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ネルは、ルナセオが指摘した途端になにかに怯えるように震えた。巫子どうし仲間なのだから、助け合いこそすれ正体を隠すものではないはずなのに。ルナセオよりひとまわりは小さい手で、ぎゅうとルナセオのマントを握りしめて懇願してくる。
「おねがい、レフィルには言わないで」
「レフィルって誰?」
「あの男の人、レフィルの仲間なんでしょ?」
どうやら、正体を知られたくなかったのはルナセオではなくトレイズのほうにあるらしい。これまでに会ったことはない人物のはずだが…記憶をたどって、そういえば神護隊本部でトレイズがそんな名前を口にしていたことを思い出す。
「ああ、トレイズの上司ね。でもなんで?巫子を保護してるひとなんでしょ?」
「おねがい、あの人、悪いひとなの」
「悪いひと、なの?」
悪いひと、とはまた穏やかではない。ましてトレイズとはこれまで一緒に旅をしてきて人となりは分かっているし、彼が悪意ある者の元へルナセオを連れて行こうとしていたとは思えない。
しかし、外の暴動で起こった一連のできごとを思い出すと、神護隊にゆかりのある人物というだけで信頼しきれないのも確かだ。ネルは震えながらうつむいた。
「わたし、レフィルに捕まったら、何されるかわからない…」
「な、なんで?そんな怖いやつなの?トレイズはそんなこと言ってなかったけど」
よもやトレイズがルナセオを騙していただなんて考えたくもないが、彼はちょっと短慮なところがあるし、トレイズ自身も知らないところで巫子を捕まえてどうこうしようとしているのではとルナセオは疑いはじめた。まさかなにかの実験台にされるとか?不気味な想像に腕をさすっていると、目の前の少女はしゅんと小さくなった。
「ラトメのひとたち、悪いひとばっかり…」
「ま、まあ確かに、神護隊の奴らはろくな連中じゃないなって思ったけど…きみこそ大丈夫なの?あのおじさんとこんなとこに二人きりでなにもされなかった?」
「レインさん?」
ネルが若草色の瞳を見開いてこてんと首を傾げたので、ルナセオは自分がまったく見当違いの心配をしていることに気付いて恥じ入った。女の子と男が暗がりにいて、しかも女の子のほうがひどく怯えていたものだから、つい嫌な想像がよぎっていたのだ。
「ううん、レインさんは、レフィルに追われてるときに助けてくれたの。ラトメ神護隊の隊長さん。悪いひとじゃないよ…たぶん」
「たぶん」
ルナセオは復唱した。彼が神護隊の隊長というのもにわかには信じがたい。こんな状況で、あんなヘラヘラなよなよしている人が?逆に、いかにも情けなさそうな彼がトップだからこそ、今の神護隊があるのかもしれない。
無意識に睨んでしまっていたのか、トレイズと話していたレインとかいう人が、不意にくるりとこちらに向き直った。ぎくりと一歩足が下がったところで、男はちょいちょいと手招きしてきた。どうやらネルを呼んでいるらしい。
男は燭台を持ってやってきたネルの肩を叩いて言った。
「ネル、君はこの人と一緒に行くんだ」
「ええっ」
どうやら彼女は困ったことになると他人の服を握りしめるのが癖らしい。今度はレインのコートをぐいぐい引きながら、ネルは悲壮な表情を浮かべている。トレイズを見上げると、どうやらふたりの男の間で話がついていたらしく、ひとつ頷かれる。
「どうして?だってこの人、レフィルの仲間なんじゃないの?」
「大丈夫、この人は信頼できる人だよ」
ネルはやはりトレイズが信用できないのか不安げだ。レインのほうは温和にニコニコ笑っている。本当にこの人物が、あのラトメ神護隊の隊長なのだろうか。ルナセオのほうは、この男のほうがいまいち信頼できなくてぶしつけに眺めてしまう。
レインはごつごつした大きな手でネルの頭を撫でようとして、その小指がフードの端に引っかかった。あっと言う間もなく、ぱさりとネルのフードが落ちて、彼女の髪があらわになった。両頬のあたりをリボンで結んだ髪が、ちょうどリボンでくくられているあたりだけ真っ赤に染まっているのがあらわになる。
トレイズが唖然として叫んだ。
「巫子じゃねえか!」
「もちろん、巫子を見つけたらレフィルに報告の義務があることは知ってます。だけど」
レインは子犬のような目をしてトレイズを見上げた。ルナセオは背中のあたりが粟立つのを感じた。いかにも無害そうな男が、一瞬で計算高い食えない人物に様変わりして見えた。
「約束、守ってくれますよね?」
トレイズのほうは気付いているのかいないのか、おなじみの苦々しい顔でしばらく葛藤していたが、やがて諦めて降参した。
「ったく!俺が首切られたら責任とれよ!」
「わあっ、トレイズさんありがとうございます!」
「四十過ぎた男が『わあ』とか言ってんじゃねえよ…いいか、でも隠してやれるのは少しの間だけだ、あっちから聞かれたらいつまでも庇ってやれねえからな」
「もちろんそれで十分です!」
手を叩いて喜ぶ男に悪い気はしていないのか、ため息をつきつつもまんざらではなさそうなトレイズの口元を眺めながら、ルナセオは恐る恐る尋ねた。
「…あのさ、まさかトレイズ、気付いてないの?」
「なにが?」
「いや…うん、なんでもないや」
触らぬ神に祟りなし、この温厚そうな男の手のひらの上でうまく転がされているようだということは、トレイズには分かっていなくたっていいことにした。少なくともトレイズ自身の人となりは保障できる。ルナセオはまだ不安を払拭しきれずにトレイズの身なりを眺めているネルにフォローを入れた。
「この人、小汚いし片腕ないけどいい人だよ」
「小汚いは余計だ」
「だってそうじゃん。もっとこまめに水浴びくらいしろよ。それじゃまるで浮浪者みたいだよ」
昨日はシェイルの王城に泊めてもらい、次の日もナシャ王妃と会うということもあって風呂くらいは入ったようだが、ネルのような大人しげな女の子には、トレイズのような隻腕の野性的な男は怖いのではなかろうか。
その証拠に、ネルはレインのコートから手を離さなかった。
「レインさん、デクレは?デクレも一緒なんだよね?」
「デクレは…」
レインは言い淀んだ。デクレという名前は聞き覚えがある。確かクレッセが言ったもうひとりの守ってほしいという人だ。
トレイズはもはや諦めきっている様子だ。
「なんだよ、他にもまだ保護してる奴がいるのか?もういいから全員連れてこいよ、面倒見てやるから」
「ネルと一緒にレフィルに連れて来られた子供で…そろそろ保護されていてもいい頃なんですが」
「かっかっ、閣下ァ!いや、レインさん!」
そのとき、勢いよく神宿塔の扉が開いて、ガタイのいい男が転がりこんできた。ラトメの住人なのか、通気性のよさそうなゆったりした服の袖口を肩までまくり上げて、筋骨隆々の腕をさらしている。しかし、あちこち傷だらけで、頬にはぱっくりと痛々しい切り傷ができている。暴動の中で怪我をしたのだろうか。
歩くこともままならないのか、男はレインの足元まで這っていって、彼のよく磨かれた靴にすがりついた。
「もっ、申し訳ありません、奴を取り逃してしまいました!」
男は床に張り付かんばかりに頭を下げている。勢いがよすぎて額が床に打ちつけられる音がした。
「デクレは?デクレは無事なの?」
ネルが男の脇に回りこんで尋ねると、男はたいへん気まずそうに「そ、それがー」と言いながら視線をさまよわせた。
「あの神官服姿の子供から引き離したまではよかったのですが、相手側にも鬼のように強い女が加勢に現れて、相手取ってる間に逃げられちまって…」
隣のトレイズから「レフィル…本当なのか」という呟きが聞こえた。
なんとなく話が見えてきた。つまり、そのレフィルとかいうトレイズの上司に捕まりそうになって、ネルとデクレははぐれてしまったのだろう。
ガタイがよくても中身は臆病なのか、男は過剰なまでに謝罪を重ねて土下座している。心なしか筋肉もしぼんで見えた。レインが困った様子で男に問いかけた。
「それで、ひとりでここへ来たんですか?」
「い、いえ、それが…」
「邪魔するわよ!」
高らかに宣言して乗りこんできたのは、小さなエルフの少女だった。普通エルフというのは森の奥深くに住んでいて人里には降りてこないものなので、ルナセオはエルフという種族を見たことがなかった。色素の薄い肌に淡い金色の髪、ぴんととがった耳。教科書で見た通りの特徴だ。
彼女はぺたんこの胸を張って居丈高に言い放った。
「私とパパがた・ま・た・ま!通りかかってなきゃ、危なかったんだから、この人。感謝しなさいよね!」
「アー…お前は?」
トレイズは頭痛をこらえるようにこめかみをぐりぐり押していた。自分たちに加えて、レインにネルに筋肉男にこの女の子、どんどん情報量が増えてきて処理が追いついていないようだ。
「申し訳ありません、トレイズさん。私の娘なんです」
しかもさらにもうひとり男が増えた。ルナセオは彼の顔を見て思わず声を上げそうになった…開け放たれた扉の向こうから差し込む月明かりに照らされる、背中まで伸びた銀髪は無造作にひとくくりにされ、飾り気のないマントに、腰には無骨な剣を提げてはいるが、長いまつげも宝石みたいな瑠璃色の瞳も、シェイルで出会ったナシャ王妃にそっくりだった。
ナシャ王妃の美しさが人形のようなら、この男はまさに彫刻だった。おそらく彼が全裸で噴水広場の前に立っていてもなんの違和感もないものと思われる。
しかし、その人間離れした造形の男は申し訳なさそうにエルフの女の子を抱き上げて、ぺこぺこ頭を下げるなどしている。
「ご無沙汰しています、トレイズさん。神護隊にご挨拶に伺おうとしたらこの騒動になりまして。レイン、その見失ったという子供だが、うちの殿下が追っている。舞宿街の方へ向かっていった」
「よりにもよって嫌な方へ向かうなあ」
レインはぼやきながら懐を探って、白い小綺麗なハンカチを取り出すとネルに差し出した。
「ネル、私はこれからデクレを探しに行ってくる。君はトレイズさんについてレクセに逃げるんだ。このハンカチがあれば、君がどこにいても連絡が取れるから」
「待って!レインさん、わたしも連れて行って、デクレのところに行きたい!」
「だめだ、君はトレイズさん達と一緒に行くんだ」
ネルはまだ諦めきれずに「でも…」と声を上げたが、それ以上言葉が続かないのか黙り込んだ。レインは彼女の正面にひざまずいて、ハンカチを握り込ませるようにその両手を包んだ。彼のみかん色の瞳が真摯にネルを見据えた。
「君の幼なじみの身は、私が守ろう。この槍に誓って」
レクセに帰ったらまずハンカチを買おう、ルナセオは心の予定表に書き込んだ。女の子の涙を拭くのにやっぱり袖口はなかった。そして誰かと約束をするのに、不測の事態とはいえ他の女からもらったチャクラムに誓うのはさすがに許されないだろうか。
麻のコートを翻し、涙目の大男を連れて去っていったレインの背中には、確かに神護隊長の風格があった。ギルビスといいレインといい、コートやマントには男を三割増格好よく見せる魔法でもかかっているのだろうか…自分のマントを見下ろして考えていると、エルフの女の子がネルに近づいていくのが見えた。
「で、きみってば誰なの?」
ルナセオが尋ねると、奥にいた美術品のような男が、暗い神宿塔の燭台に灯りをつけながら、ちらりと警戒するように娘を見た。娘のほうは暗かったからか父の目配せにまったく気づかずに、腰に手を当て仁王立ちして大声で言った。
「私はね!メルセナ。みんなを守りにやってきた、赤の巫子よ!」
「…えっ?」




