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※残酷な表現を含みます。苦手な方はご注意ください。
「9番だ!」
誰かが鋭い声で叫んだ。
「神都の高等祭司が、9番を連れて逃げるぞ!」
9番?神都?混乱して立ちすくんでいると、ラファがトレイズの腕を振り払って小さな少年を抱きかかえた。
「あーあ、正面からトンズラしようぜ大作戦、うまくいくと思ったんだけどなー」
ラファの服をつかむ子供の小さな右手が、ルナセオの耳と同じように真っ赤に染まっていた。まだ10かそこいら、レクセの学校への入学もできないくらいの、ほんのあどけない子供だ。
「じゃあな、トレイズ!達者でいろよ!」
ラファは器用に片目をつぶると、コートをはためかせて素早く外へと駆け出していった。ものすごく脚が早い。
呆然と彼の消えていった先を見ていると、怒り心頭のトレイズが我先にと追いかけていった。
「あの野郎、今日という今日は許さねえ!」
「えっ、ちょっと、トレイズ!?」
遠くから「お前はそこにいろ!」という指示が聞こえたが、そこにいろと言われても、神護隊員たちはわらわらと思い思いの武器を手に、9番と高等祭司を捕らえろと外へ出て行ってしまった。
取り残されたルナセオは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて頭を抱えて「いやいや!」と思い直した。
「こんなの、大人しくしていられるわけないじゃん!」
◆
世界を滅ぼす9番がどういう人物なのか、ルナセオはトレイズに聞かなかったし、あえてそれを考えようとは思わなかった。世界を滅ぼそうだなんて考えるやつがまともだとは思えなかったし、いくら今はなんにも悪いことをしていなくたって、ものすごくガラが悪いとか、喧嘩っ早いとか、とにかく見るからに「悪いやつ」が選ばれるものだと勝手に思いこんでいた。
もしくは…息を切らして走りながら、酸素の回っていない頭でルナセオは考えた…「そういうやつ」だと、思っていたかったのかもしれない。9番を「倒す」と、ていのいい言葉をみんな使うけれど、それってやっぱり、相手の命を奪うってことだと理解していたから。
だいたい、ルナセオのようななんの変哲もない平凡な学生が巫子に選ばれるくらいなんだから、当然9番だって同じように、ふつうの子どもが選ばれていたって、なにもおかしなことではなかったのだ。
それにしたって、
(…あれはないだろ)
9番と呼ばれた少年は、本当にただの子どもにしか見えなかった。あれが世界を滅ぼすとは到底思えない、愛らしい無力な子どもだ。
(あれを、俺が、倒すのか?)
やんなるなあ、その場で立ち止まって呼吸を整えながら、ルナセオはあたりを見回した。
どこもかしこも似たような小道が続いていて、ルナセオはすっかり迷ってしまっていた。9番どころかトレイズの姿も見当たらないし、たまに見かける神護隊員は何やら剣呑な雰囲気になっていた。どうやら9番が逃げ出したことの責任を押し付けあっているらしい。
「ハア…ハア…あー」
俺、なにやってんだろ。ルナセオはその場にしゃがみこんだ。この歳になって迷子というのも恥ずかしいし、勢いあまって出てきたところで、自分にできることなんてひとつもないのに。
自己嫌悪に浸っていると、不意に頭上から、声変わり前の高い声が落ちてきた。
「ねえ、だいじょうぶ?」
見上げると、まだ薄明るい空に溶けるような満月が見えた。その手前に、こちらを覗き込む小麦色の髪の少年が目に入って、ルナセオは尻もちをついた。
「うわあああ!」
「だいじょうぶ?」
「お、お前、きゅ、9番」
生ぬるい風が吹いてきて、少年の前髪を揺らした。彼があまりにも寂しそうにほほえむので、ルナセオは言葉を失った。
「僕はクレッセ」
ルナセオの隣に同じようにしゃがみこんで、少年は名乗った。途端、今まで曖昧な想像でしかなかった9番の姿に、血肉のついた明確な形が伴うのがわかった。
「きみは?」
「俺は…俺は、ルナセオ」
「そう、ルナセオ」
よろしくね、消え入りそうな声で言う虫も殺せなさそうな少年は、どう見ても世界を滅ぼしそうな風貌には見えない。
ルナセオは気づまりな沈黙をなんとか打破しようと思って口を開いた。
「あの、グレーシャ…いや、ラファだっけ?あの黒服の人はどうしたの?」
「ラファさんは…準備があるって言って、僕をここに置いていった。隠れてろって」
「か、隠れてなくていいの?」
ルナセオの言う台詞ではないが、いくら道が入り組んで人通りが少ないとはいえ、神護隊員たちが血相変えて駆け回っている中、こんなふうに道のど真ん中に出ていていいのだろうか。
ルナセオの見当違いな心配が面白かったのか、クレッセはふふと笑った。
「だいじょうぶ、今はラファさんの幻術が効いてるから。きみはすり抜けてきちゃったけど」
つられて周りを見たが、確かにこの小道は静寂で満たされていて、誰かが来る気配も感じなかった。
クレッセは立ち上がると、ルナセオの正面に立った。薄赤い夕暮れの奥にきらめく星と丸い月が幻想的で、まるで夢を見ているようだった。
「きみは巫子なんだね。そうでしょ?」
「そ、うだけど」
「じゃあ、きみが僕を倒してくれるんだ」
その言い回しが妙に気にかかってクレッセを見たが、彼は琥珀色の目を頭上に向けて、ルナセオを見ていなかった。
「巫子は、聖女様がこの世界に作り出した『抑止力』なんだって」
「抑止力?」
「そう、定期的に世界に9番が現れて、この世界の悪いことをぜんぶ抱えこむ。それを倒すために残りの巫子を選んで、裁くのはぜんぶその人たちに押しつける。世界を平和に続けるために、たった十人を犠牲にするこの世界の呪いなんだって」
そんな風に考えたことはなかった。おとぎ話で語られる赤の巫子は正義の味方だ。「呪い」だなんて思ってもみなかった。
「僕たちは選ばれたんだ、この世界の生贄に。きみも僕も、聖女様の気まぐれに踊らされてる人形に過ぎないんだよ」
この少年はルナセオよりずいぶん年下に見えるのに、口調はひどく大人びていた。赤の巫子になると老いを知らない体になるというから、彼の実際の年齢は見た目よりもずっと上なのかもしれない。
クレッセはふとルナセオのマントをつまんで、乞うように言った。
「ねえ、ルナセオ。僕のお願いを聞いてくれる?」
「…なに?」
「この先、僕の大切なひとたちが、巫子に選ばれるかもしれない。巫子は9番にゆかりのある者が選ばれやすい。ネルとデクレっていうんだ。
僕、ふたりにひどいこと言っちゃったんだ。許してもらえないかもしれない。ふたりとも、泣いてるかも。特にネルは泣き虫だから」
そう言うクレッセはほほえんでいたけれど、彼の方が泣いているように見えた。優しい少年は、へたくそな笑顔を作って、ルナセオに願った。
「どうかあのふたりがきみの前に現れたら、守ってあげて。きみが守ってくれてると思えば、僕はちゃんと自分の役目を果たせるから」
彼の言う役目とはなんなのか、ルナセオは聞こうと思ったけれど、その問いは声になる前にかき消された。小道のむこうから、あのグレーシャそっくりの黒衣の少年が駆けつけてきたのだ。
「よっし、クレッセ、行こうぜ!おっと、取り込み中?」
ラファはクレッセを抱き上げながら、うずくまったままのルナセオを見下ろした。彼が黒い衣装をはためかせて不敵に笑う姿を見て、ルナセオはピンときた。
「あのさ…」
言うべきか悩んで、ルナセオは言葉を濁した。
「あの、あんた、たまには家に帰んないと、奥さんに愛想尽かされるよ」
ラファは目を丸くして、それから快活に笑って「だいじょぶ、俺たち熱々のラブラブだから」と返した。
そのまま二人は立ち去ろうとするので、最後にこれだけは尋ねておこうとルナセオは立ち上がった。
「クレッセ!」
クレッセは琥珀の瞳をこちらに向けた。
「あのさ!きみはそれでいいの?9番に選ばれて、巫子に倒されるとか嫌じゃないの?そこまでして世界を滅ぼしたいの?」
ルナセオの脳裏に一縷の望みがよぎった。ギルビスが教えてくれたように、9番が世界を滅ぼす意志を失うのなら、なにもクレッセを倒さなくても、巫子の呪いとやらは消えるんじゃないかと思ったのだ。なにせ、今のところクレッセは、なんの罪も犯していないただの少年に過ぎないのだから、
しかし、クレッセは最後まで優しげなほほえみを浮かべたまま、小さく首を横に振った。
「僕は必ずこの世界を滅ぼすよ。聖女も、巫子も、この世界のくだらないことわりすべて、僕がぜんぶ、壊してやる」
今度こそ行ってしまう彼らに背中を、ルナセオは追いかけられなかった。こぶしを強く握っていなければ、とても正気を保てそうにない。あの運命の日から、自分の知らなくてよかった感情ばかりが表に出てしまう。
巫子になったところで、所詮ルナセオはただの学生に過ぎない。9番を打ち倒せるだけの大義も、彼を止められるだけの信念も、まだ何も持っていない。それがただただ悔しくて、ルナセオはその場から動くことができなかった。
◆
そうして我に返ったのは、背後にそびえ立つ塔から、街中に響き渡るような鐘の音が響いたからだった。一斉に家々から住民たちが出てきて、平伏して祈りを捧げ始める。
なるほど、これがトレイズの言っていた礼拝というやつらしい。信心深い人々の都市だけあって、誰も彼も熱心に塔に向けて拝んだり、感謝の言葉を呟いたりしている。人々をよけながら鐘の音の鳴る方へ向かうと、なにやら広場に出た。
広場から三尖塔への道が通じているのか、そこは人であふれていた。中央に大きな噴水があってなかなか壮観だ。近くで見てみようと人の間をすり抜けていくと、何かがおかしいぞと気づいた。
まず、広場の人々は平伏も忘れて、凍りついたようにその場に棒立ちになっていた。そしてみな一様に、噴水のほうを見つめている。ルナセオも人々の隙間からそちらを伺うと、噴水の手すりに神護隊の男が立っていた。彼は顔を真っ赤にして、手にしたなにかを振り回して叫んでいた。
「民衆に告ぐ!今朝、我らが栄えあるラトメディアの聖地に、憎き悪都の鼠が入りこんだ!見よ、この裏切り者の顔を!」
手にしたそれは、真っ赤な液体にまみれすぎていて、最初は大きな赤カブかなにかを持っているのかと思った。しかし、滴っているのはひとの血液で、しかもその顔があの親切な見張り番だと気づいた時、ルナセオはぞっと背筋が粟立った。
「この男はあろうことか、悪しき神都の者に誘惑されて神聖なるラトメの地を汚した!これは由々しき事態である!他にも裏切り者がいないか選別をすべきである!」
神護隊の男は義憤に駆られているのか、それとも手柄目当てなのか、目をギラギラさせながら生首を放り投げた。人々はもう男の話なんて聞いてもいなくて、悲鳴を上げながらとにかく広場から一目散に逃げようとしている。
それからはもう悪夢みたいな光景だった。神護隊員は狂気に駆られた高笑いを上げながら、選別なんて名ばかりの蹂躙を始めて、住民たちも混乱の境地の中、そこかしこで殴り合いに発展している。
トレイズ!トレイズを探さなきゃ。ルナセオはあたりを見回したが、神護隊本部への道順もわからないし、だいいち彼が戻っているかも怪しい。とにかく安全な場所を探そうとあてもなく駆け出すと、進行方向から鋭い泣き声が聞こえた。




