33
※戦闘描写あり
ローアは、一度こうと決めたら絶対に曲げない。そして、大概近くにいる人間が巻きこまれる。みんなそれを知っているので、彼女のそばにはあまり近づかない。必然的に、ローアのお守りはいつもどんくさくて気の弱いトックの役目になっていた。…不本意ながら。
公爵邸に行くと言って聞かないローアに引きずられて、先生に与えられた雑務を終えて解放されたトックは、貴族街に続く門へと向かっていた。空は茜色に染まっていて、じきに陽が落ちるだろう。
制服姿は目立つので、上から特務部隊の黒いマントを羽織っていた。日中は目を引くが、夜闇にまぎれるにはちょうど良い。万が一のためにマントの裏には魔弾銃も隠しておく。
「いいのかなあ、ラファ高等祭司さまは怒るんじゃないの?」
「フン、そんなこと言ったって無駄よ。もう決めたんだから」
トックは講堂のある雑木林のほうを振り返った。待ち合わせにやってこないトックに、クレッセはどう思うだろうか。後ろ髪引かれる思いだったが、彼に会うことを、ローアが強硬に拒否したのだ。
「アイツ、パパに気に入られてるからっていい気になってるのよ。先生が言ってたわ、パパはアイツを利用して一緒にいるだけだって。あんなヤツと馴れ合いたくないわ」
とのこと。
たぶん、クレッセが自分の従兄弟だと知ったら、ローアは発狂するんだろうな…トックは想像しただけで胃がキリキリしてきた。できれば、そんな日は一生来てほしくないものだ。
貴族街に続く門が見えてきたところで、ローアは「うげ」と濁った声を上げた。トックは目をしばたいた。
いつもであれば門番がいるはずなのに、格子状の門の前には誰も見張りがいなかった。その代わりに、どうやって登ったのか、門の上にその少年は腰かけていた。夕暮れに赤く染まる空を見上げている彼の黒い上着が、風にたなびいて穏やかに揺れている。その静謐な琥珀の瞳は、キラキラと特別な宝石のようにきらめいてこちらを見た。
「クレッセくん、どうしてここに?」
トックが尋ねると、彼はこてんと首を傾げた。
「ラファさんがメモを残してくれたんだ。公爵さまのおうちに行くんでしょ?」
クレッセは軽やかに門からとびおりた。身につけたたくさんの装身具がジャラジャラと音を立てた。
「まさか、ラファさんの娘まで引っ張り出してくるとは思わなかった」
「なによ!文句あるの!?」
ローアは自分の胸の下くらいまでしか背丈のない子ども相手にギャンギャンとわめきたてた。
「アンタ、やっぱりパパの前じゃ猫かぶってたのね!愛想のいい子どものフリなんかしちゃって!」
クレッセはローアのことばなどまったく意に介した様子もなくまるごと無視して、トックの前までやってきた。
「ラファさんには来るなって言われた。でも」
すると彼はトックの胸を軽く小突いて、いたずらっぽくニヤリとした。
「これから世界を滅ぼそうってやつが、いい子で大人しく待ってるわけないよね」
ペロリと舌を出してみせるその不遜さに、トックは不覚にも、隣のローアとの血のつながりを感じてしまった。
「でも、公爵さまのお屋敷がどこか、僕、知らないんだけど」
お貴族様の家に、わかりやすく看板など立っているわけがない。中には家紋の旗を掲げているところもなくはないが、そもそも王侯貴族の紋章などトックにはわからなかった。
するとローアが「アンタってホントなんにも知らないのね」と鼻で笑った。
「公爵家なら、平民街に近いところにあるはずよ」
「平民街?公爵なのに?」
この街は家の場所によってその身分がはっきりとわかる。神殿に近いほど位が高く、遠いほど低い。当然、トックの出身である貧民街は神殿からもっとも遠い場所にある。世界王の甥といえば王族なのだから、神殿の近くにそりゃあもうきらびやかな大豪邸がそびえていると思ったのに。
道がわかるのはローアだけなので、トックたちは彼女についていくしかなかった。さすが貴族街、ひとつひとつの邸宅は高い柵や塀で囲われていて、途方もなく広そうだ。この分だと、平民街の方面に着く頃にはすっかり日が暮れてしまうだろう。
青紫がまだらに広がる東の空を眺めていると、クレッセが袖を引いてきた。
「昨日、見つけたこれ」
彼はポケットから砂時計を取り出した。ローアがあっと声を上げた。
「ちょっと!それ先生のやつじゃない!盗んできたの!?」
「ラファさんに見てもらったけど、やっぱり魔術道具みたいだ」
クレッセはローアを無視した。相性が悪いんだろうな、このふたり。トックはハラハラした。
「相手に暗示をかける効果があるみたいだ。主に、体感時間を操るような」
「体感時間?」
「もちろん、実際に時間の進みを遅らせるような魔法じゃないから、子どもだましみたいなものらしいけど。砂が落ちていくのを異様に早く思わせたり、逆に一分一秒をすごく長く感じさせたり」
幻術のたぐいかな、ぽつりと言ったクレッセの台詞に、トックは震えを止めることができなかった。ローアがぎょっとしてトックを見た。
「なにそんな真っ青になってんのよ?」
「…先生は、僕らが着替えを取りに行ってるあいだに、あいつを屈服させちゃったんだ」
最初はあんなにふてぶてしかったのに、戻ってきたときのあの巫子は、血みどろの地下牢の中で萎れたように縮こまっていた。むせび泣きながら許しを乞うていた彼は、ものすごく長い間、拷問を受け続けたひとのようだった。
僕らにとってのほんの一辰刻にも満たないあの時間は、あいつにとっての何日くらいだったのだろう。
なんだか、暖かいはずの風がひどく冷たく感じて、トックはマントを自身に強く巻き付けた。
◆
いくつもの坂を抜けて、ローアの案内にしたがってやってきたのは、貴族街の中ではずいぶんこぢんまりとした屋敷だった。通りを挟んだ反対側に平民街との境目の塀があり、さらにその向こうには宿でもあるのか、にぎやかな声が聞こえてきた。
「えっと…本当にここなの?ローア」
「私の案内を疑うわけ!?」
ローアはいきり立ったが、すぐに自信なさげに視線をさまよわせた。
「ま、まあ、私も場所を知ってただけで、実際に来るのは初めてだけど…」
これまでに通り過ぎてきた屋敷の中ではずいぶんと慎ましい庭のむこうに、青い屋根の邸宅が見えた。絵本にでも出てきそうな二階建てのかわいらしい建物の周りは、色とりどりの花に囲まれていた。
「公爵さまの家にしては、なんというか…」
「おとぎ話みたいで素敵じゃない」
「そうなんだけど、公爵さまって、世界王陛下の腹心の部下なんでしょ?ここ、そんなすごい人の家なの?」
それともこれは公爵夫人の趣味なのだろうか。まだ見ぬ夫人のイメージがとたんに可憐なお姫様のような姿で想像された。
入り口で立ち呆けていると、クレッセがはっとしてトックとローアの背を押した。
「ちょっと、なに…」
「しっ」
ローアの非難を鋭い一声で制して、クレッセは庭の茂みの中にトックたちともども飛びこんだ。それにしても、この屋敷には見張りのひとりもいないのだろうか。いともたやすく庭に入りこめてしまった。
様子をうかがうと、その警備の薄い庭に、ひとつの影が入りこんできた…あの巫子だ。
彼はどこか夢なかばのようにぼーっとした暗いまなざしで屋敷を見上げた。その首にはまった金色の首輪が、月明かりに照らされて鈍く光った。その手には、無骨なナイフが握られていた。
巫子は、ひとつ深呼吸すると、一歩前に出た。その途端、パン、と乾いた音と共に、彼の足元が光った。
「!?」
トックは思わず腰を浮かしかけた。巫子はたたらを踏んで尻餅をついた…その右の足首が消えたかと思うと、瞬きするあいだに靴の脱げたまっさらな足が、焼けこげた貫頭衣の裾からのぞいていた。
「落ち着いて。屋敷の防護魔法みたいだ」
クレッセに小声でなだめられて、トックは息を吐き出した。なんでほっとしてるんだ、あいつが無事だったって、別に僕が安心するような話ではないのに。
巫子が立ち上がったところで、入り口の扉が開いた。中から現れた、祭司服の男を見て、巫子ははっと息を呑んだ。
「グレ……ラファさん」
「よお」
ラファ高等祭司は友達を相手するみたいに気軽に片手を挙げた。それから爆ぜた巫子の足元を見て、手にした細身の長いメイスで肩をとんとん叩いた。
「気をつけたほうがいいぜ。ここ、侵入者用のえげつない魔法がわんさか仕掛けられてるんだ。いくら不老不死だっつったって、痛いモンは痛いんだからさ」
それから、少し思案するように視線をさまよわせて、
「それとも、エンザルフォン伯には、麻痺するほど痛めつけられたってことか」
巫子の背中が、びくりと大きく震えた。彼はうなだれてナイフを身に寄せた。
「どうして、ラファさんがここに」
「ま、俺もエンザルフォン伯とは今はことを構えたくはなくってね。できれば今回はなるべく首を突っ込みたくなかったんだけどさ」
くるりとメイスを一振りして、ラファ高等祭司はその先を巫子に向けた。
「お前は俺がかつて守った未来の一端なんだ。そいつが汚い大人たちの道具にさせられてるのに、俺もちょっと腹が立ってるんだ」
ラファ高等祭司のことばの意図は、トックにはわからなかった。けれど、ここから見える巫子の暗い横顔が、一瞬だけひどく途方に暮れたように見えた。
「…やめてください。俺は、やみくもに突っ走ってバカやっただけだ」
感情を押し殺した声に、ラファ高等祭司は一瞬虚をつかれたような顔をして、それから朗らかにほほえんだ。
「なら、それを正してやるのも俺たち大人の役目だ」
途端、巫子は苦悶の声を上げて首元に触れた。トックはドキリとした。
「隷属の首輪…」
あれをはめた人物に、彼は決して逆らうことはできない。細かい仕組みは知らないが、主人の意に反したことをすれば、あの首輪がそれを阻むはずだ。あの首輪がある以上、巫子は先生の命令を遂行するしかない。
巫子はナイフを構えて、ラファ高等祭司に突撃していった。武器と武器が何度も交差して、高い音を上げる。その緊張感が肌を刺すようだった。
ガン、鈍い音を立てて、ラファ高等祭司の鉄製のメイスが真っ二つに折れた。ラファ高等祭司はヒュウと口笛を吹いた。
「さすが4番!巫子の力を使われるとかなわねえや」
「…!」
巫子の黄土色の瞳が、痛みをこらえるようにゆがんだが、彼はそのままぐるんと身体を回して追撃した。すんでのところで避けたラファ高等祭司の頬に、赤い線が走った。
「ちょっと、どうすんのよ!」
ローアがぐいぐいと腕を引いてくる。どうすると言われても、首輪は主人にしか外せない。せいぜい彼の身動きが取れないように拘束するか、どうにかして意識を失わせるくらいしかやりようがないが…
「僕がやる」
クレッセが腰を上げた。
「あの首輪を壊すから、魔弾銃でルナセオの動きを止めてほしい」
「で、でも、あの首輪は先生にしか外せなくて…」
「僕を誰だと思ってるの?」
クレッセは右の手袋を外した。真っ赤に染まった小さな右手が、茂みに咲いた石楠花に触れると、しゅるしゅると萎れてたちまち黒い灰になった。
「あんなチャチな首輪くらい、簡単に壊せるよ」
「う…」
マントに隠した銃に弾をこめながら、トックはなおも往生際悪くあがいた。
「だけど、もし僕の撃った弾が、ラファ高等祭司さまに当たっちゃったら…」
「グダグダうるっさいわねぇ!いいからやんなさいよ!」
思いきりローアにはたかれて、トックは前のめりになった。
「アンタ、射撃の腕は悪くないんだから!パパには避けてもらえばいいのよ」
「そんな無茶な…」
おろおろ両隣を見たが、ふたりはすでに覚悟が決まっているようだった。
──やるしかないのか。
トックはひとつ深呼吸して、銃口を巫子の背中に向けた。照準器からのぞく彼の背中は、あんなに恐れていたのが不思議なくらいに、巨大でも筋肉隆々でもない、線の細い少年のものだ。
ローアが勢いよく立ち上がって叫んだ。
「パパ!避けてー!」
「!」
娘の声が届いたのか、ラファ高等祭司は反射的に数歩下がった。巫子もびっくりした様子で、ひとつまばたきして黄土色の瞳をこちらに向けて振り返る瞬間……、
目が合った。
ドン!!!
◆
けたたましい銃声と同時に、身体が大きく後ろに傾いだ。脇腹のあたりがひどく熱くなったかと思えば、こみあげる吐き気とともに口から勢いよく血がこぼれ出た。
そのままあおむけに倒れこんだところで、茂みから飛び出してきた黒い小さな影が、容赦なくルナセオの上に乗り上げてきた。真っ赤な手にはまった銀の装身具がジャラジャラと音を立てて、首を絞められるかと目を閉じた瞬間、感じたのはそよ風のようなあたたかい熱だった。
恐る恐る目を開くと、視界の端を黒い灰のようなものがかすめて飛んでいった。そのむこうには、琥珀色の目をした小さな少年が、月明かりを背にルナセオから手を離すところだった。
「……クレッセ?」
問いかけると、彼は穏やかな笑みを浮かべた。得意げに、茂みのほうを振り返って言う。
「ほらね、うまくいったでしょ?」
銃を撃ったあの小柄な巫子狩りは、その場に座りこんで荒い息をついた。
「は、は、外したらどうしようかと思った…!」
「ほんっとアンタって小心者なんだから!」
ローアといっただろうか、少女の巫子狩りが呆れたように彼の脛を蹴った。ぽかんとその様子を見つめていたルナセオに、クレッセは小首を傾げて問うてきた。
「大丈夫?」
「…ものすごく痛い」
どうやらルナセオは、あの巫子狩り──トックに、腹を撃たれたらしい。足元が爆発したときはすぐに治ったのに、脇腹からはぜんぜん血が止まらなかった。しかし、この二日間頭の中をめぐっていた薄暗い霧のようなものがすっと晴れて、まわりがよく見えるようになっていた。なんだかひどく、悪い夢から覚めたみたいに。
クレッセは自身の黒い上着をビリビリ破って、ルナセオの腹に巻きながら顔を上げた。
「ラファさん、あんな体たらくでどうやってルナセオを止めるつもりだったの?ラファさんが頑張ってくれたらルナセオだって痛い思いすることもなかったのに」
「あのなあ」
ラファはガシガシと頭を掻いた。そのさまがなんだかトレイズとよく似ていた。
「俺は来るなって言ったのに。しかもローアまでついてきたのかよ」
「だって!あの先生が悪巧みなんてされるはずはないもの!私、どういうことか確かめなきゃって思って…」
頭上でやいのやいのとかしましいやりとりが続くなか、ルナセオは首元をさすった。あの窮屈だった首輪が外れていた。ずっと底冷えするような「先生」の声が頭の中で響いていたのに、それもいつの間にか聞こえない。
巫子の力を使え、仇なすものはすべて滅ぼせと、そう言われていたのに。
ぽろりと涙がこぼれて、ルナセオは自分で驚いた。永遠にも近いあの地下牢での時間を経て、心の中にある泉がぜんぶ搾り取られてカサカサになってしまったはずだった。なのに、つんと鼻の奥が詰まって、目からは次から次へと塩辛い水がこぼれて止まらなかった。
腹の止血を終えたクレッセの横から腕が伸びてきて、綺麗にたたまれたハンカチが差し出された。顔を上げると、無機質な双眸とかちあった。彼はなにも言わずに、ルナセオがハンカチを受け取るのを待っていた。
恐る恐るハンカチを手に取るその挙動を、少年はつぶさに観察していた。なにかを言わなければ、でもなにを言えばいいのかと口を開きかけたところで、屋敷の扉が小さく開いて、その思考が途切れた。
「あの…ラファさん、大丈夫でしょうか?」
しっとりと落ち着いた、女性の声だ。扉からひょっこりと顔を出したのは、淡く緑がかった金髪を結い上げた線の細い若い女性だった。
「アルカナさん、すみません、お騒がせして」
ラファが胸に手を当てて丁寧に礼をしたところで、ルナセオの背筋が粟立った。アルカナ公爵夫人、攫ってこいと、「先生」に指示された女性だ。
彼女は血濡れのルナセオを見てあっと声を上げると、深緑のスカートをつまんで駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?」
公爵夫人はルナセオの腹を見るなり、口元を押さえて扉を振り返った。
「大変!ミュウさん、はやく手当てをしないと」
「あ、あの、大丈夫です、おかまいなく」
いや、俺はなんだって誘拐しようとした女性に気を遣われているのだろう、片手を挙げて制しながら、ルナセオは自問した。アルカナ夫人に声をかけられた、召使と思しき老女は、慇懃に頭を下げながらきびきびと言った。
「アルカナ様、あまりお近づきにならないよう。その者は貴女を害そうとやってきた者です」
「でも、エンザルフォン伯に従わされていたんでしょう?ひどい話よ。まだこんなにお若いのに」
ルナセオとはいくらも変わらない年頃にしか見えない女性は、しゃがみこんでルナセオと目線を合わせた。…顔立ちは全然似ていないのに、そのいたわるような視線が、どことなくネルを彷彿とさせた。
「安心してくださいね。これ以上、あなたを伯のいいようにはさせませんから。立てますか?」
「アルカナさん、お召し物が汚れます。俺がやりますから」
さっと間に割って入ったラファに助け起こされると、ずきりと脇腹が痛んだ。だが、血は無事止まったようだ。
老女はぐるりと一同を見回してから、うろんげにラファを見上げた。
「ご予定よりもお客様が多いようですが」
「あー、悪いね。想定外の事態が起きてさ」
老女は不満げに鼻を鳴らした。アルカナ夫人は「お客様の前ですよ」とやわらかくたしなめてから、自ら扉を開けて、ルナセオたちを迎え入れた。
「とにかく、どうぞお入りください。応接間で陛下がお待ちです」




