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 どうしてここに、ルナセオが尋ねる前に、ネルはこちらへと距離を詰めてきた。そのまま身体をぺたぺた触ってくるので、ルナセオは硬直した。

「セオ、だいじょうぶ?ひどい目に遭ってない?」

どうやら怪我がないかを確かめているらしい。彼女の瞳は心配に彩られていて、ルナセオは恥ずかしいやらなんだかほっとしてしまうやら、胸が熱くなってしまって顔をうつむけた。

「う、うん、大丈夫…ごめん、あんま触んないで…」

「あっ、ごめんね」


 ネルはぱっと両手を離してくれたが、ルナセオは気まずくなって耳のあたりの髪を撫でつけた。


 どうやらやってきたのはこの三人だけのようだ。長身の男は見覚えがないが、シェイル騎士には見えないタートルネックのシャツに細身のズボンを合わせたラフな格好で、しずしずとローシスのうしろに付き従っていた。メルセナやトレイズの姿は見えない。


 ラファが仕事を放棄して書類を机の端に追いやった。

「さて、お前ら、この世界大会議前で忙しい時に余計な仕事を持ち込んでくれたな」

「ご、ごめんなさい、ラファさん」

ネルが素直に頭を下げた。そういえば、ネルとラファは面識があるのだったか。ラファはガシガシと頭を掻いた。

「だいいち、なんでロビ殿下まで一緖なんだよ。アンタ、こういう厄介ごとは嫌いだろ?」

「なんだ、気づいてたの?」


 ろびでんか?声を上げかけたところで、ローシスの陰で存在感を消していた長身の男が髪をかきあげた。目元を隠した陰気くさい亜麻色の髪が見る間に短くなり、はっきりとしたモスグリーンに変わった。

 すっかり爽やかな風体になった優男は、つまらなさそうに肩をすくめた。

「別に手助けしてやる義理はないんだけどさ、この子の巫子の力がなかなか興味深かったもんだから。聖女の封印についてクソ親父にご教示願おうと思ったのさ」

柔和な顔に似合わず、男の言動は辛辣だった。ラディ王子のような優雅な物腰とは違う、どこにでもいそうな平凡な見た目の男は、赤い髪を隠しているらしいネルの黒いベレー帽を手の甲でトントンした。


「ああ、ラトメにある封印を解いたんだったか。話は聞いてる」

 ラファはそこでチラリと窓の外を見た。つられて視線を追ったが、執務室の外は緑豊かな森が広がるばかりだ。

 隠れ潜んでいるなにかを探るようなラファの動きに、ローシスが気まずげに扉を振り返った。

「アー…俺、外しましょうか」

「いや」

ラファは壁を後ろ手にコツコツ叩いた。まるでそのむこうになにかがいるのを確かめるような動きに、ルナセオはピンときた…窓の外には、先ほど出ていった〈聞き耳〉やトックがいるのかもしれない。

「アンタみたいなガタイのやつが部屋の前にいられると目立つ。ちょっと神殿のやつには聞かせたくない話がしたかったんだ。なんならアンタんとこの王様には伝えてくれても構わない…これでいい」

魔法でもかけたのか、一瞬、部屋の壁が虹色に光った。詠唱もなしに魔法を使うのはかなり高度な技術が必要なはずだが、ラファはなんてことなさそうに部屋を見回した。


「結論から言うと、今、シェーロラスディ陛下は誰にもお会いにならない」

「なんでさ。いくら世界大会議前だからって、巫子が会いにきたなら時間を取るくらいはするでしょ」

 ロビ殿下は眉をひそめた。彼はどうやら、陛下が体調を崩していることを知らないらしい。

「時間が取れる取れないの問題じゃない。シェーロラスディ陛下に謁見すれば、そのことは必ずファナティライスト上層部に知れ渡ることになる。いま何人の巫子が結集していて、どこに肩入れしているのか、どういう素性なのか。そういう情報を渡したくない」

「…リズセム殿下は、世界王陛下の安否を気にしておられました。何か神都で不穏なことが起きているらしいと」


 ローシスの言葉に、ラファは指先で机を叩いた。言葉を選んでいる様子だ。

「陛下が無事か否かで言えば、もちろんご無事だ。だけど問題はその下。聖女の封印が解かれて、陛下が身動き取れずにいる間に、勝手にあれこれ画策してる奴がいる…ロビ殿下、アンタもしばらく身を隠したほうがいい。厄介ごとに巻き込まれたくないならな」

「…要するに、この世界統一のご時世に国家転覆を企む輩がいるってワケか。人間風情が大きく出たね」

ロビ殿下はにやりと笑った。こっかてんぷく、隣のネルがぴんときていない顔でつぶやいたので、こっそり「国のお偉いさんの中で、王様を差し置いて偉くなりたい人がいるんだってさ」と耳打ちしてやる。


「えっ、でも、だって…セカイオーさんはいちばんえらいんでしょ?」

 ネルの疑問に、ラファは唸った。

「そりゃそうだ。でも、陛下だって強い権力があれば無視はできない。で、そのために巫子の力を狙ってる。巫子の持つ魔力は使いようによっちゃ兵器になりうるからな」

「兵器…」

 ルナセオは、今は仕立てのよい服をまとった腕をさすった。「先生」がルナセオを屈服させたがったのは、9番を連れているラファに対抗するためだ。あのままアルカナ夫人をさらっていたら、自分は今この場にはいなかっただろう。


 首輪をはめていた時間、「先生」はしきりにラファに対する文句を言っていた。そのラファを重用する、陛下への恨み言も。あの老人のしわがれた呪詛がぐるぐると頭を回って、ルナセオの息が浅くなりかけたとき、ネルがぽつりと尋ねた。

「…ラファさんも、そうなの?」

「ん?」

「ラファさんは、クレッセをラトメから連れ出したんでしょ?ラファさんも、クレッセを兵器にするつもりなの?」

 ラファは目をしばたいた。思ってもないことを言われた様子だ。彼はチラリと、鍵をかけた奥につづく扉に視線を飛ばした。


 ルナセオはまだこの男のことがよくわからないけれど、クレッセに対する彼の態度は、いつも父親のようだった。ひょっとすると、ローアに対するよりも気兼ねのない様子があるくらいだ。クレッセを叱るのも、眠るクレッセの頭を撫でるのも、いつも甥に対する親愛が感じられた。


 男はネルの正面に立つと、少し膝を折って彼女と視線を合わせた。

「確かに、俺がクレッセを神都に連れてきたことで、そういう見方をするやつもいる。あいつは9番で、世界を滅ぼすだけの強い力を持ってるからな」

「じゃあ…」

「でもな、ネル。ルシファの村でお前とデクレに言ったことは、嘘じゃないよ。俺にとってクレッセは大事な甥っ子で、俺はあいつの呪いを止めたいんだ。この世には絶望ばっかじゃないんだぜって、ちゃんと教えてやりたいから、ここに連れてきたんだ」


 その視線は、先ほど高等祭司になった理由を語った時と同じ、ルナセオのような若輩者では覗きこめない深い思いに満ちていた。

「本当はクレッセに会わせてやりたいけど、ごめんな。今はあいつ眠ってる。それに…“聖女”には、あまり近づけたくないんだよ」

 聖女。ルナセオの心臓が嫌な音を立てた。ネルは一瞬、ひどく打ちのめされたような顔をしたが、ぐっと拳を握って前を向いた。

「クレッセ、元気にしてる?」

「ああ。毎日夢中になって図書館の本を読み漁ってる」

「そう」

ネルはほほえんだ。

「…あのね、ラファさん。クレッセに伝えてくれる?わたしはもう、クレッセを助けるのを、絶対に諦めないって」


 ラファがそのとき表情に乗せた笑みがどうしてあんなに悲しげだったのか、きっと今のネルにはわからないだろう。彼女はまだ、クレッセの目指す世界が、ネルの願いとは対局にあるとは知らないのだから。

「そっか」

だが、ラファはネルの頭にぽんと手を置いて、彼女の思いを否定しなかった。

「期待してるよ」



「あの、ラファさん、ありがとうございました」

「ん?」


 執務室を出たところで、ルナセオはラファを振り返って、深く頭を下げた。

「俺は大したことしてねえよ。体張ったのはだいたいクレッセとトックだしな」

クレッセの名前に反応したネルが首を傾げた。ルナセオは苦笑しながらポケットの中のハンカチを握りしめた。

「そうだけど…あいつらにはもう礼を言えないから、ラファさんに言っておこうと思って。ラファさんがあの夜、公爵邸にいてくれなかったら俺、もう戻れなくなってたかもしれないし」

「そりゃそうか」

 男は、ルナセオの額を気さくに小突いた。それから人懐こくにっこりしてみせる。

「ま、あいつらのかわりに受け取っといてやるか。もう伯に捕まんなよ」


 顔を上げると、男の瑠璃色の瞳がきらりと光った。グレーシャとは違う、人を魅了するうつくしいまなざしだ。このひとのことは嫌いじゃないな、ルナセオはそう思った。


 最後にもう一度頭を下げて、ルナセオは先を歩きはじめているネルたちに追いついた。足音の響く静かな回廊に声をひそめて、ネルがたずねてきた。

「セオ、ほんとうにだいじょうぶ?」

「えっ」

彼女は思わしげにルナセオの頭のてっぺんから足の爪先までを眺めると、うーん、と首をかしげた。

「なんだか…ちょっと離れてただけなのに、すごく大人になっちゃったみたいだから」

「オトナになったんじゃないの…もが」

「おっと失礼、ご尊顔に虫が止まっておりまして」

前を行く王子殿下の口をふさいだローシスが悪びれもなく言った。


 ロビ殿下は騎士の無礼は気にも留めずにくるりと振り返ってさわやかに笑った。

「男子三日会わざればそれなりの酸い甘いを体験するものさ。そうだろ?ま、このローシス坊やは三十年会わなくてもガタイしか違いを感じないけど」

「失敬ですね、こう見えて俺もまあまあ修羅場を…」


 途中で口をつぐんだローシスの視線を追うと、前方に面布をつけたままの小柄な人物が立っていた。彼は廊下の脇に寄って、こちらにお辞儀した。

「ぬ、抜け道を使われるようでしたら、人払いをしてあります。今のうちにどうぞ」

彼の口調は緊張で震えていた。ガタイのいいローシスが前に出ると、少年はヒィとか細い声を上げた。

「危険はないと思いますけど。どうします?」

ポリポリ頭を掻いてローシスが言った。

「ま、さすがに帰り道も正面突破は厳しいか。お言葉に甘えて抜け道を通らせてもらおう。臭いんだけどね、ココ」

「…あのさ、俺が指名手配犯ってことにしてここまで来たって聞いたんだけど。ネルたちどうやってここまで来たの?」


 ネルとローシスが揃ってルナセオから顔をそむけた。とにかく、褒められた手段ではないらしい。


 抜け道に続くらしい廊下の床板を、ロビ殿下が慣れたように外すのを眺めていると、くいと袖を引かれた。振り返ると、面布ごしに少年と目が合った。

「あ…」


 お互いに、なんて言おうか、悩んだ。さよなら?またな?どんな言葉もふたりにはしっくりこない気がして、ルナセオはしばし視線をさまよわせた。


「セオ?」

 抜け道へ続く穴から顔を出して、ネルに呼びかけられる。少年はそっとルナセオから手を離した。

 反射的にその手をつかんで、ルナセオはポケットから出したハンカチを、相手に押し付けた。何度も握ってくしゃくしゃになっているけれど、公爵邸で洗濯のついでに綺麗にしたから、汚れてはいないはずだ。

「やっぱりこれは返すよ」

「…いらないって言ったのに」

「俺もさ、お前に借りは作りたくないから」

ポケットが空っぽになったことで、心まで軽くなった気がした。ルナセオはむりやり口端を引き上げた。

「だから、次に会うときはまた敵どうしだ」


 仇のいなくなった廊下で、床板をもとの位置に戻すと、トックは窓の外を見上げた。もうすぐ日が暮れるから、執務室を訪ねればクレッセに会えるだろうか。彼なら、この行き場のないハンカチを、一瞬で灰にしてくれるはずだ。


 そうしたらきっと、明日からはお互いを憎めるだろう。トックはひとつ決意して、その場をあとにした。



 下水道は確かにひどいにおいがした。一応汚水の川の端に人の通る道はあったが、その床もずいぶん汚れてビチャビチャしていた。ロビ殿下の先導に従いながら、ルナセオはさっそくトックにハンカチを返したことを後悔した。こんなに仕立てのよい服にすえた匂いが染みついたら、アルカナ夫人に申し訳が立たない。

 この服、弁償するとしたらいくらくらいかな…頭の中でそろばんを弾いていると、ロビ殿下がつまらなさそうにこちらを振り返った。

「あーあ。結局聞きたいことはなーんにも収穫がなかったな。ルタポッポくんを連れ出しただけか」

「…ひょっとしてそのルタポッポくんって俺のこと?あのー、俺ルナセオっていうんですが」


 ロビ殿下は聞いちゃいなかった。どうやら彼の目当ては父親である世界王陛下に会うことだったらしく、へそを曲げて文句を垂れてはローシスになだめられていた。色彩こそあのシェーロラスディ陛下に似ているが、ひょろりと背の高い針金のようないでたちはいかにもそこらへんにいそうな普通の男性にしか見えなくて、ルナセオはこっそりネルにたずねた。


「なんかまだピンとこないんだけど…ホントにこのひと、世界王子なの?そのへんの平民じゃなくて?」

「うーん、そうみたい」

 ネルはちょっぴり困ったようにほほえんだ。

「俺、世界王陛下に会ったけど。やっぱすごいオーラあるっていうか、目の前にしただけでひれ伏したくなる感じだったんだけど。それと比べると、なんていうか…地味?」


 そのとき、くるりとロビ殿下が振り返って、

「君、野菜食える?うち肉は出ないからよろしく」

といきなり言われたのでルナセオはびくりと肩を揺らした。聞こえてしまっただろうか。

「えっと、王子様の家に向かってるんですか、これ?」

「そりゃそうでしょ。ルダチェオくんはシェイルに追われてる大罪人ってことになってるんだから。あ、俺の家は神都の外にあるけど、やろうと思えば街に忍び込んで買い物くらいはできるよ」

「あのー、いろいろ突っ込みたいんだけど、とりあえずなんで俺が犯罪者ってことになっちゃってるの?」


 ロビ殿下はスンと前に向き直った。無視か…げんなりしてため息をつくと、今度はネルが顔を寄せてきた。

「あのね、セオ」

彼女は濁った下水の流れを見下ろしながらぽつりと切り出した。

「セーナも、トレイズさんも、みんな心配してたよ」


 どきりとした。固まるルナセオに、ネルはなおも言った。

「もちろんわたしも。リズセムさまに言われて、セオも仕方なく神都に行っちゃったのかもしれないけど。わたし、なんにもできないけど、やっぱり話してほしかったよ」

「…ごめん」

 転がった小石が爪先に当たってコロコロ転がった。

「神都に来たのは…リズセム殿下に言われたのもあるけど、俺があの巫子狩りに、復讐したかったのもあって…俺、いてもたってもいられなかったんだ」


 ネルは静かに、ルナセオの話を聞いていた。言葉を選びながら、ルナセオは首元をさすった。

「でも、結局うまくいかなかったんだ。あいつらにはあいつらの事情があって、それで、俺…クレッセやラファさんたちに迷惑かけたりもして。いろんな人の助けがなかったら、たぶん俺、今ここにいられなかったと思う」

「そっか…セオも、いろいろあったんだね」

 クレッセの名前を出したのに、彼女はなにも追及してこなかった。ルナセオ以上に、彼女はあの少年に会いたかったはずなのに。


 ルナセオの会ったクレッセは、ネルが語るほど優しくて分別のある少年ではなかった。どちらかというと短気で、人の気にしていることをズバズバと問い詰めてきて、それで、


 それで、ネルを聖女や巫子の呪縛から解放するなら、たぶん、なんだってやるだろう。


「ネルはさ…」

 ルナセオは迷いながらも口を開かずにはいられなかった。

「例えばの話だけど、もし…もし、クレッセを助けるために、逆にネルのほうが、犠牲にならなきゃいけないとしたら、どうする?」

ネルはきょとんとして目をしばたいた。

「なあに?それ。犠牲になるって、どんな?」

「えっ?えーと…ずっと不老不死のままになるとか?」

「ふうん?」

彼女はちょっとだけ考えてからあっけらかんと言い放った。

「それくらいなら別にいいけど」


 それくらい!?あまりの反応の薄さに、ルナセオは身を乗り出した。

「それくらいって、不老不死だよ?ずっと年取らないし死なないんだよ?」

「うーん、でも、年取らないひとは結構いっぱいいるし」

彼女の視線はロビ殿下の背中にあった。確かに、この世には年齢不詳が多すぎる…ルナセオははからずも納得した。


「そのうち寂しくなっちゃうかもしれないけど。すっごく痛い思いしたり、まわりの人たちが傷ついたりするんじゃないなら、わたしは気にしないかも」


 そう言ってへらりと笑うネルにはもう、はじめて会ったときのような心細そうに怯えた様子はなかった。リズセム殿下と合流したあたりから笑顔を見せるようになったけれど、今はもっと、余裕があるように見える。

 なにか心境の変化でもあったのだろうか、聞くに聞けずにいると、不意にネルはあっと声を上げた。

「でも、不老不死ってことはいつまでもおばあちゃんにならないってことだよね。デクレは、結婚相手がずっと若いままだったら嫌がるかなあ。自分はおじいちゃんになっちゃうんだもんね。どう思う?」


 的はずれな心配だ。ルナセオはほのぼのとしたネルに、なんだかひどく安心してしまった。

「そこなの?ネルってなんていうか…気にするトコがずれてるなあ」

「えええ、ひどい。聞いたのはセオなのに!」

むうと口をとがらせるネルに、ルナセオは声を上げて笑った。ああ、よかった。俺はまだ笑えるみたいだ。ほっとして涙まで浮かんできた。


 クレッセはネルを聖女にはしないと言ったけれど、彼女は確かに…渇いた心を癒してくれる、あたたかい聖女様になれるだろう。

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