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隣のヒモは青い。2

「はぁっ⁉」


 ぎゅいんっ! と音が聞こえるくらい勢いよく振り返り、もの凄い形相で睨む武秋青年。

 先ほどまでのにやけた顔が嘘のように歪んでいる。その様変わりっぷりに思わず私は後退った。


「あ……あの。私、そういったお話を聞いたことが、その……」


 あまりの強い視線に、まるで蛇に睨まれた蛙にでもなってしまった気がする。


「いったい……誰がそのようなことをおっしゃったのでしょうか?」


 ギリッと食いしばる歯の音。一甫が側にいる手前、できるだけ礼儀正しくいるようだが、一歩間違えればそのまま飛びかかってきそうなほどこちらを睨みつけている。


「ええと。その……。いえ……」


 そもそもこれは樟陽から聞いた話だ。

 弁護士試験は大層難しいらしいが首席のご友人はどうだったのかと聞けば、『帝皇大法科卒業生は弁護士試験免除なんですよ。ずるいですよねえ』と図々しいことを言っていた。

 あの時は、『お馬鹿なことを言っていないで次こそ卒業しなさい!』と発破を掛け尻を叩いて叱ったものだった。

 樟陽の話はいつも本気かどうかもわからないものが多い。本当かどうかわからないような話で私をからかうこともある。

 だから、ついさっきまで忘れていたのだ。


「一甫様……ちょっとお話が」

「苺子様……。あなたねえ」


 私の言葉を遮り、一甫は眉間に皺を寄せ、はぁ、と溜息を吐き出し日傘を下ろした。


「いくら武秋様が羨ましいからといって、変な言いがかりは止めていただけません? 彼は杉浦が後見していますのよ」

「え? いえ、あのそうではなくて……」


 羨ましいとは一寸たりとも思ってはいないけれど?


「だいたい、どちらでそんなお話を聞かされたの? ああ、そういえば……そちらでも面倒を見ていらっしゃる御仁がいらっしゃいましたかしら。たしか、生天目様? でしたかしら。あの……ヒモ」


 プッ。と途中で吹き出し笑いごまかしたが、確かに今〝ヒモ〟と言ったのを聞いた。

 ええ、ええ。一甫がおっしゃりたいのは樟陽のことですわよね。

 事実樟陽は、ヒモと呼ばれても差し支えのない、完璧なるヒモ男だと思っている。

 私だって彼が真面目に勉強をしているところなど見たことがない。それでいてふらふらと遊び回り留年を繰り返す。

 本当に華妙院家の役に立つのかもわからない、書生の名を借りたただのヒモ。


 ただ、それでも……。


「まあまあ、杉浦のお嬢様。お嬢様と違い、世の中には世間知らずの女性が多くいらっしゃることは否めません。まして、かようにヒモのような悪い男にコロリと騙されてしまうこともありますゆえ、やはり女性は学のある男性を頼るのが宜しいかと」


 一甫に庇われたことで調子に乗った武秋青年が、まるで自分のことだとでも言うように胸に手を置く。その口の端がにやりと上がるのを見た。

 とても嫌な予感がする。


「そして自分は昨年卒業したばかりの若輩者ですが、是非とも杉浦のお嬢様のお役に立ちたいと思っているのですよ」

「あら、嬉しいことですわ」


 やはりおかしい。

 私の尋ねたことに答えるでもなく、ただ女は頭の出来が悪いから男に頼れなどと言い笑うだけとは。


 少なくとも樟陽は、たとえ自分に都合の悪いことであっても尋ねれば会話をしてくれる。

 そしてヒモではあるけれども、嘘はつかない。

 その樟陽が、去年の首席卒業生に勉強を教えてもらえるほど仲が良いと言ったのだ。


 もしやこの自称去年の首席卒業生とは——。


「……詐欺師?」


 ヒモより質が悪いじゃない!


 ぽろりと零れた言葉に真っ先に反応したのはその武秋青年だった。


「あぁ⁉ 今なんて言った?」

「あ、あのっ、いえ……」


 突然大声で粗野な言葉を投げかけられ、体がビクッと硬くなる。

 隣にいた一甫も驚き、ヒッ! と声をあげて後ろに下がった。


「詐欺師たぁなんだ! お前、巫山戯やがって!」

「ひゃっ……!」


 激高した武秋青年の手のひらが伸びてくるのをなんとか躱した。しかし無理に体を捻ったせいで草履が滑り足首に痛みが走り、痛みに耐えかね膝を折る。


 うっ……、動けない。


 すると武秋青年の腕がもう一度私へと迫ってくるのが見えた。


 まずい。このまま道路へと押し出されてしまったら走ってくる鉄道電車にひかれてしまう……!


 身動きできずにこのままケガをしてしまうのだろうか。こんな男の手に掛かって?

 ああ、こんなことなら樟陽の言うことを聞いて大人しく家にいるのだった。

 銀座になんて足を運ぶのではなかった。

 今日会ったばかりの男にも害されるのだ。会ったこともない男なんて到底探し出すことなんてできるはずがない。


 ごめんなさい、樟陽。樟陽。――樟陽、助けて!


 私はギュッと目を瞑って樟陽に無意識のうちに助けを求めていた。

 来るはずがないと思いつつも、彼の気の抜けた笑顔を思った。


 そして、男性の大きな手のひらが私の肩を押したと、感じた瞬間――。


 背中をトンッと優しく支えられた気がしたかと思うと、ふわりとした何かに膝をついていた体が持ち上げられた。

 それに反して、私を押し倒そうとした武秋青年が砂煙を立てて無様にも道路へ突っ伏していた。


 いったい何が……?


 呆気に取られていると、少し離れた道向かいからでもわかるほどの華やかな洋装姿の少女が大きな瞳をくりっと開けてこちらを凝視していた。そしてよく通る声で叫んだ。


「苺子お姉様! 大丈夫ですか⁉」


 も、も、も……桃子ぉお? ど、どうして、ここに⁉


 あなた、四神(しじん)気合(けごう)の神事中ではなかったの?


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