ヒモにひかれて婚約破棄。2
――時は一時間ほど巻き戻り、青銅造りの趣あるシャンデリアから煌びやかな光がこぼれ落ちる大広間。
私、華妙院男爵家の長女苺子は、その豪華さにうっとりとしながら頭の中でそろばんの玉をはじいて楽しんでいた。
澄みきった秋の空気が天の高さを一層押し上げ、満天星が紅く色づき始めた本日、この日乃原皇国華族会館にて開催されているのは、今夏に講和条約が締結されたルシャワン国との戦勝記念祝賀会。
そこかしこで上がる乾杯の声も炭酸酒同様にパチパチと跳ね上がる盛況振りだ。
そんな意気軒昂たる管弦楽団の生演奏が奏でられる中、いつの間にか私は自分よりも五つは若いであろう令嬢たちに囲まれていた。
目の前には、色とりどりのドレスが立ち並ぶ。
そのほとんどがスカートの後ろを持ち上げたバッスルスタイルのドレスだ。赤地に総柄の道長取花文の友禅振袖で参加した私とは違い、最先端のスタイルに身を包んでいる。
何故か彼女たちは片手に大きな羽の扇を持ち、口元を覆いながらじろじろとぶしつけな視線を私へと走らせていた。
この状況にどう対応しようかと考えていると、敢えて無視をしているのだと受け取ったのだろうか。その内の一人の令嬢がもったいぶったように、何かの台詞をそらんじるように言った。
「貴女が皇都女学院の悪役令嬢ですのね。ふふ、お噂通りの毒々しい御方ですこと」
「……あく、やく、令嬢?」
初めて耳にする言葉を復唱するが、全く意味は分からない。
先をうながそうと、できるだけ笑顔を作り口の端を上げたが、逆に半歩後ずさられてしまった。
「この私が、悪役令嬢……と、あなた方はおっしゃるのね」
「そ、その通りです。まさか、ご自覚がおありではないなど……あり得ませんわ」
「あれだけのことをしておいて、ねえ」
「まあまあ、皆様。御自分でお認めになられるくらいならば最初から悪役令嬢などと呼ばれる訳がございませんでしょう?」
強気な令嬢がなんとか言葉を吐き出し、その通りだと不躾な相槌を打ちだす様子に首を捻る。
……もしかして、新しいお芝居の流行?
そういえば最近は洋食レストランの方ばかりに力を入れていて他の流行がおざなりになっていたわね。
ああ、洋食といえば、今日はせっかくの華族会館での祝賀会なのだから、新作品書きの着想を得ようと思っていたのに。
そうでなくとも私には考えることが多いのだ。
すぐに考えても意味のなさない問題は頭の隅から追い出されてしまう。
皇都女学院在学中から華妙院家が経営する商店の手伝いをしていた身として、暇な時間はあまりなかった。座右の銘は勿論『時は金也』だ。
「もし? 聞こえていらっしゃるの?」
本日何度目かの言い掛かりと共に、令嬢の持つ翡翠色の扇が肩をかすめるように動く。
それをできるだけさらりと優雅に避けた。
「触らないでくださいますか? 貴女、そのような真似をいたしますと扇の羽が落ちましてよ」
「まあ……まあっ!」
黄峰堂の緑玉王扇のようだけれどあまり質のいい物ではないようだわ。羽の付け根が浮いているようね。
あれでは少し強く触れれば羽が抜け落ちてしまう……本当にあそこの商品は高いばかりで質が悪いわねえ。
私は頭の中で取引先・黄峰堂に×を書き込む。
私なりに令嬢が恥をかかないようにと注意を促したつもりだったが、そうはとられなかったようだ。
暗に安物と罵られたと思い込んだ令嬢は、扇を持つ手をぷるぷると震わせている。
そんな気まずい空気の中でも給仕はもくもくと自分の仕事を続け、隣のテーブルに新しく料理を追加していく。
……もうっ、なんで書き付け用紙を持ってこなかったのかしら?
新しい料理、新しい衣装、商売の手がかりがこんなにもたくさんあるというのに、どうして私は今、こんなところでわけのわからない話を聞かされているの?
――ああ、ほんっとうに、面倒くさっ!
いい加減本気で嫌気がさした。
私がしたいのは商売のための社交であり、このように一方的に糾弾されるようなものではない。
いつしか華族会館でおこなわれる舞踏会を一手に取り仕切ることができるような商売がしたいと考えているのだ。
さっさとこの場を抜け出そうとしたその時、からりと場を変えるような呑気な声が耳に響いた。
「やあ、苺子お嬢様、こんなところにいらっしゃったんですね」
「樟陽! なんで、ここに……」
すらりとした体躯に甘い面相、柔らかな栗色の髪を綺麗に撫でつけ、祝賀会に相応しい礼服に身を包むその男の名は、生天目樟陽――彼は華妙院男爵家で世話をしている書生だ。
二十四歳になったはずだが未だ日乃原皇国帝皇大学四年に籍を置いている。
ただの一書生である樟陽は、本来ならばこのような華族や財閥関係者などのための祝賀会に参加を認められるような立場にはない。
それが何故か、首元を開けた露出高めのバッスルドレスを身に付けた肉付き良い夫人を横にして私の前に現れた。
その距離が少々近い気もするが、正直なところソレはどうでもいい。大事なことはそれではない。
へらりと笑い、近づく樟陽。
私は腕を伸ばし、その樟陽の首元のタイをぎゅっと握り、思い切り引っ張った。
「ちょっと、こちらへいらっしゃい、樟陽。……話があるの」
これ以上軽い口を滑らせないようにとぎろりと睨めば、周りがサッと後ずさった。
絡んできた令嬢たち、そして樟陽の隣にいた夫人の取り巻き、皆がほんの少し未練がましい顔をする。
しかし当の樟陽ただ一人だけがにっこりと嬉しそうに笑う。そして言うのだ、いつもの通りに――。
「勿論です。すべては、苺子お嬢様の仰せのままに」