ヒモにひかれて婚約破棄。1
まずい、まずいまずいまずい――。
たった今、私―華妙院男爵家の長女、苺子―は、婚約者の鉤狛子爵家三男玲人が、自分の妹である華妙院桃子の肩を抱きながら露台へとやってきたところに鉢合わせした。
そう。私が振袖の裾を捲り上げ、草履の底で礼服の男を思い切り踏みつけている姿でバッタリと。
「な、な……何をしているんですか、苺子……さんっ⁉」
「れ、れれ……玲人さんこそ、どうして、ここへ……?」
目が点になっている婚約者に向かい、いかにして事態の収拾をしようかと考える。
私がこんな格好で男を踏みつけているのにはちゃんとした理由があるのだ。
一から説明すればわかってもらえる……はず。
両手をわきわきと動かしながら「その……」と、声をかけようとしたその時、ぷひっとしまらない鳴き声が空気の冷えはじめた夜空に響いた。
「痛っ! た、たってー……。もー、苺子お嬢様、勘弁してくださいよ」
私の草履の下、四つん這いの姿から頭を上げて、華妙院家のヒモ……もとい、書生の生天目樟陽が、その彫刻のような美しい顔を崩し、へらりと笑った。
「ちょっ……ちょっと、待ってなさい! 今すごく大事な、話が……」
黙っていろと言わんばかりに、私はもう一度踏みつけている足へ力を入れる。
この男が口を出すと余計なことが起こるのは、もう何度も経験済みだった。
すると、これを待っていましたと言わんばかりに、樟陽はさらに恍惚の表情を浮かべて身をよじる。
「ぐふっ! ね、ね、お仕置きって、まだ続きます?」
「しょ……樟陽――っ! 何がお仕置きよ⁉ あんたがっ……このっ!」
樟陽の礼服のタイを掴んで引っ張り立たせた。
その黒い礼服の背中には、草履の跡が鮮やかにくっきりと残っている。しかもそれはひとつやふたつではない。
玲人は顔を引きつらせつつその場から二歩後ろに下がった。
明らかに、樟陽の口から飛び出た「お仕置き」の台詞と、背中の草履の跡の数にひいている。
「苺子さん……ひどい。あなたって人は……」
なんとか状況の説明をしようとしたが、先に口火を切った玲人の言葉と態度にカチンとさせられた。
いやいや、こっちだってドン引きよ?
二十六にもなるいい歳した男が、私の可愛い妹を連れ出すだなんて……!
気がつけばあっという間に玲人の横から離れて姿を消した妹の桃子は、今年十四歳になったばかりで夜会の参加は二回目。
婚約者も定まっておらず、今夜の同伴者は二人の父である華妙院男爵だ。
成人前の貴族令嬢を二十半ば過ぎた婚約者持ちの男性が露台に連れ出した。
しかも、「本日はエスコオトできません」とわざわざ私に連絡をよこしておいて。
私には婚約者として、その令嬢の姉として、彼に説明してもらう権利がある。
とりあえず、自分が足蹴にした書生の件は棚に置いても、だ。
「玲人さん……あの」
樟陽のタイから手を放して声をかけたが、玲人はさらに後退し硝子窓へと張り付いた。
そうしてヒッヒッと息を二回吸い上げてから大きな声で言い放った。
「や、やっぱり、悪役令嬢だったんだっ……苺子、さん。……恐ろしい。ぼ、ぼ、僕は、君との婚約は、は、破棄させてもらいますっ! ごめんなひゃいっ、無理です!」
「は? え……ちょっと、玲……」
「僕にはー、悪役令嬢のお相手はー、無理ですーっ!」
玲人は硝子の扉を強引に開け放つと、半泣きで叫び、人がひしめき合っている祝賀会場へ転がりながら逃げ出した。
会場中に響き渡る「悪役令嬢なんて、いやーだー!」に、あっけにとられる参加者たち。
大勢の視線を受けつつ、たったいま元になった婚約者を見送りながら私は今日の出来事を振り返る。
そもそも今日の祝賀会は始まりからおかしかった。
遠巻きにチラチラと視線を受けるし、やたら若い少女からちょっかいをかけられていた。
そのうえ今のその台詞。誰も彼も皆、私に向かってそう言うのだ。
――悪役令嬢、と。
「くふっ。苺子お嬢様……悪役令嬢、ですって。ぷっ、本当になんなんでしょうね、悪役令嬢。ぶふふ」
ツボに入ったかのように笑いが止まらなくなった樟陽の頬をぎゅうっとつねる。
痛っ、た。と跳ねる樟陽の姿を見て、これが夢でないと納得した。
けれど、なんで、どうして?
「だからっ、なんで私が、『悪役令嬢』なのよぉっ⁉」
私は渾身の力を込めて、煌めく夜の空に向かい叫んだのだった。