32
翌日は自由登校日だった。朝から先生のもとへ行くと、案の定先に来ていたローアがぷりぷり怒っていた。
「反省の色が足りないんじゃないの?先生、もっと強く言わなきゃダメよ」
「まあまあ」
先生はやさしい顔でトックにほほえみかけてきた。
「昨日はどうしたんだね?」
「あの…講堂の掃除が長引いちゃって…」
トックの言い訳に、先生はうんうんと頷いて、特に追及もしてこなかった。
こんなもんだよ、このひとの僕への興味は。
トックは内心でクレッセにそう語りかけた。インターンのあとから、先生は妙に僕を気にかけるようになって、雑用の呼び出しをされるようになったけれど、それまでのトックは先生にとって、歯牙にも掛けないいち生徒に過ぎなかった。
ルナセオを捕らえた今だから分かる。先生は巫子がほしかったから、少しでも巫子と関わったトックをそばに置いていただけ。ルナセオを手に入れた今、もうトックに利用価値なんて感じていないはずだった。その証拠に、先生はにこにこしてはいるものの、いつものようにトックの近況を聞いたり、気にかけてくれる様子もない。
トックはこわごわ先生に声をかけた。
「あの、先生…あいつ、あの巫子は、どうなりましたか?」
「君が気にすることではないよ。儂がちゃんと見ておくから、安心をし」
「……」
ほらね。頭の奥で、やけに冷めた声の自分がつぶやいた。
◆
とにもかくにも手がかりだ。研究室の掃除を言いつけると、先生はどこかへ去っていった。あとを付けたかったが、さすがにローアが隣にいてはそれも難しい。
先生が僕たちを残してここを空けるということは、この研究室にルナセオはいないのだろうか…本棚を整理しながら、奥へ続く扉からなにか音がしないかと耳をすませていると、まだ憤懣やるかたない表情のローアがトックを睨んできた。
「アンタ、本当はなんで昨日来なかったのよ」
「だから、講堂の掃除をしてたって…」
「ウソ!私、知ってるんだからね、アンタが講堂の掃除ほっぽってどこかに行ってたこと。私、アンタのこと呼びに行ったんだもの」
トックはぎょっとしてローアを見た。
「そ、それ、先生には」
「まだ言ってないけど」
それからローアは、トックの青ざめた顔を見て、やたらと気分がよさそうにせせら笑った。
「でも、どうしようかしら?私の口がすべっちゃったら。先生はどう思うのかなあ?」
あの思慮深そうなラファ高等祭司から、何がどうなってこの嗜虐的な女が生まれるのかと、トックは苦々しく思った。このファナティライストでは伝説の人だけれど、ラファ高等祭司には案外、子育ての才能はないのかもしれない。
「当ててあげる。アンタ、あの巫子の行方を追ってるんでしょ」
「!!」
ぎくりとした顔に、ローアは気づいたのだろう。彼女の笑みが深くなった。
「じゃあなおのこと、昨日は私と一緒に来たらよかったのに。講堂掃除なんて押し付けられてるからチャンスを逃すのよ」
「し、知ってるの?どうして?」
「教えてあげるわけないでしょ?昨日サボったアンタが悪いんだもん」
「ローア!ほ、ほら、明日食堂のごはん奢ってあげるから!」
「どうしよっかなあ」
ローアはなおもニヤニヤしているが、ぴくぴくと頬がふるえていた。もうひと押しだ。トックは一歩前へ出た。
「食堂のスペシャルパフェ、食べたがってたでしょ?それもつけるから!」
トックの懐は痛むが、背に腹は変えられない。ルナセオを助けたら、あいつに請求してやる。
短絡的で、基本的に目先のことしか見えていないローアには、トックがやろうとしていることが先生の意に背くことだという発想はないらしい。すっかりご満悦顔で教えてくれた。
「昨日ここに来たとき、ちょうど先生があいつに命令してたのよ。アルカナ夫人を連れてこいって」
アルカナ夫人!昨日の手紙にあった名前だ。
「アルカナ夫人ってだれ?」
「やだ、アンタ、知らないの?公爵夫人のアルカナ様のことよ」
ファナティライストの高位貴族の名前くらい覚えておきなさいよとローアは言ったが、トックは聞いていなかった。
「ど、どうして先生が、公爵夫人を?」
「知らない。でも、お優しい先生がなんの理由もなく公爵夫人を害すわけないわ。きっとすごく悪いやつなのよ、そいつ」
ともすれば不敬罪で首を刎ねられそうなことをローアはのたまったが、そのことはいったんわきに置いて、トックはなおも尋ねた。
「それで…それっていつの話?」
「なんか公爵邸の警備の薄い日があるとかなんとか?確か今夜じゃなかったかしら?」
「今夜!じゃあ、今夜公爵邸に行けば、あいつに会える?」
「そうなんじゃない?公爵邸の場所なんて知らないけど」
トックは焦った。クレッセはいつ頃あの講堂に来るつもりだろう?すぐにでも彼に相談したかった。
本棚に本を敷き詰めて、トックは猛烈な勢いで研究室の掃除を始めた。ローアは戸惑った様子ではたきを握りしめた。
「ちょ、ちょっと、どうしちゃったのよ」
「急いで掃除を終わらせて、僕、行かなきゃ」
「どこに」
トックははたと気づいて、ローアを見上げた。
「ローア、ラファ高等祭司さまの執務室の場所わかる?」
◆
「…俺、表向きは無関係だって言ったよな?」
ラファ高等祭司はあきれながらも、突然押しかけてきたトックを無下にはしなかった。まあ座れよ、と応接ソファのほうを指してペンを置いた。
くっついてきたローアは、愕然とした様子で、トックとラファ高等祭司を交互に見やった。
「ちょっとちょっと、なんで?どうしてパパとトックが顔見知りなの?いつの間に?」
「まあちょっとな」
ラファ高等祭司はサイドテーブルに置かれたティーセットから手ずからお茶を淹れるとトックたちの前に置き、自身も向かいのソファに腰かけた。
「で、なんの用?あいつの居所が見つかった?」
「あの…クレッセは?」
ラファ高等祭司は肩をすくめた。
「あいつは今寝てる。昼間はあんまり体調がよくないんだ。俺の魔法は夜にならないと効果が薄くてさ」
トックははっとした。きっと、クレッセの言っていた、9番の意志を抑えるための魔法のことだろう。
とはいえ、トックもここまで来た以上、簡単に退くわけにもいかなかった。
「あの…ちょっとでもいいんです、クレッセと話せますか?あの巫子のこと、ローアが見たって言うんです。先生から命令を受けてるところ」
ラファ高等祭司はちらりとローアを見た。彼女は不満げに頬をふくらませて、トックを睨んでいる。
彼は首を横に振った。
「悪いけど、今は本当に無理なんだ」
トックが落胆しかけたところで、ラファ高等祭司は続けた。
「だから、俺が聞くよ。ローアが何を見たって?」
トックはローアから聞いた話を、すべてラファ高等祭司にも説明した。ローアは何度か口を挟みたそうにそわそわしていたが、トックを鬼気迫る様子に何か感じるものでもあったのか、めずらしく話の腰を折ったりはしなかった。
ラファ高等祭司は話を聞き終わると、小さくため息をついて娘を見た。
「ローア、これがどういうことなのか、分かっていたのか?」
「そんなの知らないわよ!」
ローアは憤慨した。
「先生のなさることに間違いはないもの。私が気にすることじゃないわ」
「ひとは誰でも間違うモンだよ」
ラファ高等祭司はキッパリと言った。
「お前の先生がやろうとしていることは世界王陛下への反逆だ。今の公爵閣下は世界王陛下の甥。奥方も陛下と親しい。陛下の近親者に手を出すのがどれほど命知らずなことなのか、エンザルフォン伯は忘れちまったらしい」
「そ、そんなの!先生はきっと何か深いお考えがあるのよ!あんなにお優しい先生が、私利私欲で誰かを傷つけるわけないわ」
ローアにとって、先生は聖人君子のような人に見えるらしい。彼女は疑うことを知らない、思い込みの激しい性格だし、入学してからずっと先生のお気に入りだった。あの人の優しい面しか見たことがないから、彼を盲信していられるのだ。
ラファ高等祭司はローアの説得を諦めたらしく、脚を組み替えてとっくに視線を移した。
「アルカナさんのところへは俺が行くよ。ちょうど聞きたいこともあったしな」
「聞きたいこと?」
「お前が見つけたっていう手紙な。公爵も王子もこの街にいないんだ。あれを書いたやつは、あの中じゃアルカナさんの手に渡る確率が一番高いと思ってたはずだ。何か知ってることはないかと思ってさ。手紙を貸してもらってもいいか?」
懐に入った手紙を差し出すと、ラファ高等祭司はトックの指先のあたりを掠るように手を伸ばした。封筒がラファ高等祭司の手に当たってカサカサと音を立てた。
彼にもやはり、手紙は透明に見えるらしい。ローアも怪訝そうにトックの手元を見ていた。どうやら、この手紙を目視できるのは今のところトックだけのようだった。
その透明な封筒を透かしたりひっくり返したりしながら、ラファ高等祭司は首を傾げた。
「ずいぶん見事な透明化の魔法だな。お前には見えてるんだろ?」
「は、はい。あの、本当に、みんなにはこれが見えてないんですか?」
トックは別に魔法に秀でているわけではないし、霊感だって持ち合わせていない。なぜトックだけが魔法のかかった透明な手紙を普通に見ることができるのか見当もつかなかった。
「触ることはできるけど、見えない。普通こういうのは多少向こうの景色がぼけたり歪んだりして見えるモンなんだけどな。ここまで高度な魔法を使えるとなると、やっぱシェイルの王族あたりから渡ったものかもな」
「王族!?なんでトックなんかが、王族の手紙を持ってるのよ」
ローアが叫んだが、ラファ高等祭司もトックも説明を放棄した。彼女にいちから説明するとまたややこしくなりそうだ。
「あの、ラファ高等祭司さま、僕も一緒に…」
「いや、公爵邸には俺ひとりで行く。もう卒業も近いんだし、エンザルフォン伯といざこざを起こしたくないだろ?」
ラファ高等祭司はローブの裏ポケットに手紙をしまうと、話はこれで終わりだとばかりに立ち上がった。
「まあ、任せておけって。俺、公爵閣下に仕込まれてるから。暗躍の類いは得意なんだ」
執務室を追い出されてしまったトックとローアは、先生の研究室への道を戻るほかなかった。ふたりとも会話もなく歩いていたが、やがて押し殺したような小声でローアが唸った。
「…アンタ、なに考えてんのよ」
「なにって、なにが?」
「裏でコソコソして!先生に逆らう気?」
トックはなんだかムカムカしてきて、ローアを振り返った。珍しく強気なトックのまなざしに、ローアは少しひるんだようだった。
「ローアこそ、先生と君のパパ、どっちの味方なんだよ」
「な、なによ。どういう意味?」
「みんな知ってるよ。先生がラファ高等祭司さまのこと、敵視してるって」
あれほど偉業をなしてきたラファ高等祭司について、先生の授業では名前すらいっぺんも挙がったことがない。そればかりか、世界王陛下の治世にすら、時折否定的なことがある。
あの人は本当はこんな学校の教師などではなく、神殿の高官になりたかったのだというのは校内では有名な話だった。いつまでも若々しく、才気にあふれていて、世界王にも目をかけられているラファ高等祭司をやっかんでいるのだと。
知らないのはただひとり、目の前のローアくらいだ。
「嘘よ!先生はパパのこと、立派な人だって言ってたもの」
「少し考えればわかるでしょ。公爵閣下はラファ高等祭司さまの後見についてる。さっきはなにも言ってなかったけど、公爵さまに喧嘩を売ったら、それはラファ高等祭司さまとも表立って敵対するってことだよ。そうなったらローアは、先生とラファ高等祭司さまのどっちにつくの?」
ローアは瞳を揺らして、悔しげにうつむいた。
「私は…私は、はやく学校を卒業して、パパの役に立ちたくて…」
本来、ラファ高等祭司の娘であれば、わざわざ特務学科に入らなくとも、普通科の椅子だって用意されたはずだった。性格はともかく、彼女は入学当初から座学は優秀だったし、神官学校の高倍率の入試だってきっとパスできたと思う。
彼女がそれでも特務学科を選んだのは、普通科よりも2年はやく卒業できて、しかも地方配属がないためだ。父親のそばで役に立ちたいというのが、ローアの口癖だった。
「パパの役に立ちたいなら、先生の言いなりじゃダメだよ。ラファ高等祭司さまにはいくらでも敵がいるんだから」
「……」
ローアは制服のスカートを握って、立ち尽くしていた。普段は弾丸のような彼女が泣きそうな顔をしているので、トックはにわかに後ろめたくなってきた。ちょっと言いすぎちゃったかな。
やがて、ローアは地を這うような声を出した。
「……わかったわよ」
トックはほっと息を吐いたが、そのあと続く言葉にすぐさま後悔した。
「そんなに言うなら、確かめてやるわよ!公爵邸に忍びこんで、先生の目的を探ってやるんだから!」
「…ええ?」




