ヒモの心と秋の空。1
強引な通り雨は私の髪色を落としただけでなく、華族学院内での樟陽の〝火乃気〟の痕跡も洗い流してくれたようで、あれから数日が経った今、特に噂になるようなことも、新聞記者が華妙院家に押しかけてくる様子もなかった。
帰り際、雨に濡れた私を抱き上げながら『あいつらだって自ら自分のバカさを吹聴なんてしないですって。大丈夫ですよ~』と笑いながらのんきに軽口を叩く樟陽の言葉に『誰のせいだ?』とイラッとしたものの、安堵したのも確かだ。
ただ『だいたい、華妙院家に辿れるような足は何一つ残してませんから』などという不穏な台詞を吐いたときの樟陽の表情がどんなものだったのか……。彼のジャケットに遮られて見えなかったのが少しだけ気になった。
そして雨に濡れたせいなのか、安心して気が抜けたせいなのかは知らないが、私は次の日から熱を出して少々寝込んでしまった。
普段から病気とは無縁のはずだったのに、これくらいの雨で体調を崩すとはなんとも情けないことだ。
「一緒に雨に濡れた樟陽はなんともないのに……」
その樟陽から差し出された薬湯を、布団の上でふうふうと口で冷ましながら愚痴をこぼせば、あっけらかんと返された。
「そりゃあ俺の方が苺子お嬢様よりも体温が高いですから。ね!」
片目を瞑って目配せしながら樟陽は自分の胸を誇らしげにぱしっと叩く。弾むような軽い音を耳にした私は、あの豪雨の中でその樟陽の胸に抱き上げられたときのことを思い出してしまった。
一見ではすらりとした優男だが、あれほどの悪天候でもふらつくことなく華妙院家まで運んでくれたのだ。
初めてこの華妙院家へやってきた頃の樟陽は、背はそれなりにあったものの、目だけがギラギラとした光を放っているやせっぽちの少年だった。私が頼んだ『踏み台をちょうだい』という言葉に、跪いて自ら踏み台の代わりになることくらいしかできなかった少年が……。
成長してからも書生としての本分も全うせずに留年を繰り返し、ヒモだ、ヒモだと言われ続け、それが当たり前のように思っていたのだけれど。それがいつの間にあれだけ成長したのだろうか?
濡れたシャツから垣間見える肌の色。思ってもみないくらい厚い胸板に力強い腕で私を難なく抱き上げてくれた。
雨の中を走る息づかいがその胸から私の耳に伝わって、同じように心臓が跳ね上がった気になった。それがとても熱くて、私は……。
いやいやいや、ナシ! それ以上は、なかったことにしていいから!
その時のことを思い出して顔に血が上る。
それを振りきろうとして頭をぶるぶると動かしたら、手に持っていた薬湯まで零しそうになった。
「おっと! 苺子お嬢様、危ないじゃないですか。また熱でもぶり返しましたか?」
慌てず私の手を支えた樟陽は薬湯入りの茶碗をスッと取り上げる。そしてそのまま私の額に自分の額を当てようとした。
「……やっ、きゃあっ!」
思わず突き出した両手は樟陽の肩に思いっきり当たり、ドンッという音と共に尻餅をついた。その胸には薬湯が零れてシャツを濡らしている。
んっ、んーっ! ちょっと……。やだ、もう……。
突然押してしまい申し訳ないという気持ちと、よりにもよってあの日と同じように濡れたシャツという状況に混乱する。ドキドキとバクバクが頭の中でグルグルと回って言葉にならない。
ええと、あのね……。ああ、どう言えば……。
顔を赤くして口ごもる私を、きょとんとした顔で見つめていた樟陽が、途端に「ああ!」と何か気がついたように声を上げた。
「本当に苺子お嬢様ときたら……。苦かったんですねえ、薬湯」
「へ?」
「わかってますって。ちょうど頂き物の蜜屋の羊羹がありますんで持ってきますから」
へらりといつものように笑って立ち上がる樟陽の姿に、私はホッとした。
甘味がなければ薬湯も飲めないと思われたのは少し癪だけれども、私が樟陽の胸元を見て動揺したなどと思われるよりはマシだ。
それに熱を出していた間はずっとお粥だけだったので、羊羹はとても嬉しい。洋菓子が好きな私だけれども勿論和菓子も同じように大好物だった。
「え、ええ。わかったわ」
「今度はわがまま言わずに飲んでくださいね」
ひらひらと手のひらを振りながら部屋から出て行く樟陽。
好物である蜜屋の羊羹に気を取られた私は、その時樟陽が普段の笑顔とは違う表情を見せていたことに全く気がつかなかった。
***
その後はもうしばらく〝悪役令嬢〟の噂のことも頭から追いだしてゆっくりと休養をとることに専念した。
熱も落ち着き、床を上げる頃になると、友人の神無月琉卯子が手に風呂敷を掲げ私を訪ねてきた。
「突然雨に降られたんだって? 男心と秋の空は変わりやすいと言うから、災難だったねえ」
「え、うん。まあ……そうねえ。でもたいしたことはないのよ」
どちらかといえば、そのおかげで助かったのだから文句を言う筋合いではない。あの雨のおかげで証拠が隠滅されたと思えば、私たちにとっては恵みの雨であったのだ。
「まあ、思ったよりも酷くなくてよかった」
そう言うと、琉卯子は風呂敷の中から小瓶を取って出した。
「お見舞い……というには、貰い物で申し訳ないけれど」
「あら、あらまあ……! 琉卯子様、これは……天資堂の化粧水ね!」
「うん、そう。先日銀座のソーダファウンテンへ寄ってきたんだ。ソーダ水を頼んだら景品にと一本貰ったんだが、生憎と私は興味が無くてね」
陶磁器のように透き通るような白い肌をして、化粧水に興味が無いと言い切れる琉卯子。
彼女のことを知らない女性が聞けばなんと罰当たりと嘆くだろうが、琉卯子は本気でそう思っているのだ。そして私はそれをとてもよく知っている。だからこそ有り難く彼女の厚意をいただくことにした。
「ありがとう。……でも、これを景品だなんて、すごい宣伝ね」
「ああ。付き合いで寄ったんだがなかなかだった。新橋の姐さんたちも喜んでいたよ。あれは、これから随分と通うだろうよ」
琉卯子は思い出したように、にこりと流し目で笑った。
彼女の母親は新橋の元芸者であり、父親は学者である。名妓といわれた母親が芸者たちに三味線を教えているので、彼女本人も芸者たちと大層仲が良いらしい。
「海外から輸入した最先端の機械と大胆な広告戦略。……うーん、勉強になるわね」
華妙院家の商売を継ぐつもりの私としては従来の枠にとらわれない斬新で敏捷な考え方に感動してしまう。
やはり私も一度覗きにいってみたほうがいいわね。
そんなことを考えていると、「失礼します」と声が掛かり、私の部屋の扉が開いた。
「苺子お嬢様、神無月のお嬢様、お茶が入りましたよ」
「よかった、樟陽。お願いがあるんだけれど」
卓にお茶を置く前に声を掛けると、怪訝そうな顔をする樟陽。
「……なんなんです? 苺子お嬢様がそういう食い気味な時は、あまり碌なことが起こらないんですけど」
あんたに言われたくないわよっ!
今まで散々な目に遭ってきたのは私のほうだと言ってやりたくなるところを、グッと飲み込み笑顔をつくる。
「たいしたことじゃないわよ。調子も良くなってきたから、近いうちに銀座へ行きたいと思って……」
「ああ。ソーダファウンテンですか? ソーダ水やアイスクリームを製造して提供するんですよね」
全てを言わずとも当てられてしまった。こういうところが本当に樟陽らしい。
「そうなのよ。アイスクリームは洋食店のメニューでも考える余地はあるし、一度本物の機械を見てみたいと思って」
「まあ、いいですけど」
樟陽の軽い返事に、やった! と拳を握る。
実は私が寝込んでいる間に、悪役令嬢の噂とやらが少しずつ収まってきているという報告を受けていたのだ。
それには妹の桃子が参加している四神気合の神事が順調に進んでいるということと、ルシャワン国と締結された講和条約による賠償金の一部が支払われたなどのニュースが新聞を賑わし、世情的に明るい雰囲気になっていたからだ。私の取るに足らない噂などは随分と影を潜めてきたように思える。
それでもまだ人の目が気になるようなら、また髪の色を染めてもらってもいいし……。
などと考えていたら、樟陽が顔を出してから静かになっていた琉卯子が、眉を寄せながら声を出した。
「苺子様が銀座へ行くのならば話しておかなければならないことがあるのだけれども、いいかな? 勿論、樟陽君にも聞いてもらいたいのだけれど」