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明くる日、ルナセオたちの前に現れたナシャ王妃は、役目を与えられたのが嬉しくてしょうがないのか後光が差すほど可憐にニコニコしていた。彼女の完成された圧倒的な美の前に、ルナセオは思わず平伏して拝みそうになった。
「巫子様、昨夜はゆっくりお休みになれましたか?」
「はっ、はい!そりゃもうぐっすり!」
ルナセオは咄嗟に嘘をついたが、目元に浮いたクマに気付いているらしいトレイズとギルビスは揃って呆れたようにこちらを見下ろしてきた。
ナシャ王妃は今日は杖を手にしていた。彼女の身の丈を超えるくらいの長くて細身の杖は、それ自体が芸術品のように細く蔦の絡み合うような精巧な彫刻で飾られていた。杖の頂点に小さな宝石が乗っているが、おそらくあの宝石だけでも目玉が飛び出るほどの価値があるのだろうとルナセオは予想した。清貧を尊ぶシスターとは思えない豪華っぷりだが、この王妃は身にまとう靴下一枚の値段すら知らなさそうだ。
「安定して目的地にお送りできるように、杖を使うことをお許しください。揺れないようにいたしますから、どうぞご安心くださいね」
「王妃、どうぞご無理はなさらぬよう。少しでも負担を感じたらお止めいたします」
ギルビスは胸を押さえて優雅に一礼したが、昨日のやりとりを見た今となっては、胃が痛いんだろうな、と心配することしかできない。
中庭に集合した一同は、ナシャ王妃の指示でルナセオとトレイズだけ中央に立たされて、ギルビスと王妃は二人から距離をとった。
別れの間際にギルビスがかがんでルナセオと視線を合わせた。
「昨日のこと、余計なことを言ったようであればすまない。君の役目にいらぬ水を差したかもしれない」
「全然そんなことないです!知らないこと教えてもらって勉強になりました!」
頭上からトレイズの「俺との態度の差はなんだ」という文句が聞こえたが、ルナセオは無視した。
ギルビスはほほえんで、ルナセオにだけ聞こえる声で言った。
「トレイズには内緒にしていたが、私の部下が巫子を連れてラトメに向かっている。もしかしたら、君も会うかもしれないな。そのときはよろしく頼むよ」
びっくりしてギルビスを見上げたが、彼は「じゃあ」と片手を挙げてナシャ王妃の元まで下がってしまった。トレイズが首を傾げた。
「何言われたんだ?」
「ん、ううん、なんでもない」
なぜギルビスは、トレイズには内緒にしておこうと思ったのだろう?聞いてみたい衝動に駆られたが、肝心のギルビスは内緒話ができる距離にいなかった。
ナシャ王妃がにこやかに言った。
「では参りますね。お二人とも、その場を動かないようお願いいたします」
王妃がとん、と杖の底を軽く地面に打ち付けると、ルナセオたちの足元に光の線で描かれた魔法陣が浮かび上がった。彼女が祈りの文句を唱えると、魔法陣から光の粒子が雪のように舞い上がる。
「どうぞあなた様の行く手に幸福がありますよう…行ってらっしゃいませ、巫子様」
視界が金色の光で遮られる中、その向こうでひらひらと手を振る美少女と騎士の姿が見えた気がした。一瞬あと、目の前の光景が上下にぶれて、ルナセオたちはその場から消え去った。
「…ギルビス、あなたも気づいていたのではないですか?」
「何がですか?」
「わたくし、お話ししたことはないけれど…あの髪の色、お顔立ち、昔、拝見したあの方にそっくり。巫子様はお父様似なのですね」
「……」
「仇のご子息にお会いになって、あなたが心を乱したりはしないかしらと、わたくし少し心配しておりました」
ギルビスは、そこまで聞いて小さく吹き出した。
「まさか、騎士たるもの、そう簡単に我を失いはいたしません」
それに、と付け加えて、ギルビスは南の空を見上げながら続けた。
「私は少し安心しております。彼の子供が善良に育ったのであれば、あのとき9番を打ち倒さなかった私たちの選択は正しかったのだと」
その表情はどこか晴れ晴れとしていて、ナシャ王妃はその横顔を見上げながら慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「そうですね」
◆
転移してまず感じたのは、鉄板の上に立たされたかのような灼熱の暑さだった。
「あっつい!」
皮膚が焼けるかと思って、ルナセオは慌ててフードをかぶった。じりじりとマント越しに蒸し風呂のような熱が伝わってくる。
先ほどまでの温かな庭園からは一転、見渡す限りあたり一面砂の海だった。蜃気楼なのか、遠くの砂山がぼやぼや歪んでいて、湖のようなものが見える。振り返ると、白い巨大な外壁があり、その向こうに三本の尖塔の先が見えた。
「ここがラトメ?砂漠は過酷だって聞いてたけど噂以上だな…トレイズ?」
返事が返ってこないので足元を見ると、トレイズがうずくまっていた。
「どうしたの?どっかケガでもした?」
「……オエッ」
なんとトレイズは吐いていた。この暑いのにげっそりと青ざめたトレイズは、焼けるような砂の上で四つんばいになってうめいている。ルナセオは慌ててトレイズの背中をさすった。
「うわっ、どうしちゃったんだよ。急に暑くなったから体調崩したの?」
「悪い…俺…転移酔いが…ひどくて…」
息も絶え絶えにトレイズは説明したが、その後すぐにゲーゲーし始めたのでそれ以上は聞けなかった。転移酔いもなにも、揺れたのはほんの一瞬だったのに、一体なにで酔うというのだろうか。ルナセオは絶え間なく背中をさすってやりながら首を傾げた。
「欠点の多いやつだなー。とにかくこんな場所にいちゃ余計具合が悪くなるだろ。涼しい場所とかないの?」
「中に…入れば…少しは…」
トレイズに肩を貸しながら門にたどり着くと、見張りの兵士はぎょっと目をむいた。彼もまた槍を片手に握っていたが、さすがにシェイルのように甲冑姿なんてことはなく、薄手の麻のコートに白い詰襟、黒いズボンという、シェイルと比べればだいぶ簡素な制服に身を包んだ男は、青白い顔色のトレイズのところに飛んできた。
「トレイズさん!?どうされたのですか!?」
「あー…悪い…入れてくれるか…」
今際の時かと思うほどか細い声で言うので、たちまち見張り番は悲壮な表情になって「お待ち下さい!」と門を開けてくれた。ルナセオからトレイズを引き取って、門の先にある簡素なテントに連れていくと、どこからか風を発生させるらしい小型の魔法道具を持ってきてトレイズのそばに設置した。
しかも親切な見張り番は甲斐甲斐しく冷たい水まで運んできてくれ、ルナセオもそのおこぼれにあずかった。
「トレイズさん、水です!お飲み下さい!」
「すまない…助かる…」
ルナセオは手持ち無沙汰になってあたりを見回した。確かに、門の中は外と比べればましな暑さだった。外壁のてっぺんが内側に向けて丸く曲がっているので屋根になっているようだ。それに、日陰を作るようにあちこちに橋や坂が作られていて、そこかしこから入り組んだ小道が続いている。
それより目を引いたのは、家の中ではなく、日陰になりそうな地べたにテントを立てたり絨毯を敷いて暮らしている人が多いことだ。彼らは街の中だというのに火を焚いて大窯でスープのようなものを作って、複数の家族で分け合っているようだった。みんな袖から伸びる手首が細っこくて折れてしまいそうだとルナセオは思った。
「あんまり遠くへ行くなよ、金目のものをスられるぞ」
吐くだけ吐いて少し復活したのか、トレイズの声が追いかけてきた。振り返ると、絨毯の上であぐらをかきながらこちらを見守っている。見張り番は何やら上司に呼び出されたのか、他の麻コートにペコペコ頭を下げている。
「大丈夫なの?」
「ああ、だいぶマシになった。昔っからどうも転移は苦手だ」
トレイズはそう言って水を飲み干すと、見張り番の方を見て顔をしかめた。親切な見張り番は上司に首根っこを引っ掴まれてどこかへと連行されていく。
「なんか怒られてたね」
「何かやらかしたのか?礼を言いたかったんだがな、あとで聞いてみるか」
◆
ラトメディアの首都フレイリアは街の中央に立つ三本の塔を起点に、みっつの区画に分かれているらしい。中でも真ん中のひときわ高い塔は神宿塔といって、このラトメを統べる“神の子”の居城らしい。
「といっても、だいぶ前から“神の子”の座は空位になってるから、今は朝晩の礼拝の時間くらいしか塔の扉が開かない。この街の権威は西の舞宿塔と東の貴宿塔に二分化されてるが、この街の奴らは神に祈るのが趣味みたいなもんだからな。未だに神宿街の近くにいたい連中がああして外にあふれて暮らしてるのさ」
「ふうん、お祈りなんてどこでもできるんだから屋根のある家に住めばいいのに」
「それがこの街の価値観ってことだ。さあ、着いたぞ」
トレイズに連れられて迷路のような小道を抜けた先に、ひときわ大きな建物が見えた。
「ラトメ神護隊の本部だ。上司が戻って来ていればいいんだが」
「神護隊ってトレイズが隊長やってたっていう?」
シェイルの受付で聞いた話を思い出すと、トレイズは照れ臭そうに頬を掻いた。
「昔の話だ。今はただの便利屋さ。それに、“神の子”が不在の今、神護隊も政治に食いつぶされた形だけのモンだしな」
中に入ると、見張り番と同じ麻コートの制服を着た男たちがセカセカと働いていた。何か忙しなく書類を運ぶ者もあれば、奥の中庭で剣を振って鍛錬に励む者もいる。今しがたのトレイズの台詞とは裏腹に活気のある場所に見える。
しかし、近くにいた男たちの会話が通りすがりざまに聞こえて、ルナセオはなるほどな、と得心がいった。
「なあ、俺とうとう貴宿塔の席をもらうことになったぞ」
「なんだと、一体いくらかけたんだ?」
「舞宿塔の側仕えの女にちょっとな、いい気味だぜ」
「舞宿塔派の連中、今頃悔しがってるんじゃねえか?」
話の中身はよくわからなかったが、誰が聞いているかもわからないこんな入り口近くでする話ではないことは確かだ。彼らの下卑た笑いを聞きながら、まかり間違ってラトメで暮らすことになっても神護隊に就職するのはやめておこうと固く誓った。
トレイズは入口のカウンターで暇そうにしている神護隊員に近づいていった。
「おう、おつかれ」
「あ?…ああッとっトレイズさん!お帰りなさいませ!」
受付は椅子を蹴倒さん勢いで立ち上がると直角に頭を下げた。あの見張り番といい、トレイズもこの街では人気者なのかもしれない。
「ああ。レフィルは帰ってるか?」
「今朝お戻りになったのですが、今は舞宿塔に顔を出すといって席を外されています。お急ぎであれば鳥を飛ばしますが」
「いや、いい。それなら時間を改めてまた来る」
どうやらトレイズの上司とは入れ違いになったらしい。つくづく間が悪いと思いながら彼の背中を眺めていると、にわかに室内の奥のほうが騒がしくなった。
「おい、あの高等祭司、我が物顔で歩きやがって」
「エルミさんもどうしてあんなやつを引き入れたんだ?」
どう見ても友好的とは言いがたいトゲのある視線にさらされながらやってきたのは、黒い厚手のコートをまとう同世代くらいの少年だった。片手に頭の二倍はあろうかという大きな帽子を抱えている。そして、その背中にひっそり隠れるように、マントを被った小さな影が寄り添っていた。
そんなことより、その顔立ちにあまりにも見覚えがありすぎて、ルナセオは信じられない面持ちで名前を呼びそうになった。
「グレー…」
「ラファ、なんでお前がここに」
「げ、トレイズじゃん。ついてないな」
ルナセオは口をつぐんだ。またもトレイズの知り合いらしい。しかも、だいぶ嫌っているようだ。鬼の形相でラファと呼ぶ少年を睨むなり、腰の剣に手をかけるのでさすがにルナセオは止めに入った。
「ちょっとちょっと!ここでドンパチする気?どうしたんだよ」
「ん?お前は?」
ラファは目を瞬いてルナセオを見た。身長もちょうど同じくらいで、目線がかち合った。見れば見るほどグレーシャそっくりだが、この少年は耳にピアス穴も開いていないし、目の色もグレーシャとは違っていた。彼のほうもまじまじルナセオを見ると、何かに気づいたように唇を開いた。
「あれ、お前…」
「ルナセオに寄るな悪党!」
「いや、だってこいつ」
トレイズに胸ぐらを掴まれながらなおもラファが何かを言おうとしたとき、もつれた脚が背後の小さな影に当たって、はらりとフードが落ちた。まん丸の目をした小麦色の髪の少年が、おでこをさすりながらこちらを見上げていた。