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 室内は通夜のような雰囲気だったが、アルカナ夫人はほのぼのとテーブルにカップを並べていた。

「いま、ミュウさんにお湯の用意をしてもらっています。客間を準備したのですが、行き届かないところがあれば遠慮なく教えてくださいね」

「え?いや、そんなお世話になるわけには…あの、俺、帰りますから」

「帰るってどこによ」

アルカナ夫人のあとにくっついて茶菓子の皿を持ってきたローアが怪訝な顔をした。

「どこって、そりゃ…」


 そこまで言って、ルナセオは凍りついた。「先生」のもとに戻れば、またあの「躾」がはじまるだろう。何日も、何日も、終わらない悪夢のようなそれが脳裏をよぎって、ルナセオは反射的に首元に手をやった。

 ガチガチと震えだしたルナセオの前に影が落ちた。見上げると、クレッセが無表情で目の前に立っている。

「クレッセ…」

「伯爵さまがきみになにをしたかは、トックから聞いた」


 隣を見ると、ちょうどトックがルナセオから目を逸らすところだった。クレッセがポケットから何か取り出して、ルナセオに見せる…きらめくような紫色の砂を見た瞬間、ルナセオは勢いよく身を引いた。

「そ、それ、それ!どうしてクレッセが」

「僕はきみの味方じゃないから、君に下手な同情も、慰めも言わない」

あの日、あの牢屋で、ずっと傍らに置かれていたあの砂時計を冷えた目で見据えて、クレッセは淡々と言った。

「僕がきみに望むのは、ラトメで会ったときから変わってないよ。ネルとデクレを守って。こんなところで、権力の道具なんかにされて、役目をおろそかにされると困るんだよ」


 彼が右手で砂時計を握ると、ばきりと嫌な音を立てて、砂時計が粉々に砕け散った。うつくしく不気味な紫色の砂は、さらさらと絨毯に吸い込まれていく。

 ルナセオはその細い軌跡を見ていられなくてうつむいた。

「なんでだよ、そんなにネルたちが心配なら、俺に頼むことなんてないだろ。クレッセが手を汚す必要なんて」

「…ああ、そう。きみたちは、僕がなんの罪も犯してないから倒すのはおかしいって、そういう論理だったっけ?」


 クレッセを見上げると、彼はうっすらとほほえんでいた。片方の口端だけ引きつるように上がった奇妙な笑みに、ルナセオの背筋が粟立った。

「あのさあ、あの日、どうしてラトメで暴動が起きたと思う?」

「どうして、って」


 ルナセオは思わずラファを見た。ラファは表情をこわばらせて、ソファから腰を浮かせかけていた。

「おい、クレッセ」

「神護隊の男が、門番の首を掲げてたよね。でも実は、あの首を落としたのは彼じゃない。僕だよ」

クレッセがもう一度砂時計のガラス片を握ると、それは細かな灰になって砂の上に降り注いだ。クレッセは興味が失せた様子で席に戻ると、紅茶に口をつけた。

「僕たちを捕まえようとした門番を僕が殺して、それをごまかすために、ラファさんが幻術であの神護隊員に暗示をかけた。あいつが自分で仲間を殺したようにね。そしたら、あの男が暴走して、あの日の大暴動につながったんだ」

彼はなんてことないように言って、カップをソーサーに置くと首をかしげた。

「前の9番は何人殺したんだっけ?暴動で犠牲になった人数より多いかな。どう思う?」


 ルナセオは、どうにか彼の話を否定する言葉を探したが、声にならなかった。神護隊員の哄笑とともに死んでいった女性の姿と、行き場を失った赤ん坊の体温が思い出された。

 9番の力に呑み込まれたんだよなと、仕方なかったんだろと、そう問いたかったけれど、それでは済まない凄惨さを、ルナセオは知っている。


「でも、僕は後悔なんてしてないよ」

 クレッセはきっぱりと言った。

「僕がやったことで、結果的にネルが逃げ延びられたのなら、何人死のうがかまわない。それは9番なんて関係なく、僕自身がそう思うんだ」

彼は父とは違う。ルナセオははっきり感じとった。日記に残されていたかつての父は、9番の意志に支配されるのを恐れていたけれど、クレッセはそうじゃない。彼は本当に、世界が滅ぼうと、自分が自分でなくなろうと、それで望みが叶うならそれでいいのだ。


 彼をどうやって止めればいいのか、ルナセオにはわからなかった。クレッセの望みに対抗するには、本当にネルを聖女にするしかないのか……

(ああ、そっか)

今更ながら、リズセム殿下が「君はやるさ」と言っていた真意に気づいた。


 ルナセオには決められない。ルナセオはただネルが願うからクレッセを救おうとしているだけだ。今、自分が迷っているのは、彼を敵だとみなしてしまえば、幼なじみを優しい少年だと信じているネルの思いを無駄にしてしまうからだ。

 そして、たぶんネルなら…クレッセがこれ以上手を汚すのを防ぐためなら、自ら進んで聖女になるだろう。ルナセオにはきっと、それを止めることができない。


 なにも言えずに絶句していると、盛大にため息をつきながらラファがクレッセを小突いた。

「クレッセ、言いすぎ」

「だって」

「それに人様の家でこんな掃除しにくそうなモノをぶちまけて…あーあ、どうすんだよこれ。アルカナさん、すみません」

「まあ、どうぞお気になさらないでください。ちゃんと綺麗になりますから」

「いえ、ちゃんとコイツにやらせてください。ほら、クレッセも謝りなさい」

「…ごめんなさい」


 クレッセは不満げだったが、ラファに後頭部をつかまれて頭を下げさせられた。その姿は途端に見た目相応の子供に見えて、先ほどまでの不穏な空気が霧散した。

「また伯が襲撃に来ないとも限りませんから、今夜は俺が警護につきます」

「助かります、ラファさん。夫には私から伝えておきますから」

「えええっ、ちょっと、巫子とひとつ屋根の下なんて、正気!?」


 ローアが声を張り上げて、ルナセオの肩を容赦なく揺らした。

「だいいち、コイツ、アルカナ夫人を攫いにきたのよ!?安心して泊められるわけないじゃない!」

「ローア、先生のやることに間違いはないから、公爵夫人は悪いヤツなんだって言ってたのに」

「うるさいわねえ!」

ローアはぼそりとつっこんだトックの脳天に拳を叩きこんだ。

「そ、そりゃ、先生だって人間なんだから、お間違いになることくらいあるに決まってるわ。きっとなにかちょっとした行き違いがあっただけよ。そうでしょ?」

トックはうめきながら「それを確かめに来たんじゃなかったの…」とぼやいたが、ローアは無視した。


「巫子様のお役目も、国家を揺るがすお話も、私には難しいことはわかりませんが」

 アルカナ夫人は、世界王が眺めていた窓のカーテンを引きながら穏やかに言った。

「長らく高貴なるお方の妻をやっておりますから、本当に自分に仇なそうという方は、見ればだいたい分かるのですよ」

貴族夫人というのはこうも肝が据わっているものなのか、ルナセオが感心しかけたところで、アルカナ夫人はくるりと振り返ってお茶目に破顔した。

「なぁんて、それはさすがに言いすぎました!もしも巫子様にまだ私を害すお気持ちがあるなら、とっくに我が家の守護魔法が発動しております。念のため、家の魔法陣をすべて起動しておきましたので!」

悪意ある方なら扉ひとつくぐれません、無邪気に言い放つアルカナ夫人に、ルナセオは一度吹き飛ばされた脚をさすりながら、貴族という人種の恐ろしさを垣間見た。



 それでも、アルカナ夫人は襲撃に来たルナセオ相手に、心を尽くして休む場所を用意してくれた。南向きの窓がついた、二階の日当たりのよさそうな客間だ。湯の張られた浴槽とともに、新品ではなくてごめんなさいと言い添えて差し出された服はなんと公爵閣下のものらしい。腰回りがややきつく、袖も股下も裾が余ってしまった。公爵閣下は不在らしいが、よほどスタイルのいい男性なのだろう。


 血みどろの貫頭衣を脱ぎ去ってひと心地つくと、ようやく人間に戻れたような気がする。室内は、なんだかほのかにアロマかなにかの良い香りがした。「先生」のもとでは、すえた匂いのする薄暗い倉庫に閉じ込められていたから、大きな窓から外の景色が見えるこの部屋は少し落ち着かなかった。

 …人間に、戻れたのだろうか。ルナセオはすでに傷跡ひとつない脇腹をさすった。窓の外から見える、平民街の点々と輝く灯りが、ルナセオにはもう一生手の届かない存在に見えてならなかった。レクセの朝の風景を見たときよりも、またひとつ分厚い膜を挟んでしまったかのようだ。


 ふかふかのベッドがひどく分不相応に感じてしまって、ルナセオは窓際の椅子に座って、ひとつひとつ、旅の思い出を振り返った。この数日で同じことを繰り返していたから、もう慣れたものだ。これまでに出会った顔を順番に思い描いて、グレーシャの言葉を反芻する。ずっと友達だからな、だからちゃんと帰ってこいよ。


「グレーシャ、俺、もう帰れないかもしれないよ」

 ルナセオはぽつりとつぶやいた。


 たとえばこれが、立派な勇者のお話だったなら、きっと主人公は辛い経験を乗り越えてなお、ひたむきに正義を追い続けられるのだろう。

 だけどルナセオは、復讐に駆られてひとりで突っ走った挙句に、恐ろしい老人にすっかり心を折られてしまって、悪事に手を染めるところだった。クレッセの覚悟に対抗する手立てなんかないし、彼のやったことを、ネルたちに打ち明ける勇気もない。

 学生だった頃は、人付き合いも勉強もそれなりにうまくやれていたのに、旅に出てからはなにひとつうまくいかない。自分の至らなさを痛感してばかりだ。


 こんな自分は、あのまっすぐな親友のもとに、胸を張って帰れない……どろどろと暗い沼にはまりかけたそのとき、窓にこつんと何かが当たる音がした。


 風だろうか?夜空を見上げると、もう一度こつんと聞こえて、窓枠を小石が転がり落ちていくのが見えた。窓を開けて身を乗り出すと、庭にいる小柄な少年と目が合った。巫子狩りの黒いマントが、涼しい風に揺れていた。

 少年はなにも言わなかったけれど、彼の言わんとすることが分かって、ルナセオは部屋から飛び出して庭へと向かった。むせるような花の香りの中で、トックは同じ場所に立っていた。


 お互いにどう口火を切ればいいのか分からずに、ふたりはしばらく立ち尽くしていた。やがてトックが気まずそうに、近くのベンチに腰かけて、「座ったら?」と自分の隣を叩いた。

 ルナセオは、なんとなく彼と並んで座ってしまったら、これまで抱えてきた思いが壊れてしまうような気がして、彼の言うとおりにはできなかった。


「…あのさ」

 やがてルナセオは、からからに乾いた口を開いてたずねた。

「どうして…俺のこと、助けたんだ?」

そもそも自ら捕まりに行ったとはいえ、ルナセオを神都まで連行してきたのはほかでもないこの少年のはずだった。そもそも自分たちはお互いに復讐の相手で、トックにとってはルナセオを助ける義理なんてどこにもないはずだった。

「ぼ、僕、うまく言えないんだけど」

 トックはへにゃりと情けなく眉を垂らして難しい顔をした。

「先生が君を…その、拷問したとき、なんだかすごくモヤモヤしたんだ。ボロボロになってる君を見て、ざまあみろって思わなくちゃいけないのに、なんか…なんか、こんなのは違うって、そう思った」


 ルナセオの頬がかっと熱くなった。あの時のルナセオは、よりにもよって仇であるこの少年に無我夢中ですがりついてしまった。ラゼを殺した、忌むべき相手なのに。

 トックは、たぶん人前で話すのが得意なタイプじゃないんだろう。ずっと視線があちこちさまよっていたし、我が身をかばうように、手を胸の前でこねくり回していた。

「僕、巫子は悪いやつで、絶対捕まえなきゃいけないって習ってて、巫子は生まれつきのものじゃないってことも知らなかったし、神都の外では巫子のおとぎ話がまるっきり違うってことも、昨日はじめて聞いたくらいで…

 もしかしたら、僕たちはぜんぜん正義じゃないのかもしれない。僕が君に感じるこの気持ちは、見当違いで、間違ってるのかも」


 そこで一度、トックは言葉を切った。庭のうつくしい花々が、夜風にざわざわと揺れていた。

「だけどさ…そんなのはもう、関係ないよね」

彼はマントの裏から、魔弾銃を取り出した。父がメルセナに渡した小型のものとは違う、トックの腕の長さはある銃身を撫でて、トックは言った。

「正しいか間違ってるかなんてどうでもよくて、やっぱり僕は君を倒さなきゃいけないと思う。それは僕の手でやらなきゃいけないことで、それは先生の手元で弱った君をどうこうするんじゃ、意味がないんだ」


 彼ははたと気づいたように顔を上げて、「ごめん、なんか、理由の説明になってないよね」とハタハタ両手を振った。

「いや、わかるよ」

ルナセオは首を横に振った。

「ノコノコこんなところに来て、『先生』にあっさりやられて馬鹿みたいだけど、たぶん俺は、あんなヤバイ人がいるって分かってても、ここに来たと思う。黙ってお前を見逃すなんて、とてもできないから」


 良識ある大人が見れば、馬鹿馬鹿しい思考回路だと分かっている。そもそも復讐なんてやめろと、メルセナ姉さんに説教されてしまうかも。ネルは悲しい顔をするかもしれない。それでも、そう簡単に諦められる話なら、ルナセオはいまこの場にはいない。


 そしてその思いを一番わかってくれるのは──不思議な話だけれど──同じように鬱屈した気持ちを抱えている、目の前のこの少年に違いない。


 彼もきっと同じ思いなのだろう、トックはルナセオを見てはにかんだ。

「僕、学校を卒業したら、ラファ高等祭司さまのところに行く。それで、クレッセくんのことを手伝うよ。この世から聖女の信仰をなくす」

ルナセオの心臓がどくりと鳴った。

「そうすればきっと僕たち、戦ってもいい理由ができるよね」


 たとえば、彼がファナティライストではなくレクセの学園にいたら、あるいはルナセオが神官学校の学生だったら…出会う場所が違えば、自分は彼ととても気の合う友人になれたんじゃないか。ルナセオは、肩を並べて笑い合うふたりを想像して、ぞっとした。まったく意味のない仮定だ。

 たぶん、トックは悪いやつじゃない。ローアやトックを見ていると、巫子狩りという得体の知れない敵の姿に血肉が通って鮮明になっていく。それがなんだか、ひどくたまらなかった。


 自分の復讐が間違っていないと許してくれるのが、ほかでもない復讐の相手だなんて、こんな滑稽な話はない。ルナセオは自虐的に笑った。


「そうだな」

 これ以上話していると、気持ちが挫けてしまいそうになって、ルナセオはきびすを返した。

「ハンカチは洗って返すよ」

「いらない。君に渡したものなんて、もう持っていたくないから」


 一陣の風が、ふたりの間を駆け抜けた。

 もう二度と、トックは自分を助けないし、自分もトックに助けを求めたりはしないだろう。それがお互いの心をどれだけ傷つけるのか、もう分かってしまったから。


 それでも…

 部屋に戻ったルナセオは、泥と血で汚れたトックのハンカチを、捨てることも洗うこともできずに、そのまま綺麗にたたみ直して、ポケットにしまいこんだ。

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