36
それからの数日、ルナセオは公爵邸で平和に過ごした。朝はふかふかのやわらかいベッドで目が覚めて、特になにをするでもなく、花が咲き誇る庭を散歩して、たまにアルカナ夫人のお茶に付き合ったり、手持ち無沙汰になれば召使のミュウの手伝いをした。
アルカナ夫人は、「先生」の影を彷彿とさせるものは一切ルナセオに寄せ付けないと決めているようだった。お茶を蒸らすのに砂時計を使わずに歌をうたいだし(旅の途中でネルが歌っているのを聞いたことがあるが、こんなメロディだったのだなとルナセオは初めて知った)、食卓にはテーブルナイフの不要な料理だけが並べられた。
アルカナ夫人もミュウも、ものすごく気を配ってくれているのに、彼女らはなんてことない顔をしている。それがありがたくも申し訳なかった。
彼女らが過敏になる理由はわかっていた。公爵邸に来た次の日、部屋のカレンダーを見て、ルナセオがひどく取り乱してしまったせいだ。
まだルナセオが神都にやって来てから数日しか経っておらず、あの途方もなく長かった「躾」の時間はほんの数時間のできごとだったと知って、ルナセオはふたたび打ちのめされた。それが砂時計の効果だったとラファには慰められたけれど、そんなことは関係ない。
あの老人に一晩足らずで屈服されてしまったのが、今のルナセオの現実だ。もっともっともっともっと強くならなければ、誰も守れないし、復讐など果たせない。
丸一日部屋に閉じこもってひとしきり泣いていると、夜になって、クレッセに扉を灰にされた。見た目は幼い少年の、世界を滅ぼす9番は、心の底から苛立たしげに言った。
「きみ、そんなことしてる暇あるの?」
ネルの話からは、クレッセがこんなに気の短い辛辣なタイプだとは想像もつかなかった。とはいえ、クレッセの容赦ない叱咤には目の覚める心地だった。激怒したラファによってアルカナ夫人に土下座させられているクレッセを見ながら、ようやくルナセオは涙を拭った。
というわけで、ルナセオの引きこもりは一日で脱却させられたものの、しかし公爵邸をうかつに出るわけにもいかなかった。神都から脱出しようにも、神殿の転移装置を使うのも、あるいは歩いて神都の門を出るのもいくつもの制約があって、トックたちに捕まって非公式にやってきたルナセオには難しいらしい。
「でもさ、世界王陛下は俺がここにいるって知ってるでしょ?許可とかもらえたりしないの?」
「あのなあ、ここはシェイルじゃないんだぜ?王様がなんでもやってるわけじゃねえの。転移装置いっこ使うのに、十代かそこらのガキが世界王陛下の許可証なんて引っさげていったら、逆に怪しすぎてみんなひっくり返っちまうよ」
ラファは呆れたように言った。
「だいいち、聞いただろ?陛下はご体調を崩されてる。簡単に謁見の手配なんて取れねえよ」
では、自力でここを出なければならないということか。うめいていると、アルカナ夫人がくすくす笑った。
「ルナセオ様は、リズセム殿下のご要請でこちらにいらっしゃったのでしょう?」
「え?はい、まあ」
要請というか、そそのかされたというか。
「それなら、大丈夫ですよ。私の知る殿下であれば、ルナセオ様が帰ってこられるように、なんらかの手段を講じておられるはずです。帰り道について何もお聞きになっておられないなら、きっとお迎えを用意されていらっしゃるのではないでしょうか」
ルナセオは、アルカナ夫人のその言葉には素直にうなずけなかった。あのリズセム殿下のことだ、ルナセオがひとりで帰ってこなければそれまでだとあっさり切り捨てるに違いない。ラディ王子が苦言を呈してくれたら話は別だが。
しかし、結果として、彼女は間違っていなかった。ここへ来て何日か経ったある日、庭で筋トレをしながら、隣でギャースカとローアの小言を聞いていたルナセオの元へラファがやってきて、面白がるように一枚の紙をひらひら振った。
「おい、ルナセオ。お前、指名手配犯になってるぜ」
「はあ?」
差し出された紙はどうやら報告書のようだった。どこかで風にでもあおられたのか、あちこちふやけている紙には、黄土色の髪に瞳の少年がシェイルで悪事を起こしてファナティライストに逃げ込んでおり、身柄を引き取るためにシェイル騎士団の使いが来ていると書かれており、その真偽をラファに確認しようとしているらしい。
わきから一緒に紙をのぞきこんでいたローアが、ぎょっとした様子で叫んだ。
「シェイルで十五人殺害した殺人鬼…!?アンタ、こんな極悪非道のヤツだったの!やっぱり巫子って悪いやつだったんじゃない!!」
「うわ、耳元で大声出すのやめろよ。そんなわけないだろ」
報告書にはルナセオがいかに恐ろしい悪事をはたらいたのかが事細かに書かれていたが、事実無根もいいところだ。どういうことなのかとラファを見やると、瑠璃色のうつくしい瞳を細めて彼はニヤニヤ笑った。
「お待ちかねのシェイルからの迎えだろ。ま、確かにシェイルの罪人を引き渡せって言えば、お前が拘束されてたとしても、神都としてはお前を引き渡さざるを得ないからな。乱暴なやり方だけど」
「いや、それにしたって俺を悪党に書きすぎじゃない?なんだよ殺人鬼って。シェイルの森で民間人を生贄に儀式をしてたって、そんなことしてなんになるんだよ」
しかし、どこかで聞いたような話だ。まじまじと報告書を眺めながら、ルナセオは首をかしげた。
「そもそもこれ、俺の話じゃないよ。これ、そうだよ、セーナが言ってたんだ。あのレナとかいう女が、シェイルで街の人を生贄にして、怪しい儀式をしてたって」
報告書をつまんでいたラファの指先がぴくりと動いた。
「そういえばあいつも、ラファさんと同じ高等祭司なんだろ?」
「高等祭司?あの泥人形が?」
その声音がひどく冷たくて平坦で、ルナセオもローアもびっくりしてラファを見た。彼は嘲るように喉の奥で短く笑うと、報告書をたたんで懐に入れた。
「一部の連中が祭り上げてるだけだ。あんな死に損ない、陛下が叙任なさるわけがない」
レナが高等祭司じゃない?ルナセオは眉根を寄せた。だとしたらなぜ、彼女はラファと同じ黒い衣装を身にまとっていたのだろう。
ラファはあいにくルナセオの疑問には答えてくれなかった。
「とにかく、シェイルからの迎えが神殿に向かってるらしいから、俺たちも向かおう。この屋敷の奥に、神殿直通の転移陣があるから、それを使わせてもらおうぜ」
「あ、ちょっと」
呼び止めたが、ラファはクレッセを連れてくるとかなんとか言って、さっさとひとりで屋敷に入っていってしまった。ルナセオは呆然とローアを振り返った。
「…どういうこと?」
「知らない」
ローアはつっけんどんに言った。
「レナって人は、なんかすごくいいところのお嬢様らしいわ。だから貴族会の推薦を受けて、ヒラの祭司をすっ飛ばしていきなり高等祭司になった…って先生はおっしゃってたけど。まさか世界王陛下の叙任を受けてないなんて知らなかったわ」
「高等祭司って世界王陛下が任命するの?」
「当たり前でしょ!アンタ、なんにも知らないのね!」
一言多いローアはフンと鼻を鳴らした。
「高等祭司は世界大会議の議席をもらえるくらいすごい役職だもの。当然陛下が叙任されるし、叙任式をしなきゃ地位を認めてもらえないの。すっごく偉いんだから!アンタ、パパが優しいからって、簡単にタメ口きいてんじゃないわよ」
「……」
パパねえ。ルナセオは思ったが、なにも言わずに肩をすくめた。
あの晩は気が付かなかったけれど、彼女は確かにずっと、ラファのことをそう呼んでいた。ルナセオはそれを深く追求するつもりはなかった。きっと、詳らかにしても、お互いにいいことはない。彼女は「敵」なんだから。
ローアは毎日足しげくこの屋敷を訪れていたが、トックはあれから一度も顔を出していない。憎むべき相手の輪郭がはっきりしていくのがどれだけ心をさいなむのか、彼には分かっているのだ。
◆
「ルナセオ様、どうぞお気をつけて」
見送りに来てくれたアルカナ夫人は、転移陣の前で優雅にちょこんとスカートの裾を上げた。
「なんのお構いもできずごめんなさい」
「そ、そんな!むしろものすごく世話になってしまってすみません」
慌ててペコペコと頭を下げると、アルカナ夫人はやわらかくほほえんだ。
「こちらは、夫が神殿に出仕するときに使っていた転移陣です。神殿内部に直接移動するので、本当はこちらも特別な許可がなければ使えないのですが、ラファさんがご一緒されるのであればとやかく言う方もいらっしゃらないでしょう」
「こういうときに権力って大事だよな」
ラファはにやりと笑った。
彼は、すやすやと寝息を立てるクレッセをおぶっていた。そういえば、昼間にクレッセが起きているところを見たことがない。初めて出会った頃といい、この少年と邂逅するときはいつも月がのぼっていたので、昼間に会うクレッセにはなんとなく違和感があった。
ミュウに誘導されながら、床に彫られた複雑な魔法陣のうえに乗る。ラトメでエルディが描いていたのもこんなかんじの文字と図形が入り混じった紋様だったな、まじまじ見下ろしていると、うしろからくっついてきたローアに、ラファが待ったをかけた。
「ローアはここまで」
「ええーっ!なんで!?」
甲高い声を上げて、ローアはルナセオの借り物のジャケットのすそをつかんだ。
「私も行く!」
「お前なあ、シェイルで大暴れしただろ。トックが言ってたぞ、騎士団長にケンカ売ったって」
「う」
ローアの顔が引きつった。ラファはため息をつきながら娘の頭をポンポン叩いた。
「無事だったからよかったけどさ。シェイル騎士団が来てるんだぜ?お前のほうが捕まっちゃうだろ」
「う、だ、だって、アイツ、先生のことを侮辱したんだもの…」
「騎士団長をアイツ呼ばわりしない」
頭を小突かれて、ローアはくちびるを尖らせながらもちょっぴり嬉しそうな顔になった。
「ま、とにかくお前はここで夫人の護衛を頼むよ」
「そのこまっしゃくれたガキはなんで置いてかないの?」
「クレッセは目を離したらこの屋敷を全部灰にしちまうから」
ラファは冗談めかして言ったが、実際に公爵家の扉を灰にしたときのラファの怒りようといったらなかったので、ルナセオもローアも納得した。
「…それに、お前はもう巫子には近づかないほうがいい。これからも特務部隊に残るつもりがあるならな」
その声は小さすぎて、すぐ隣にいたルナセオまでしか届いていなかった。ローアは目をしばたいたが、ラファはすぐに破顔して「なんでもねーよ」とカラカラ笑った。
転移魔法が発動して、視界が白に染まっても、ルナセオの胸中は苦いままだった。
◆
まばたきして目を開くと、そこは家具も何もない小部屋のようだった。一段高いところに転移陣が彫られていたらしく、ルナセオは段差に気づかずにたたらを踏んだ。
「うわっ」
ぐるりと視界が回って転ぶかと思った瞬間、ルナセオの肩が誰かに押さえられた。
「坊ちゃん、大丈夫かい?気をつけろよ」
見上げると、およそ神官とは思えない屈強な腕の男がルナセオを支えていた。頬に傷跡のある男は、にこりと人懐こい笑みを浮かべると、ルナセオをまっすぐ立たせてくれた。
「あ、どうも…」
「ルナセオ、大丈夫か?」
ラファはルナセオの顔をのぞきこんで怪我がないことを確認してから男を見上げた。
「なんでここに?」
「いつもの閣下のおつかいですよ。アルカナ夫人から転移陣の使用許可が来て、フォローしに行けってケツを蹴られちまって。見てくださいよラファ様ァ、閣下ったら容赦なく蹴り入れるんですから」
「むさくるしい男のケツなんて見たくねえよ」
ふたりはケラケラと笑って仲良く並んで歩き出した。誰だっけ?廊下に出る前に、顔の半分を傷跡ごと隠すような面布をつけている男の背中を見ながら、ルナセオは首をひねった。どこかで会ったことがあるような気もしたが、思い出せない。ファナティライストの知り合いなんてそういないはずなのだが。
男は、すっかり知り合い風を吹かせてルナセオを振り返った。
「坊ちゃん、エンザルフォン伯の手に落ちかけたんですって?間一髪でしたねえ、もし夫人に擦り傷ひとつでもついてたら巫子だろうがなんだろうが閣下に肉片にされるとこでしたよ」
「はあ」
遠慮のない言い回しに吐き気をこらえながら、ルナセオはあいまいに答えた。ていうか、本当に誰?
目を白黒させていると、見かねたラファが男の肩を叩きながら紹介してくれた。
「コイツは公爵閣下の部下。まあ、いろんなとこでいろんな名前を名乗ってるから、俺は〈聞き耳〉って呼んでる。耳が早いんだ、コイツ」
「やだなあラファ様、そんなに褒めなくても」
「別に褒めてない」
廊下に出るともうひとり見張りがいたが、その小柄な姿は面布をつけていてもすぐにわかった。彼はなにも言わずにラファに一礼した。
「お客人を執務室にお迎えすりゃいいんですよね?」
「ああ、マジで耳が早いな。よろしく頼むよ」
「いやー、ラファ様は閣下の数少ないマブダチですから、こんくらい!じゃ、行ってくるんで!」
あ、と声をかける間もなく、その少年は男と一緒に立ち去ってしまった。ルナセオを一瞥もせずに。
行こうぜ、とラファに促されて彼らとは反対方向に向かいながら、ルナセオはラファに尋ねた。
「アイツ、もうラファさんのとこで働いてるんですか?」
「まあ、試用期間って感じでな」
ファナティライスト神殿の廊下は、ぴかぴかの大理石の床が果てしなく続いていた。窓の外には、緑鮮やかな庭園が広がっている。柱の彫刻ひとつとっても、傷一つつけたらルナセオの首が飛びそうだ。
どうやら碁盤の目のように廊下が交差して繋がっているようで、何度か角を曲がっているうちに、ルナセオはもと来た道がわからなくなってきた。ずっと同じような柱が続いているので、目印になるようなものもない。
それからさらにいくつかの廊下を越えて、ラファはある一室に慣れた様子で入った。どうやらここがラファの執務室らしく、机の上に紙の束が積み上がっていた。
「仕事が溜まっててさ」
ラファは奥の続き部屋に入っていった。チラリと覗くと、暗い部屋には、赤色に塗りつぶされて落書きされた画用紙やクレヨンやらが散乱していた。クレッセをベッドに寝かせると、ラファは扉を閉めてニコリと笑った。かちりと部屋の鍵がかけられる音が、妙に耳に残った。
「そこ、茶葉とかあるから、勝手にお茶でも淹れていいぜ。俺、ちょっと仕事してるから、ゆっくりしてろよ」
お言葉に甘えて、備え付けの給湯セットを見ると、とても一般家庭では手に入らなさそうな銘柄の茶葉が並んでいた。せっかくなので、一度飲んでみたかった高級茶葉の缶を開ける。芳醇な香りがあたりに広がった。
「ラファさん、あのさ…」
ルナセオは、自動湯沸かし器のボタンを入れながら考えた。この男に聞きたいことはいくらでもある。彼自身のこと、クレッセのこと、「先生」やトックのこと、聖女のこと。
ティーポットの横に置かれた砂時計をそっと缶の影に隠して、お湯を注いでたっぷり三分考えてから、ルナセオは結局どれでもない質問をした。
「ラファさんって、どうして高等祭司になろうと思ったの?」
「悩みに悩んで聞くのがそれかよ」
ラファはこらえきれなさそうにクツクツと笑った。
「いろいろ理由はあるけど。公爵閣下に誘われたのもあるし、政治にも興味あったし。でも一番は」
ラファは書類の上に走らせていたペンを止めて、ふと背後の窓の外を振り返った。
「チルタの気持ちが知りたかったんだ。この席に座って、あの頃十七歳だったあいつはなにを考えてたんだろう、9番の力に押しつぶされそうになりながら、あいつには、どんな風に世界が見えてたんだろうって」
カップに注いだ、澄んだ飴色の水面から顔を上げて、ルナセオはラファを見た。彼はうつくしい宝石のような瑠璃色の瞳をこちらに向けて破顔した。
「ま、結局わかんなかったんだけどさ!なんだかんだ性に合って、今じゃそこそこいい地位にいるし」
「いやいや、高等祭司はそこそこの地位じゃないでしょ。神都の高官なんだから」
一応ラファの前にもカップを置いてやると、彼はひとくち茶を飲んで目をしばたいた。
「お前、お茶淹れるのうまいな。本当にルナの息子?」
「母さんの代わりにずっと料理作ってたんだからうまくもなるよ」
応接スペースのソファに座って、一杯でルナセオの数年分のバイト代が吹き飛ぶくらいの高級なお茶に舌鼓を打っていると、やがてラファがしみじみ言った。
「そっか」
彼は嬉しそうにもう一口飲んで、仕事に戻った。
「よかった。やっぱり俺は間違ってなかった」
その言葉の意味は、ルナセオにはわからなかった。間違っていなかったのは、高等祭司になったことなのか、それとも父を殺さなかったことなのか。
カリカリとペン先の擦れる音を聞きながら、ルナセオは勝手に茶菓子の箱を開けて、バターたっぷりのクッキーをかじった。そういえば、なにも言っていないのに、どうしてルナセオがあのふたりの息子だと分かったのだろう。
口を開きかけたところで、コンコンとノックの音が響いた。
「入れ」
顔を覗かせた〈聞き耳〉は、先ほどまでの朗らかな様子とは打って変わって、淡々とした口調で慇懃に言った。
「お客様をお連れしました」
「ありがとな。もう戻ってくれていいから」
小柄な少年も、〈聞き耳〉にならって一礼した。ルナセオは腰を浮かせかけたが、彼はついぞこちらを一瞥もせずに部屋を出ていった。
代わりに執務室に入ってきたのは、シェイルで会った一等騎士のひとりだった。確かローシスとかいう、人のよさそうな大柄な男だ。そのうしろに、見慣れないひょろりとした長身の男が付き従っている。
「悪いな。ちょっとこの書類仕上げなきゃいけないから、そこに座って待っててくれ」
ラファがペン先でこちらを示したところで、ローシスの陰からひょっこりともうひとり、大柄な体躯に隠れて見えなかった人物が首を伸ばしてこちらを見た。これまでの旅装束とは違う、黒いコートを身に纏った彼女の若草色の瞳がぱっと明るくなったところで、ルナセオは今度こそ立ち上がった。
「ネル!」
「…セオ!」




