ?」
そう言われたら、断る理由なんて見つからなかった。
「おじさま、おばさま、初めまして。高嶺凛と申します。まだまだ引っ越してきたばかりですけど、輪島くん……和人くんには、お世話になっております」
「あらあらまぁまぁ!まさか和人がこんな別嬪さんを連れてくるなんてねぇ!」
「やるじゃないか和人、隅に置けない奴だなぁ」
夜。うちにやって来た高嶺に、うちの両親はすっかり感動しているらしかった。こんな風に喜ぶ両親を見たのは、本当にいつぶりだろうか。それだけでも、今日高嶺を呼んだ意味があったと思えた。……この喜び方は、ちょっと鬱陶しい感じはするが。
「父さん、母さん。高嶺さんが驚いてるでしょ。それに、高嶺さんとはそういう感じじゃないからさ」
なんて窘めても、すっかり上機嫌に出来上がった両親が落ち着くはずもなく。……この日は、いつにも増して楽しい誕生日になった。味が濃いだけの鶏肉も、甘ったるいだけのショートケーキも……なんだかとても、美味しく感じた。
「良いご両親だね」
誕生日パーティーが終わり、高嶺を家まで送る道中。ぽそりと、高嶺が呟いた。
「そうかな。鬱陶しいだけ……だって、前までは思ってたけど。もしかしたら、やっぱり良い両親なのかも」
「何それ、自慢?」
「最初に言い出したのは高嶺さんでしょ。高嶺さんの親御さんは?」
「私?私は……。どうかな。もう随分会ってないし、忘れちゃった」
高嶺の方を見ると、彼女の顔は青白い満月の月光に照らされて、どこかとても寂しげな色に見えた。その顔をよく見ようと目を凝らすと、高嶺は困った風に笑って僕の額をつつく。
「ちょっと、人の顔をじろじろ見過ぎだぞ、不躾無遠慮粗野輪島」
「なんだろうね、その並べ方をされると僕の名前がそれらの単語の類義語みたいで嫌だな」
「輪島(わ-じま)(形),①礼儀作法に欠けている様。また、深い思慮に欠けている様。②洗練されていない様。不作法」
「人の名前を勝手に辞書に、しかも悪い意味で登録しないでくれない?」
なんて、僕らはまん丸な満月に見送られながら、その冷たい学校の下、何ら意味のない言葉で沈黙を散らして歩いた。……久しぶりのちゃんとした誕生日は何だかちょっぴり嬉しかった。
金曜日。終礼を終えて帰ろうとする僕を、担任が呼び止めた。
「輪島、ちょっと良いか?」
「はい、先生」
改まった雰囲気。今日もまた、「最近ちょっと様子がおかしいが大丈夫か?」などと言われるのだろう。そう思って身構えていると、担任の口から出たのは意外な言葉だった。
「転校して来たばかりの高嶺のこと、気にかけてやってくれてありがとうな。……だが、不純異性交遊にだけは気を付けるように」
最後は冗談めかして小声で言う担任。下手したらセクハラですよ、と返してやると、担任はがははと下世話に、小気味よく笑う。……多分、良い先生なんだろう。改めて、そんなことを思った。
土曜日。
いよいよ明日がXデーだ。今日は高嶺と確認した予定通り、予約した明日のチケットを取りに行った。直接行かなくてもコンビニで発券できるなんて、初めて知った。電車のチケットも確認。降りる駅も、出発時刻も、全部しっかり確認した。なぜか、少し緊張している自分がいる。
……そういえば、日曜日をちゃんと過ごすのも、随分久しぶりのような気がする。入念に準備をしていると、久々に見る綺麗な夕日が目に入った。言われてみれば、いつもはもっと早い時間にヒモ遊びを始めるものだから、この夕陽を見るのも久しぶりだった。何だよ、結構綺麗じゃないか。意外とどうでも良いことで感動できるのだと、感動した。
日曜日。すっかり忘れていたが、この日は過ごしやすい晴れのち曇りの1日だった。高嶺は白色のワンピースの上から空色のシャツを羽織るという涼しげな出立ちで、ジーパンに白のTシャツ、ジージャンなんていうお洒落のカケラもない服装の僕には眩しすぎる格好で待ち合わせ場所に居た。
「無骨野暮、地味不粋……。でも、嫌いじゃないよ、輪島らしくて」
それはフォローになっているんだろうか。自分でも分かっている事とはいえ、前半部分さえなければ素直に喜べた物を。しかし、あの高嶺が貶しながらも一応褒めてくれたというのは、特筆すべき事項であろうか。しかし、言われっぱなしは癪である。
「そりゃ、どうも。高嶺さんの方は眉目秀麗、洗練優雅って感じだね」
僕は、念のためにと用意して来た薄っぺらい語彙を総動員して報復する。高嶺の目が、僅かに見開いたのが分かる。ちょっとは驚いてくれたらしい。どうだ、参ったか。
「そりゃ、どうも。ちなみに野暮な重箱の隅をつつくと、眉目秀麗は男性に対する褒め言葉だから教養の低さが滲み出てるわね。輪島らしいけど」
「今のナシ。ちょっとスマホで調べるから待ってて」
「待ちません〜。これでループ現象が終わらなかったら来週に期待するね」
「全然冗談になってないけど」
軽口を叩きながら、電車に揺られる。
遊園地では、ジェットコースターに乗り、ティーカップを楽しみ、お化け屋敷を巡り、観覧車に乗って、夜景を楽しんで——楽しいまま、日付が変わる時間になった。
「楽しいね、輪島。今がずっと——」
その言葉の先は、聞くことができなかった。気が付けば、僕の意識は途切れていて、いやにけたたましいアラームの音が頭を揺らす。微睡から一気に覚醒して、アラームを止める。スマホの画面を見ると、見慣れた画面。見慣れた月日。5月某日、月曜日。
また、地獄のような1週間が始まった。
朝。大慌てで高嶺の家の前に行くと、丁度高嶺も家から出てくる所だった。
「おはよう、高嶺さん」
「わ、おはよう、輪島くん。昨日、どうなった?私、観覧車の途中で意識が途切れて」
その高嶺の反応に、少し安心する。よかった、あの時間を過ごしていたのは、僕だけじゃなかった。朝起きた時に頭に過った嫌な想像がひとまず否定されて、僕は思わずその場にへたり込む。
「輪島くん!?大丈夫!?」
「あぁ、うん。急いできたから、気が抜けて……。とりあえず、高嶺さん。今週は、何をしようか?」
早く、このループ現象から抜け出したい。僕の想いは、それだけだった。
だから、僕の言葉に、高嶺が喜んだような、喜べないような、微妙な表情を浮かべた事に……この時は、気付くことができなかったのだ。
〜〜〜〜〜
日曜日。今週は海に行きたいと高嶺。待ち合わせ場所はいつもの駅前。他愛のない話をしながら電車の車窓から見た海は、この1週間の中では一番綺麗な景色だった。実際に着いてみるとまだまだ肌寒く、海水浴を楽しむ、とまでは行かなかったが、二人で海岸沿いを歩いてみたり、貝殻を拾ったりして楽しんだ。
「今度は入れる時に来たいね。こんな風に入らないで散策するのも悪くはないけど」
けたたましいアラームが僕の意識を覚醒させる。見慣れた画面、見慣れた月日、5月某日月曜日。また、少しだけ楽しみな、地獄のような1週間が始まった。
「おはよう、輪島くん。先週の海、綺麗だったね。それで、今週の話なんだけど——」
学校に向かう道。僕と高嶺の家の丁度間、初めて出会った交差点。ここで待ち合わせるのが、最近の日課になっていた。僕は先週のことを考えて、市内の温水プールがいいんじゃないかと提案してみた。
日曜日。温水プールは、意外と人が多かった。子連れ、カップル、小学生。多様な利用者たちがひしめき合って、さながら芋洗いの様相を呈していた。芋洗い、というのは少し誇張しすぎたかもしれない。全然泳げるくらいのスペースはあったのだから。
「周りから見たら、私たちもカップルみたいに見えるのかな?あ、不敬不相応妄想狂輪島、あんまり意識しすぎないように」
偏差値が高そうな罵倒と一緒に刺された釘は、言葉のニュアンスより幾分かマイルドな切れ味を持って僕の心にやんわり刺さる。別に、僕らがそういう関係でないことくらいしっかり弁えている。ただ少し……それを寂しく思うくらいの自由は、僕にもあるだろう、きっと。
「楽しいね、輪島くん。来週はどこ行こうか?」
暗転、アラームが鳴り響く。5月某日、見慣れた日付、月曜日。地獄のような1週間が、また始まる。
「おはよう、輪島くん。今週なんだけど——」
日曜日。
暗転、アラーム。月曜日。
日曜日。暗転、アラーム、月曜日。
暗転。アラーム、月曜日。
アラーム、月曜日。
アラーム。アラーム。アラーム。アラーム。アラーム。
月曜日。
月曜日。
また、地獄のような1週間が始まる。
「おはよう、輪島くん。今週なんだけど——」
「はぁ……」
「何だ、輪島。元気ないな」
昼休み。思わず出たため息に目敏く気付いたらしい隣席の萱野が、周りの連中が飽きもせず転校生の話をしている中僕に話しかけて来た。
「萱野。何か、久々だね」
「久々って……一昨日一緒に遊んだばっかじゃねーかよ。ついにボケたか?」
「うっせ。そんなことより、噂の転校生は見に行かなくていいの?」
「あ?そりゃあ、知らない転校生に興味はあるけどよ。何か知らんが悩んでそうな親友とどっち優先するって言われたらなぁ」
「萱野。お前、もしかして意外に良い奴……?」
萱野とは一方的に随分長い付き合いだが、こんな事を言い出す奴とは知らなかった。いや、思い返せば、転校生よりも僕のことを気にかけている週がなかったではない、ような気もする。結局、相談しても無意味だと思っていたが……。
しかし、目先の目標が高嶺の心からの満足であるとするなら、この一言で言えば陽キャ、よく言えば明るく気さくで細かい所によく気付く奴、悪く言えば口うるさくて目敏いお調子者に相談してみるのも悪くはないのかもしれない。僕は意を決して、萱野に相談してみる事にした。
「萱野、相談なんだけど」
「おっ。何だ何だ?」
「実は最近、週末ごとに遊んでる女の子がいるんだけどさ」
「は?初耳なんだが?」
身を乗り出していた萱野が、あからさまに驚いた風な顔をした。別に、女の子の遊び相手がいるくらいおかしい話でもあるまいに、僕の交友関係一つでそんなに驚かなくてもいいじゃないか、と内心既にちょっとゲンナリ。
「言ってないから」
というか、言う機会すら最短で今日にしかならない。
「女の子って、いつ付き合い始めたんだよ」
すぐに恋愛に結びつける萱野。しかし残念ながら、この関係はそんな色めくめくるめく春色の関係ではない。
「付き合うとかそういうのじゃないって。ただの友達……とは一概に言えないかもしれないけど、とにかく恋人とかそういうのでは断じてなくて」
一体どこの世界に、事あるごとに偏差値が高そうな言葉で罵倒される関係の彼氏彼女がいるのだろう。このループ現象を共有していると言う点でただの友達とは言えない気がするが、逆に言えば僕と高嶺の関係はそれだけである。このループ現象さえ解決すれば、彼女とは隣のクラスの話題の転校生と、隣のクラスの冴えない男子高校生というだけの関係なのだ。
「彼女が中々満足してくれないっていうかさ。楽しんでくれてるとは思うし、僕も楽しいんだけど、心からは満足できていない感じというかなんというか」
「はーん。何だ、輪島。お前、一丁前に女の子をデートで満足させたいとか思ってるんだ」
「デートって訳でもないけど。萱野、一応女子のカテゴリじゃん?どうしたら満足できるかとか思い当たらないかなって」
「一応は余計だこのバカ」
言って、萱野が僕の脇腹を妙に痛い肘でいじめる。男子のような距離感で忘れそうにもなるが、これでも萱野が来ている制服はセーラー服にスカートなのだ。何か、参考にできるところもあるかもしれない。
「思うに。その子多分、お前のこと好きだぞ」
あらかた前回までの今週にあった出来事をかいつまんで説明すると、萱野がそんなことを宣った。
「は?いやだって、事あるごとに偏差値高めの罵倒されるのに?」
「はー、わかってねぇな。照れ隠しに決まってるだろ?っつーか、本気で罵倒するような相手ならそんな何週間も一緒に遊びに行かないでしょ。わざわざ自分から行きたい場所まで伝えちゃって……はー、眩しいねぇ、アオハルってやつ?」
そんなことは。ない、とも言い切れない……のだろうか。僕は、高嶺とは秘密を共有しているだけの関係だと思っていた。
遊びに行くのも、仕方なく、成り行きで、ほかに道がないからだと。僕だから一緒に遊びに行きたい、なんて、考えてもみなかった。けれど、言われてみれば、遊んでいる時の高嶺はとても楽しそうで、魅力的で……。萱野の一見荒唐無稽な言い草に、ちょっとした説得力を感じてしまうくらいには、キラキラしていたような気がする。わからない。
考え込んでいる僕を現実に引き摺り戻したのは、昼休みの終わりを告げるチャイムの鐘だった。
「まぁ、続きは放課後にでもやろうぜ。とりあえず、次は移動教室だし、さっさと移動しちまおう、親友」
そして、放課後には萱野による恋愛講座的な物が開講され……そんな風に、今回の月曜日は僕の中に小さな種を落として、終わった。
木曜日。
もはや恒例になった誕生日パーティーで、狂喜乱舞する両親を宥めた後、高嶺を家まで送っていく。いつも顔を合わせる交差点を曲がって、青白い月明かりの下を言葉少なく歩く。
「高嶺さん」
「なに、輪島くん」
打てば響く太鼓のような、涼やかな鈴の音が返ってくる。それはまるで、数年来の友人のようで——実際、二人で過ごした時間はそろそろ数年に差し掛かろうとしていた。
「違ったら、いつもみたいに偏差値高めの罵倒を浴びせてくれて構わないんだけど」
「うん」
ムードもへったくれもない、最低なタイミングかもしれない。けれど、僕らにはこの1週間しかないのだから、いつ口にしても、多分関係ないだろう。
「高嶺さんって、僕のこと好きなの?その、恋愛感情的な」
それまで同じリズムで歩き続けていた隣の足音が、突然ピタリと止んだ。足音の主に目をやると、彼女は俯いて立ち止まっている。月影の当たらなくなった顔色を窺い知ることはできない。多分、今、その教養の高い語彙を全力回転させて今の僕に適切な罵詈雑言でも組み立てているのだろう。そう身構えていると、とうとう高嶺の口が開かれる。
「ばか」
端的な一言だった。いつもなら、二字熟語、あるいは三字熟語、ないし四字熟語を織り交ぜた文学的な罵倒が飛んでくるはずである。それがない時点で、この質問が普段の失言とは質的に全く違うものである事が窺えた。
「えっと……」
とはいえ、それがどう言う質の何なのか、経験値皆無の僕に分かるはずもなく。必然、次の高嶺の言葉を待つ事になる。今日の夜空と同じ、どこまでも続きそうな重々しい沈黙の後、再び、高嶺の口が開く。
「暗愚、鈍感、朴念仁。嫌いな訳ないじゃん、馬鹿」
そう言った高嶺は、勢いよく路地を走り去った。すれ違い様、表情こそ伺えなかったが、ちょっと耳が赤く見えたのは、気のせいだろうか。少し特別な木曜日の夜は、僕の胸に何か今までと違う火を灯して、更けていった。
日曜日。結局、金曜日も気まずくて顔を合わせないまま、約束の日がやってきた。今日は、三駅くらい先の繁華街で一日ぶらぶらする予定である。待ち合わせ場所のいつもの駅前に着くと、高嶺はいつもの白いワンピースの上から丈の長い空色のアウターを羽織って待っていた。
「待った?」
「遅い。重鈍、緩慢、愚図鈍間」
酷い言い草だけれど、それが字面よりも幾分か親しみを持った言葉であることは、そのにこやかな表情から明らかだった。
「このやりとりもここまで続くと様式美って感じだね」
「これがないと1日が始まらないくらい?」
「うーん、まぁ、罵倒には違いないから無いに越したことはないけど……高嶺さんが罵倒してくれないのも調子狂いそう」
「今の、ちょっと気持ち悪いよ?」
「それは言ってて思った。忘れてください」
「残念、私は忘れてあげません」
なんて、笑って無意味な雑談を繰り広げて。今日も高嶺は絶好調だった。
ゲームセンターを遊び尽くして、カラオケルームで散々歌い倒して。気付けば今日も夕暮れだった。
「はー。今日も遊んだね」
高嶺が疲れたような、満足したような感じで言う。僕も同じ気持ちだった。駅前のロータリーで、僕らは適当な腰掛けに座りながら夕陽を見送る。二人で見る綺麗な夕日は、何回見ても綺麗だった。物寂しい情景の中、車と、電車と、帰る人のざわめきだけがロータリー内にこだまする。その騒めきの中、僕らは二人、心地良い沈黙に身を預けていた。
「この前の話だけど」
不意に、高嶺が口火を切った。
「うん、好きだよ、私。輪島くんのこと。多分、初めの週から」
初めの週、というのは。一体いつの話なのだろう。僕は高嶺の顔を見る。高嶺の横顔は、正面からの夕陽に照らされてか赤くなって見える。いや、よく見ると、日の当たっていないはずの耳も赤くなっている。なんだか見てはいけないものを見たような気がして、僕は慌てて夕陽に視線を戻した。
「最初の週はね。抜き打ちテストで点数が取れなくて、体育でぬかるみに足を取られて転んで、何もかもうまく行かなくて。でもね、転んだ私に声をかけてくれて、へこんだ私を元気付けてくれて、最初に友達になってくれたのが輪島くんだったんだ」
やり直したから覚えてないと思うけど、と高嶺。そんな事があったというのは、自分のことながら初耳だった。
「でも、来週に進めなくなって、もう終わりなんだって、ううん、始まらないんだって。でも、輪島くんと同じループにいるんだって分かって、ちょっと嬉しかったんだ。もしかしたらずっと一緒にいられるかもって。……なんて、こんな性格の悪い女、嫌だよね」
「嫌、じゃない。この1週間が終わらなくなって、地獄のような1週間だって、思ってたけど。こうやって秘密を共有できる高嶺さんがいてくれて、毎週遊べて……楽しかった、から」
ここ最近の1週間は、本当に、確かに、楽しかった。それは掛け値無しの本音だ。再び、沈黙。不思議と嫌じゃない。ただ同じ時間を共有している、それたけで沈黙にも意味がある気がした。
それに。
僕は、隣に座る高嶺の姿を、今一度盗み見た。
この数日、ずっと考えていたけれど。もしかしたら、僕は。僕も、高嶺の事が好きなのかもしれない。
「輪島くん……和人くんって、呼んでもいい?」
「別に、いいけど。高嶺さんは——」
「凛って、呼んで。そしたら、満足できるかもしれないから」
僕の言葉を遮って、高嶺。いや、凛。満足できたらループ現象から抜け出せるかもしれない。そんな取引から始まったこの関係だけれど、もしかしたら、その先に進んでも良いのかもしれない。
「わかった、凛……さん」
刹那、唇に甘酸っぱい感触。初めてのそれは、さっき凛が食べていたクレープのチョコレートの味がした。
5月某日、月曜日。少し楽しい、1週間が始まった。
「和人くん、おはよう」
朝、家の扉を開けた先には、今日転校してくる凛がいる。今週は、どんな1週間になるのか。同じだけど新しい1週間が、少し楽しみだった。こんな気持ちで1週間を迎えるのは、本当に久しぶりかもしれない。僕は弾む心を確かに感じながら、凛と二人で学校に向かった。
この週、僕たちは一つ、階段を登った。
「和人くん、おはよう」
5月某日、月曜日。その日は、再びやってきた。僕らにとっての日常。文字通り、変わらない日々。結局、凛が満足できたらループ現象は終わるかもしれないという仮説は正しくなかったのかもしれない。でも、僕はそれでも良かった。二人だけで過ごす時間。それは、どれだけ続いてもいいと思えるくらい、かけがえのない時間だったから。
「和人くん、おはよう」
5月某日、月曜日。楽園のような1週間が、また始まった。
5月某日、月曜日。
「和人くん、おはよう」
「おはよう、凛さん。こうやって挨拶するのも、もう何回目かな。何か、何回やっても照れくさいね」
「?急に変なこと言い出すわね、奇妙奇天烈、珍妙卦体な和人くん。こうして私があなたの家まで迎えにくるのは、今日が初めてでしょ?」
「え?」
その凛の言葉は、酷く遠くから響いたような気がして。僕は、深く考えることをやめた。
だって、凛はこのループ現象を始めた人で、彼女が満足したら、長く続いたこのループ現象は終わる筈なのだから。
アラーム。見慣れた画面、見慣れた月日。聞き慣れたインターホンのチャイム。5月某日、変わらない、けれど新しいはずの月曜日。
「和人くん、おはよう」
「こうして凛さんがうちまで迎えにきてくれるのは、今日が初めてだね」
「ええ。でも、明日からもずっとそうよ。これからは、私達、ずっと2人きりだもの」
「そう、だね。うん、そうだ」
そうだ。このループ現象は、凛と、僕の。二人のものだ。二人だけのものでなければ。
5月某日、月曜日。
いつものけたたましいアラーム。
見慣れた月日。
すっかり日常になった、彼女の初めての迎え。
「和人くん、おはよう」
そうでなくてはいけない。凛と僕、二人きりの、二人だけの、ずっと続く1週間。そうでなければ、僕は。
5月某日、月曜日。
「和人くん、おはよう」
僕は。置いて行かれてしまったことになってしまう。二人きりだった時間から、また、一人きりの時間に。
「和人くん、おはよう」
一人は、嫌だ。
「和人くん、おはよう」
凛。凛。お願いだ、頼むから、僕を、1人にしないで。
「和人くん、おはよう」
あぁ、凛。
そうか、君は。
抜け出して、抜け出せて、しまったんだな。
僕は、不意に悟った。
「和人くん、おはよう」
僕は。
僕は——
「和人くん、おはよう」
5月某日、月曜日。
また、地獄のような一週間が始まった。
感想等あると嬉しいです