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この世界で「陛下」と呼ばれる人物はひとりしかいない。腹の痛みも忘れてルナセオは思わず背筋を伸ばした。
「せ、世界王陛下が、ここに?」
まさか、公爵夫人を害そうとしたことに気づいて、陛下自ら現れたということだろうか。命の危険を感じて首元をさすっていると、アルカナ夫人はやさしく首を振った。
「大丈夫ですよ。陛下は、伯があなたを害そうとしたことを知って、こちらにいらっしゃったのです」
「お、俺を?」
あなたではなく?と、つい問いかけそうになって口をつぐんだが、その思いは伝わったらしく、ラファがからからと笑った。
「巫子が絡んだら、さすがの陛下も他人事じゃいられなかったってことだ。ま、お前にとってはよかったんじゃないか?陛下に会いにきたんだろ?」
彼が懐から取り出したのは、地下牢の便器の裏に隠したはずの、リズセム殿下から預かった手紙だった。
「そ、それ、なんで!」
「透明化の呪文を解くのに骨が折れたぜ。トックが見つけなきゃ、たぶん誰も気づかなかっただろうな」
トック!隣を見ると、その小柄な巫子狩りはばつが悪そうに視線を逸らした。
ラファはあっさりと手紙を返してくれた。封が開いているので、きっと誰かが中身を見たのだろう。これはリズセム殿下にケツの毛までむしられる案件だろうか。ルナセオの背筋がゾワゾワした。
「巫子様、どうぞこちらを」
アルカナ夫人が縮こまるルナセオの前に膝をついて、ルナセオの足元にやわらかそうなスリッパを置いてくれた。
「申し訳ありません、きちんとしたお着替えや靴をご用意できればいいのですが、あいにく陛下をお待たせするわけにはいかなくて。のちほど準備するので、それまではこちらで我慢してくださいね」
「い、い、いや!おかまいなく!!」
なぜ俺は、襲いにきた相手に世話を焼かれているのか…遠い目になりながら、ルナセオは無事だった左の靴も脱いで、ありがたくスリッパに足を通した。大貴族の家では、スリッパひとつですら夢心地になるほど肌触りがよかった。
「アルカナ様、わたくしの仕事を奪わないでください」
公爵夫人の手を制して、召使の老女がルナセオの脱いだ靴をさっと回収した。
「あと、公爵夫人ともあろう方が、簡単に膝をおつきになりませんよう」
「あら、赤の巫子様は王族よりも尊いお方と習いましたよ。だいいち、お怪我をされている方の前で貴賤なんて関係ないとは思いませんか?」
ナシャ王妃といいアルカナ夫人といい、高貴な女性というものはみんなこんなにおおらかなものなのだろうか。アルカナ夫人は親しげにルナセオにほほえみかけると立ち上がった。
「ふだんお客様なんてお迎えしないから、ついはしゃいでしまいました。参りましょうか」
老女の先導で廊下を進んでいく。立ち並ぶ窓からは、庭の緑がよく見えた。襲撃に来たときは気が付かなかったが、ずいぶんと花の多い庭だ。
「こちらです」
老女がある扉の前で立ち止まった。アルカナ夫人が「ミュウさん、ありがとう」とねぎらうと、扉の取っ手に手をかけた。
「緊張なさらなくても、大丈夫ですよ。陛下はお優しい方ですから」
「それは本当」
ラファがぱちりと片目をつぶった。
「でも、失礼のないようにな。陛下のお話をさえぎったりするなよ」
後半はローアに向けた台詞らしく、視線がルナセオの背後の少女に飛んだ。彼女はぶすくれた顔をした。
室内に入ったときに、甘い花の香りを感じた。シャンデリアの明かりに照らされる室内は、当然のことながらルナセオの家なんて比べ物にならないほど、広くて仕立てのよい家具が置かれている。ここでもあちこちに花が飾られているのは、アルカナ夫人の趣味だろうか。
部屋のいちばん奥、柳色のカーテンのかかった、ルナセオの背丈の二倍はありそうな高さの窓際に、ひとりの男性が腰掛けていた。マホガニー製の華奢な椅子に座って、こちらには背を向けている。アルカナ夫人が膝を折って優雅に一礼した。カーテシーとかいうやつだ。
「陛下、お客様をお連れしました」
「ありがとう、アルカナ」
カタリとほんのかすかな音がしてはじめて、男性が茶を飲んでいたことに気づいた。彼は薄い陶器のティーカップをテーブルに置いて、こちらを振り返った。
モスグリーンの長い髪をゆるくひとつにくくった男だ。うかべているほほえみは柔和なのに、髪と同じ色をした眼差しはどこか硬質で、ビリビリと頭の奥が警告を上げるようだった。彼を前にしただけで、五体投地してひれ伏したい衝動に駆られた。
彼はいかにも上流階級らしい、金の肩章がついた丈の長いコートを翻して立ち上がった。細身だが背が高く、少し歩いただけで彼の脚の長さが際立った。
陛下は窓際の椅子から、部屋の中央にあるソファーまで移動すると、指先までゆるやかな動きで空いた席を指し示した。
「みな、座って楽になさい。ミュウ、すまないが、新しい茶を入れておくれ」
老女は無言でお辞儀すると、音もなく応接間を去っていった。ラファにアルカナ夫人、それからクレッセは、陛下の言葉に従って着席したが、ルナセオ含む残りの三人はピクリとも動けなかった。
世界王・シェーロラスディ陛下は、うっすらと笑みを深めた。
「怪我が辛いだろうから、遠慮することはないよ。それに」
陛下の視線が横に滑っていき、トックが「ぴっ」と小鳥のような悲鳴を上げた。
「ワグルのところの子たちだね。君たちもお掛けなさい。アルカナ、ティーカップは足りるかな」
「お任せください、陛下。皆さまをお泊めする準備も整えられますわ」
「君はいつも頼もしいね」
くつくつと静かに笑う陛下の声は、聞いているだけで胸の内が高揚するようだった。こわごわと空いたソファに座ったところで、あの老女の召使が戻ってきて、お茶の準備をはじめた。
とてもこの汚い手では触れてはならなそうな白磁のティーカップが全員分並べられ、老女がふたたび音もなく部屋を出て行ったところで、陛下が口を開いた。
「自己紹介がまだだったね。私はシェーロラスディ。この神都を管理する仕事をしている。このたびは、我が神殿の者が迷惑をかけたようで申し訳なかった」
そう言うと、なんと陛下は自らルナセオに向けて頭を下げた。ルナセオは心臓が縮み上がって、手にしたままのハンカチを取り落としそうになった。
「い、い、いや、そんな、そんなことは!」
意図せず大きな声が出てしまって、ルナセオは口元を押さえた。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
きっと世界王陛下は、こんな風に緊張で挙動不審になっている人物など見慣れているのだろう。ルナセオの羞恥心など気にも留めないで話を続けた。
「私が奥に篭っているあいだに、あれはずいぶんと自分の力を過信するようになったらしい。よりにもよって巫子を兵器と同列に扱うとは」
陛下の口元はゆるく弧を描いていたが、目はまったく笑っていなかった。王族というのはこんなのばかりなのだろうか。ルナセオはひたすらに小さく身をすくめるほかなかった。
「神都にかけている結界が揺らいだから、巫子が来たことには気づいていた。聞くところによると、手紙を持っていたとか?」
「は、はい、これを」
封の開いた手紙をそのまま渡してよいものか逡巡したが、陛下は気にせずにアルカナ夫人を経由して手紙を受け取った。
「ああ、リズだね。彼は元気にしているかな」
「はい、まあ」
ルナセオの脳裏に、笑顔で鳥を絞めるリズセム殿下の姿がよぎった。
「『巷では陛下不調説が囁かれておりますが、ご健勝であれば、どうかこの手紙を持ってきた少年にありがたいお説教をお頼み申し上げます』…とのことだ。ふ、リズらしい」
陛下は丁寧に手紙をたたんで封筒にしまうと、鷹揚に両手を組んでソファの背もたれに体重をあずけた。
「しばらく表に出なかったせいで、旧友に心配をかけてしまったらしい。世界大会議には出られるから、彼とも顔を合わせられるだろう」
見る限り、陛下は特に体調を崩しているようには見えなかったが、やはりどこか悪いのだろうか。
こちらの疑問を汲んでくれたのか、陛下はわずかに首をかしげた。
「聖女の封印が解けた反動が想像よりも大きくてね。少し寝込んでしまっていたんだ。長らく風邪ひとつ引いてこなかったものだから参ってしまった」
ルナセオははっとした。
「聖女の封印のこと、ご存知だったんですか」
「私には優秀な《鳥》がついているからね」
陛下はおもむろにアルカナ夫人に向けてほほえみかけた。
「それに、レフィルの手中に聖女も9番も与えるなと指示を出したのはこの私だ」
「…あなたが、いや、陛下が?」
ネルは、あの暴動の日、神護隊長のレインに連れられて神宿塔に行ったと言っていた。それで、レインがトレイズに頼んだのだ、ネルを一緒に連れて行ってほしいと。
「じゃ、じゃあ、あの人は」
ラトメディアと神都ファナティライストは敵対する関係のはずだ。宗教の解釈が違うから、昔から小競り合いが絶えないのだと学校で習った。実際に、ラトメの人間であるトレイズは神都を毛嫌いしている様子だった。
トレイズは、自分の任を引き継いだ神護隊の長が、世界王の配下だとは知らないだろう。ルナセオは薄ら寒い気持ちになって腕をさすった。
「それで」
あの神護隊長の正体は明らかにせずに、陛下は話を変えた。
「君は私に会いに来たのだろう?“神の子”がいない今、所在が明らかな巫子は私しかいないからね」
「な」
思わずといった風に声を上げかけたローアの口を、トックが勢いよくふさいだ。
ルナセオは困った。この場にいる面々に、どこまで話してもよいのだろうか。クレッセやラファはともかく、トックやローアはルナセオとは明らかに敵対している相手だ。特にローアは巫子のことを悪い存在だと信じているみたいだったし、「先生」に心酔していた。いまここで話したことを、あのひとに伝えられたらどうなるだろう?
言い淀んだルナセオを見かねたのか、アルカナ夫人がティーポットを手に立ち上がった。
「長くなりそうですから、私は新しいお茶を淹れてまいります。失礼ですが、お嬢さん、お手伝いいただけますか?」
「え、わ、私?」
ローアはうろたえた。
「ちょ、ちょっと待って、私、ここに…」
「ローア、アルカナさんを手伝ってきなさい。ひとりじゃ大変だから」
ラファが口を挟むと、ローアはいかにもしぶしぶと立ち上がった。
「トック、アンタも手伝いなさいよ」
「ううん、僕、ここにいる」
シェイルで出会った時はあんなにおどおどしていた少年は、いやにきっぱりと言った。
「僕、このひとの話を聞かなきゃいけないと思うから」
手の中のハンカチはくしゃくしゃになっていた。恨んで、憎んで、絶対に仇を討たなければならないと思ったこの少年に、浅ましくも許しを乞うた自分が、今更ながら恥ずかしくなってきた。
ローアはすっかりふてくされた様子で「もう知らない!」と陛下の御前であることも忘れて出ていった。男性陣だけとなった応接間で、ふたたび陛下にたずねられた。
「さあ。これで気兼ねなくおしゃべりできるかな」
ルナセオはうつむいて、よれたハンカチのしわを指先で伸ばしながら口を開いた。
「あの、俺たち、なんとかクレッセを倒さずに済む方法がないかと思って」
クレッセの肩がぴくりと揺れて、ジャラジャラとつけた装身具のどこかが硬い音を立てた。
「巫子は、9番を倒さないといけないって言われてたけど、クレッセはネルの──聖女の封印を解いた子の──幼馴染だし、なんの罪も犯してないクレッセを殺すのはおかしいって思ったから。いつかクレッセが、世界を滅ぼそうと思うなら、それを止めようって。それで、陛下にお会いすれば知恵を貸してくれるんじゃないかってうちの母に言われて、神都を目指していたんです」
「なるほど」
陛下は端的に相槌を打った。「クレッセを止めるすべを知りたいと?」
「その、つもりだったんですけど」
ルナセオは言葉を選んだ。
「まずシェイルに向かって、王様、いや、リズセム殿下に会ったんです。そしたらなんか、話がおかしなことになってきて」
ネルはあの王様に懐いていたけれど、ルナセオからすればあのひとこそ「巫子を道具にする汚い大人」に見えた。
ただ、リズセム殿下が「先生」と大きく異なるのは、彼は自分の権勢のためではなく、あくまで巫子がもう現れない世界を実現するためにネルを担ぎ上げようとしていることだ。
「殿下は、この世界から巫子をなくすためには、レフィルってやつを倒して、聖女を封印しなきゃならないって言うんです。
殿下は、すべての赤い印をネルに集めて、ネルを新しい聖女にしたいみたいでした」
話しながらも、クレッセの頬が紅潮して、ぶるぶると手が震えているのが気になってしかたなかった。彼は怒りをおさえようと、自分の右手をきつく握りしめていた。
「あの…すみません、俺の話、まとまってなくてわかりづらいですよね」
「いいや?」
陛下は思案しながらひとくちお茶を飲むと、憤懣やるかたないクレッセをチラリと見た。
「ただね、私が知恵を貸さずとも、すでに答えは出ているのではないかな?」
「えっ?」
「リズは細かい説明を省いただけで、君たちがやろうとしている、『クレッセを救う』ための道を示しているにすぎないということだよ。ねえ、クレッセ?」
クレッセは無言のまま、その小さなくちびるを噛み締めていた。陛下の問いかけになにも言わないことにハラハラしていると、不意にトックがぽつりとつぶやいた。
「聖女…」
みなの視線を浴びて、トックは椅子の上でぴょんと飛び上がった。
「あ、あの、クレッセは、この世から聖女の物語を消すために、9番?の力を使うんだって言ってました」
「聖女の物語を、消すため?」
「求める結論は変わらないということだね。巫子をこの世から消すために、今ある世界の枠組みを壊したい。それがクレッセの命題で、そのために9番の力に飲みこまれてもかまわないというのがクレッセの覚悟だ」
その少年は怒りをそのままに琥珀の瞳をルナセオに向けた。部屋の明かりに照らされてゆらめくその虹彩が、燃え盛る炎のように見えた。
「9番の力に取り込まれたら、誰かを傷つけずにはいられないし、世界を滅ぼさずにはいられないって」
ルナセオは呆然とつぶやいた。父の筆跡で書き殴られたあの日記はなんど思い返しても父とは別人が書いたとしか思えないほど狂気に満ち満ちていた。だれもあんな風にはなりたくないものだと、ルナセオはそう信じていた。
「なんで…なんでそんなこと言うんだよ。クレッセが誰も傷つけないように助けたいって、ネルはずっとそればっかり…」
「なら、止めてみればいい」
クレッセは挑むように言い切った。
「僕は必ず、聖女様の存在をこの世から消し去るよ。そのためならどんな犠牲が出たってかまわない、それがネルとデクレ以外なら。
ネルを聖女になんてさせないように、僕は世界を滅ぼすんだ。そのために生贄が必要なら、僕がいくらでも用意してやる」
ルナセオの脳裏に、クレッセを思って泣いていたネルやマユキの顔が思い浮かんだ。あのふたりは、クレッセが望んで世界を滅ぼすとはちっとも思っていなかった。
「それは…でもそれは、そんなに犠牲が必要な話とは思えない。聖女を封印しようっていう目的が一緒なら、俺たち協力できるはず…」
「魔法がどういう原理で発動するか、君は知っているかい?」
唐突に陛下が話を振ってきた。
「信仰だ。それが“在る”と信じる力が、魔法を現実たらしめるんだよ。
聖女とはもはや生身の人間ではない。あれこそ5番の印を媒介にした魔法的な存在で、それを支えるのは、聖女が現在の世界を創設したと信じる、世界中の信仰なんだ。
クレッセがやろうとしているのは、その信仰を地に堕とし、聖女など信じる価値もない取るに足らないものだと民衆に知らしめる行為で、つまりそれは大きな犠牲を伴うんだよ。人々が困ったときに救いをもたらしてくれる聖女や巫子など存在しないと、世界中の人に示さなくてはならないということだからね。
それでは多くの人命にかかわるから、リズは別の手段を取ろうとしているんだよ。聖女はいる、ただし血塗られた歴史は否定して、真に思いやりがあって救世主に足る聖女を生み出して新たな信仰を作ろうという手段だ。…生贄になるのはその聖女の依代となるひとりだけ。命を奪うのではなく、永久の象徴として生き続けるという形でね。
だから結局、巫子の連鎖を終わらせたいなら二者択一なんだ。クレッセを止めたいなら、君たちはそのネルという少女を担ぎ上げるしかない」
「いや、だってそんな、二者択一ってことはないでしょ。他にもほら…ほら、たとえば!聖女が仲間を殺して巫子を作った悪いやつだって、みんなに知ってもらうとか!」
そこでようやく、陛下はこれまでの威厳のある相好を崩してくすくす笑った。
「かつてそれをやろうとしたのがまさにこの私で、それがここにいる彼のような、ファナティライスト神官学校特務学科のルーツだね。しかし、私が百年かけて草の根活動に勤しんだ結果が、ワグル・エンザルフォン伯のように特務学科を私物化し、巫子を捕らえて政治の武器とするような存在だ」
トックとルナセオは思わず顔を見合わせて、すぐにどちらともなく視線を逸らした。
「だいいち、聖女の封印はすでに解かれていて、我々もいつまでも9番の意思を抑えつづけていられるわけではない。だからこそ、巫子は選ばねばならないのだよ」
どくりと胸が嫌な音を立てた。彼らが9番の意思を抑えられなくなったとき、クレッセはどうなってしまうのだろう。
「…じゃあ、陛下やラファさんは、クレッセの味方なんですか?クレッセが9番の力を使ってもいいんですか?」
「いや?俺は大反対してるけど?」
ラファはあっけらかんと言った。
「俺や陛下は、こいつを幻術や結界術でがんじがらめにして、理性的に生きられる時間を少しでも引き伸ばしてるだけだ。本音を言や、俺はお前たちにクレッセを止めてほしいと思ってる。できれば、俺の力が続くうちに」
そう言うと、ラファはクレッセの細い手首に巻かれた腕輪を指先ではじいた。
「ネルもクレッセも、みんな救われて大団円のハッピーエンドなら最高なんだけどな。奇跡ってのは、そう起こったりしないんだ」
奇跡を起こしたかつての巫子は、さびしげに眉尻を下げて笑むと、クレッセの頭をガシガシ撫でた。億劫そうにその腕を退けようとするクレッセを眺めながら、陛下が続けた。
「私は為政者であるから、個人の感情で物事を決めてはならない。よって、クレッセにも、そして君にも肩入れはできない。期待を裏切ってしまって申し訳ないが」
陛下は手元のお茶を飲み干すと、ゆるやかな動きでソファから立ち上がった。
「だが、この世界に生きる人の子はすべからく我が子のようなものだ。…そういえば名前も聞いていなかったね」
「ルナセオ、です」
陛下は何度かゆっくりとまばたきをして、それからルナセオの額にそっと触れた。
「考えつづけなさい、ルナセオ。今度会う時には、君の答えを聞かせておくれ」
ちょうどアルカナ夫人が応接間の扉を開けて、きょとんと首を傾げた。
「まあ、陛下。お帰りですか?」
「ああ。また来るよ。くれぐれも身の回りには注意なさい」
陛下が去ったあとも、ルナセオはしばらく動けなかった。アルカナ夫人がそっと新しいティーカップにお茶を淹れてくれて、香り高い湯気がゆっくりとたちのぼった。
「お部屋とお着替えを用意しますね。どうか今日はごゆっくりお休みください」




