勘定合ってヒモ足らず。4
生天目樟陽という男は、決して怒らない。憤らない。声を荒げない。
それが彼を知る人の認識だ。甘いマスクに柔らかい物腰、そして人好きにする笑顔。良くも悪くも人の中にするりと入り込む。けれども——。
「あっ、れー? って、なーにをして、やがんだ、てめえらはっ!?」
やっぱりー……。
私だけが知っている。普段は微塵も見せない、笑っているのにもかかわらず、まったくそうとは思えない恐ろしく攻撃的な姿。
柔らかな栗色の髪を無造作に手で掻きあげながら、眼光鋭く睨みつけてくる。首元のボタンを乱暴に引き千切るようにして開けて近づく樟陽の背中には、ばふばふっと〝火乃気〟が立ち上がっていた。
十年前、身代金目当てで私が誘拐されかけた時、当時我が華妙院家へ引き取られたばかりの樟陽が、単身助けにきてくれたことがあった。毎日へらへらと笑い、頼まれれば年下の少女の踏み台替わりにもなってくれるほど、矜持など持ち合わせないような少年が、だ。
今のように犬歯を見せながら、犯人たちをボコボコにのしてしまった時の凶悪な姿を忘れはしない。あれは本当に鬼と呼ぶに相応しい。
あまりの惨劇に、樟陽だけは怒らせてはいけないと当時思ったものだ。しかしそれ以来、私がどれだけ樟陽の頭を叩いてもなじっても、何も変わらない樟陽の姿に、今の今まで彼の凶暴な笑顔を見るまで忘れていた。
……どうしよう?
先程まで上品な笑顔で芸術史を教えていた講師の豹変した姿に、育ちの良い華族子息たちが固まっている。
「しょ、樟陽……待って、あの……」
頭に血がのぼった樟陽は私の止める声も聞こえないのか、まっしぐらにこちらへ向かってくる。あの日と同じ顔をした樟陽が、このまま彼らを逃してくれるとは思えない。
私はとりあえず樟陽を止めることよりも彼らを逃がすことを優先させる。さすがに華族の子弟をボコボコにされたら言い訳ができない。
というか、私がこんな格好をして華族学院に入り込んだのがバレるじゃない!
「ちょっと、逃げなさいよ。ほら、動いて! そこ、へたり込まない!」
あー……もう、なんで、私が自分を襲ってきた男子生徒たちを守らなきゃならないのよ!?
樟陽の勢いに負けて腰が引けた彼らの尻を叩く。勿論本当に叩いているわけではないけれど、気持ちのうえでは二、三発叩いている。
そうして渡り廊下の方へ誘導しようとしたが、なんといつの間にか樟陽の〝火乃気〟の炎が彼らと渡り廊下の間の足元にぽすぽすと音を立て広がっていた。
「逃げるなよ、お前ら。逃げれば火だるまになるぞ」
ちょ、これはないわ。どうやって飛ばしたのよ!?
冷ややかに脅す樟陽に眩暈がした。すでに華族子息たちは戦意喪失どころか完全降伏しているのにもかかわらず、その手を緩めない。
地面の草を焼く炎は、じりじりとその範囲を広げていく。〝火乃気〟は〝気合〟の中でも特に扱いが難しい能力だ。
火がついたばかりなら本人の意志でなんとかなるらしいが、延焼してしまえば〝水乃気〟または炎を凌駕するほどの大量の水でなければ簡単に消すことができない。燃やせるものがあればいくらでも燃やし続けてしまう。
このまま庭木に移ってしまえば取り返しのつかないことになるじゃないの……。
いいかげんキレた私は、もうどうとでもなれと、笑う樟陽めがけてなりふりかまわずに突撃する。そして、思いっきり振り上げた手を樟陽の頬めがけて振り下ろした。
「こっの、バカたれ樟陽っ!」
バッシーン! と小気味よいほどの音が響く。平手打ちされた樟陽は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私を見ている。そして、華族子息たちは何が何だかまったくわからない顔で呆気にとられていた。
「す、少しは落ちついたかしら、樟陽?」
「は、はい。……お嬢様」
叩いた手をさすりながら樟陽の顔を覗き込むと、どうやらだいぶ正気に戻ってきたようだ。目をぱちくりさせながら頬に手を当てている。
私の後方から聞こえるバフバフと上がっていた〝火乃気〟の音も、小さくなって……小さく?
いや、なってなくない!?
振り返れば庭木に移った炎がバチバチと音を立て始めている。
「しょ、樟陽! ねえ、消して! 早く!」
「うわあ……。これ、火の回り早すぎません?」
「いや、あんたがやったんでしょうにっ!」
……あ、これってもしかしなくても手遅れ?
〝稀代ノ悪役令嬢華族学院ヲ放火ス〟
明日、華族学院放火犯人として新聞に載る見出しが嫌でも頭の中に浮かぶ。
いいえ、これはもう悪役令嬢どころか、極悪人だわ……。
「あああ、もう……誰か、どうにかしてっ!」
私の人生はこんどこそ本当に終わったと、思わず天を仰いだ。
すると、さきほどまで肌にほとんど感じることのなかった降り始めの雨が、大きな粒となり私の頬にぽつんとあたったと思ったら——。
「あ……」
途端、ドッシャー! と音を立てて私たちの上に雨が落ちた。降り注ぐなんて上品な雨ではなく、盥をひっくり返したような水の塊が、だ。
あ、でもこれなら樟陽の〝火乃気〟が消えるかも?
そう思って確認しようにもあまりの集中豪雨に周りの景色が煙っている。
「痛っ、イタタ……。や、ぶはっ、な、これ?」
目が開けられない、声も上手く出せないほどの雨に、どうしたらいいのかわからずに手を伸ばすと、おもむろにその手首をグイッと引っ張られた。
「きゃぁあ! ちょっと? え、樟よ……」
打ちつける雨が突然軽くなったと思ったのは、樟陽に両脇と足を抱きかかえられたからだった。ついでに彼のジャケットも私の頭に被せられている。
「ひゃっ! 何よ、樟陽!?」
樟陽の胸に私の頬がはり付くほどピッタリと密着して、びしゃびしゃになったシャツの胸元が透けて肌の色がうっすらと見えている。
肌……ぐっ。いや、待って。こんなの恥ずかしすぎる……!
いくら豪雨から私を守ってくれているのだとわかっていても、気持ちはそう簡単に切り替えられない。ドクドク脈打つ心臓が痛くて、とにかく樟陽から距離を取りたいと思い、バタバタと抱えられた足を動かしながら体をグッと押してみた。
「なんですかー、苺子お嬢様。痛いじゃないですかあ」
「痛いじゃないわよ。早く降ろしなさいよ!」
「え、でもー……まだ降ってますしー」
それはそうだ。樟陽の足下を見てもバチバチと跳ね上がる雨で地面がまったく見えない。
ただそれでも、このまま抱っこされていたら私の心臓のほうが危ないのよ!
「あ、そうだ。火乃気は消えてますよ。だから安心してください、お嬢様」
それはよかった。少なくとも放火犯の汚名は回避できたということか。それならばこのまま片付けを済ませてさっさと帰ればいい。きっと私に絡んできた華族子弟たちも余計なことは言わないだろう。
「だったら早く降ろしてちょうだい。帰りの支度を……」
「でも、苺子お嬢様。髪の染め色、とれちゃってますけど?」
あ、あああー!? やだ、嘘でしょ? ずぶ濡れになったらとれるって……聞いたよね。はい、聞きました。って、とれてるー!
ほつれた髪の色が元の黒色に戻っているのを見て、コクリと頷いた。
このまま逃げるべし……!
私は、樟陽に〝行け〟と目配せをする。樟陽は親指を立てると、阿吽の呼吸で私を抱っこしたまま、全てをほっぽり出して雨降りしきる中校門へとまっしぐらへ向かっていったのだった。




