勘定合ってヒモ足らず。2
ハイカラーシャツとネクタイ。ベストにスーツを着込み、髪の毛をきっちりと撫で付け、おまけに銀縁の眼鏡まで掛けている樟陽。そんなかっちりとした格好は、ついぞ見たことがない。
いつものへらへらした様子しか知らない私は、華族学院の廊下を生真面目そうに進む樟陽の後ろに、狐につままれたような顔をしてついて歩いていく。
まさか本当に華族学院へ入り込む伝手があったとは……。
てっきりセーラー服を着て顔を隠し、学院内にこっそりと紛れ込むのが関の山だと思っていたのに。
いえまあ、確かにセーラー服を着なくてすんだだけでもありがたいのだけれども。
一つ息を吐きながら、年甲斐もないことをせずに済んだことに安堵する。
とにかくこうして私たちが華族学院の中に入れたのも、樟陽が西欧芸術史の代理教師として手を上げたからなのだ。
大きな画板を肩に掛け、堂々と歩く樟陽の姿はまるで本物の教師のように見える。彼を贔屓にしている奥様方ですらぱっと見では気がつかないだろう。
……しかし、法学を学んでいるはずなのに、何故に芸術史?
そう思わなくもないけれど、助かったことには変わりはない。
おかげでこうして私もこうして樟陽のお手伝い役として華族学院の中にまで入り込めたのだから。
「しかし、その髪色もたいそうお似合いですね、苺子お嬢さ……げふっ、ん!」
「その呼び方は止めなさいよ。かー……花山でしょう。私は沼田先生のお手伝いの花山ですからね」
沼田という架空の人間まで用意しておいて、私のことを華妙院苺子だと呼ばないで欲しい。そういう意味も含めて肘で脇腹を小突く。
「ああ、はいはい。そうでした。俺は臨時教師の沼田で、貴女は手伝いの花山さん。で、本当にお似合いですよ」
予鈴の音が響き、廊下に誰もいなくなると知るや、くるりと後ろを振り向いた樟陽。そして突然何を言うかと思えば私の変装を褒めたたえる。
華妙院家の屋敷の中でも女性であれば誰彼ともなく声をかける男だ。女性相手ならいちいち褒めずにいられないところが、樟陽の樟陽たるゆえんだろう。
でもまあ、確かにこの髪色の染めは見事なものよね。
頷きながらそっと束髪に手を置く。私の漆黒といっていいほどの黒い髪色が柔らかい栗色にと綺麗に染め上げられていた。
これだけでも私のきつい印象がガラリと変わる。そのうえ顔には薄墨でそばかすを書き入れ、顔半分ほどの大きな眼鏡も掛けた。
そうして少しうつむきがちに歩けば、私のことを『悪役令嬢』などと呼ぶ声もただ一つとして出てこなかった。
「染織家には“水乃気”持ちの方が多いとは聞いていたけれども、こんなふうにも使えるのねえ。初めて知ったわ」
「“気合”で生み出される異能は普通とは違いますからね。“水乃気”でならばどんな色でも自由自在らしいですよ。ただし、それだけ扱える理髪師の数は限られていますから、まだまだ珍しいものですけどね」
その新しい技術をどうやって一書生である樟陽が知り、なおかつ予約を入れられたのか、本当に謎だ。
どういう交友関係なのだろうか。けれども聞いたところでどうせはぐらかされる。
実際施術してくれた理髪師の女性は、静かな笑顔を向けてくれたものの私とは一言も話をしてくれなかった。
……この顔が怖かったのかな? そうじゃないと信じたい。
「まあ、いいけれど……」
「え、何か言いました?」
「何でもないわ」
とにかく女生徒たちから、誰が「悪役令嬢」とやらの噂を広めたのか、話を聞いてみたい。その前にやるべきことは、と足を動かしていたら前に歩いていたはずの樟陽に追いついてしまった。
「え? あ……」
いつの間にか横に並んでいた樟陽が、私の髪にそっと手を当てた。
「本当にお似合いだ。けれど、俺はいつもの髪色の方が貴女らしくて好きですけれどね」
普段とは違う格好の樟陽に、普段よりも甘ったるい声でそう囁かれ、思わず心臓が跳ね上がった。
「……何を、バカなこと言っているの? 巫山戯るのは後になさい」
「巫山戯てなんてないんですけどねえ」
コテンと首を傾ける。いつもの樟陽の癖に、ほっとするような、落ち着かないような気分になる。
「そ、それよりもこの色の落とし方はどうすればいいって言っていたかしら?」
「普通にお湯で落とせるようですよ。少しくらいの雨程度なら大丈夫だそうですが、ずぶ濡れになるのは困ると注意書きを渡されました」
それを誤魔化すように思いついた言葉を口にすれば、樟陽の手でヒラヒラとはためく注意書きの向こうにはどんよりとした曇り空。今にも雨が降り出しそうな空模様にがっくりと首を落とした。
……早く言いなさいよ! 時間がないじゃないっ!
その注意書きを指からむしり取り、とっとと歩いて教室に行けとばかりに、私はおもいっきり樟陽の背中を押した。