ヒモの心と秋の空。2
「え……何かしら?」
「はて? 銀座に服装規定でもありましたっけ?」
腕をまくり「だったら今からでも苺子お嬢様の洋装を仕立てなければ!」と斜め上に張り切り出す樟陽。
……いやいや、そんなのないから。聞いたことないし、着ないから。
というか、あんたが仕立てるわけじゃないでしょうに!
ペシッっと樟陽の額を叩けば、痛いですよと口先だけで文句を言う。そんな私たちのいつものやりとりを見ても琉卯子の表情は渋いままだった。
自分から口火を切ったくせに「うーん。それだがねえ」と、珍しく歯切れが悪い。泰然自若として、何を言われても柳に風と受け流す琉卯子の普段とは違う姿に、私は居住まいを正す。
そしてあらためて琉卯子に尋ねなおした。
「いったい、話って何なの? 気になることがあるのなら、はっきりおっしゃってちょうだい、琉卯子様」
そこまで言い切ると、ようやく腹をくくったように話始めた。
「その……例の苺子様の〝悪役令嬢〟の話なんだよ」
琉卯子の言葉に思わず樟陽と顔を見合わせた。
「え、ちょっと待って……! どうして銀座にまでそんな噂が?」
「まあ、銀座と言えば新聞社、新聞社と言えば銀座ですからねえ」
慌てる私に追い打ちを掛ける樟陽の呟きが突き刺さる。
……待って、待って。確かに銀座はいくつもの新聞社が溢れかえっている場所でもあるけれども。
え、え? ……嘘でしょう⁉ お嬢様方の噂話がそんなところまで飛び火したの? いや、それとも華族学院のアレ? え……。
クラリと頭が揺れた気がした。それを樟陽の両手がガシッと押さえる。抑えきれない気持ちが口から漏れた。
「勘弁してよ……嘘ぉ」
そしてこの後の話は全て、辛うじてひっくり返らずにいられた私に、琉卯子から聞かされた話だ。
***
母親の使いとして新橋芸者の姐さんのところへ寄ったついでに、新しくできたソーダファウンテンへ行こう誘われたんだ。目の前でシロップやフレーバーを入れソーダを注がれる。そこにアイスクリームを加えて供されるソーダ水はたちまち新しいもの好きな姐さんたちが虜になり、是非とも私に味わってもらいたいとね。
私自身はあまり甘味を好まないのだが姐さんたちの誘いを断るほどには苦手ではないから勿論二つ返事で寄らせてもらったよ。
初めてお邪魔した店内は、洋風設えの店構え、とても清潔で整然と商品が並べられ、いかにも姐さんたちが好きそうな商品ばかりだった。その一角に置かれたソーダファウンテンから供されるソーダ水は、見た目も弾ける味わいも、全てが新しいと感じたよ。明るい店内でソーダ水を楽しむ姐さんたちはとても楽しそうでキラキラとしていて、これからくる見たことのない未来を感じられたんだ。
『——楽しんでいらっしゃいますか? ハイカラなお嬢さん』
姐さんたちが新しく発売されるという色付きの白粉とやらの話を店員に聞きに席を外したその隙に、いつの間にか私の隣に座っていた男が声を掛けてきた。
『生憎とお嬢さんという年齢ではございませんが、楽しんでおります』
『いえいえ、じゅうぶんお若いですよ。自分がこうして声を掛けたくなるほどに、ね』
男は年の頃なら三十といったところだろうか。羽織に鳥打ち帽といった姿で丁寧な物腰。よくある顔立ちながら、にこやかな笑顔をこちらへ向け、万年筆を胸から取り出した。
なんとなくだが気に入らない。こうして男に声を掛けられることは珍しくもないが、どうにも変な意図を感じる。さっさと離れてしまうに限るだろう。
後から難癖をつけられないように、無難に断りをいれ立ち去ろうとした時、思いがけない言葉を聞いた。
『もしよろしければ、お嬢さんの知っている新しい流行のお話を聞かせていただけますか? そうですねえ……例えば、〝悪役令嬢〟などという言葉を聞いたことは?』
何故この男がその言葉を? そう思った瞬間、立ち上がりかけた椅子にもう一度座り直す。
『あら、初めて聞きましたわ。とても面白そうなお話だけれど、私にも教えていただけますの?』
そう言って作り笑いを見せれば、先ほどまでの害のなさそうな顔がニタリと歪んだ。
***
「そうしてその大層思わせぶりに声を掛けてきた男から聞いた話といえば、まあ私が知っている噂とそう変わらなかったのだがね」
「ええと、ということは私が悪役令嬢と呼ばれていて、婚約破棄されたということを銀座で吹聴している者がいる……ということなのね」
「そう。あの瓢……鉤狛伯爵令息が触れ回った程度のお話だったよ」
……絶対に瓢箪って言おうとしたわね。鉤狛玲人は元婚約者とはいえ確かに中身のない男だったけれど。
「だったら今さらという気がするのだけれども……」
その程度の噂は華族のみならず、それなりの家や知り合いの中ではもうじゅうぶんに知られている。
「いや、その後で姐さんたちに聞いたんだが、どうやらその男は少し前からあの辺りに出没しては何かしらとその噂を口にしていたそうだ。姐さんの内の一人もつかまって聞かされたらしい」
「え?」
なんと、意図的に私の噂を広めようとしている人物がいたということなのか。それも、新聞社の多い銀座で。でも待って……。
「新聞に載った覚えはないわよね。噂にしても、私と玲人様の婚約破棄の件にしても」
結婚というものは家同士の繋がりなので、たとえ親の決めた婚約者であっても状況が変われば婚約が解消されることはままあることだ。だから余程の家柄でなければ婚約を一方的に破棄されたところでそうそう新聞などに載ることはない。けれども醜聞ともなれば話は別だ。
「姐さんは好みの不義密通や心中話のように刺激的な話でなかったから忘れていたようだけれどね。どうだろうか? これ以上あの男が噂をまき散らしていけばどうなるかはわからないかな」
「……確かにそうね」
今までは、私を悪役令嬢だと言い出した者を探し出して謝罪と訂正を要求する予定だった。
というのも、元が少女小説という、明らかに若い者たちが出所だと考えていたからだ。
樟陽のせいでどうにも上手くいくどころか、逆に評判が下がることもあったけれども、自分では間違いなくそのつもりだった。
けれども今度の噂の吹聴は少し勝手が違う。まだ大事になっている様子はないが、いい年齢の大人が絡んできているのだ。
いったい何が狙いなのだろうか……。わからない。
おそらく私一人の評判を下げる程度では……。
そこまで考えて、背筋に冷たいものが走った。もしかして、桃子に関係しているんじゃないでしょうね⁉
気合最上位の〝風乃気〟を発露した桃子は、現在四神気合の神事に参加している。もしもその桃子の足を引っ張るつもりで私の醜聞を広げるつもりなのだとしたら?
それはいけない。黙ってなんていられない。愛すべき妹を守るためにも、私はこの噂を広げようとしている人物を見つけ出さなければ……!
「琉卯子様、教えてくれてありがとう。私、その男に会ってみるわ」
そして、理由をただすのだ。そのためにも、と考えて私は琉卯子の話を大人しく聞いていた樟陽へと顔を向けた。
「ね、樟陽。一緒に銀座へ行ってちょうだい」
しっかりと顔を見て頷く。そして樟陽の言葉を待った。
「勿論です。さあ、行きましょう、苺子お嬢様」といつもの台詞を。
しかし樟陽の口から飛び出した声は——
「え、やですよ。やめときましょう、苺子お嬢様」
樟陽ぅうう! 何で今回に限って断ってんのよお!!