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「待て、俺はこれ以上は無理だ」


 そう言って両手を挙げるラファ高等祭司に、トックとクレッセは足を止めて振り返った。

「どうして?」

「娘をエンザルフォン伯に預けてる身で、俺が表立ってあいつに楯突くわけにはいかないってこと。避難場所くらいにならなってやれるけど、俺が直接そのルナセオとやらを助けに行くのは無理」


 トックははっと息をのんだ。確かに、ローアが先生のもとにいる限り──彼女にその自覚があるかは置いておいて──ラファ高等祭司は、常に人質を取られているようなものだ。

「俺は表向きは無関係でいさせてくれ。あいつを助けたあと、エンザルフォン伯から遠ざける算段は立てておくから」

「わかった」

クレッセは少しばつが悪そうにうなずいた。「じゃあ、地下牢へは僕たちふたりで行こう。トック、案内してくれる?」

「う、うん」


 僕もあの巫子を助けるのに賛成したわけじゃないんだけどな、トックは内心で思ったが、口には出さなかった。クレッセのほうはすっかりトックのことも頭数に入れてしまっているようだ。


 ラファ高等祭司は「夜明けまでには帰れよ」と言い残して、颯爽と去っていった。この不思議な少年とふたりきりだ。なんとなく気詰まりな沈黙に、トックはおずおずと切り出した。

「えーと…クレッセ、くん?は、あの巫子と友達…ってわけじゃ、ないんだよね?」

「うん。僕は9番だし、どちらかといえば敵だね」

「それなのに、どうしてあいつを助けようと思うの?巫子が全員揃ったら、その…君は、こ、殺されちゃうんだよ、ね?」


 クレッセは非常にあどけない表情できょとんとした。こうして見ると、とても強大な力を持つ存在には見えない。

「ああ。…あはは」

クレッセは何事かに思い至ったかのように、軽く笑った。

「言ったでしょ?僕、天変地異を起こしたいわけでも、人類滅亡させたいわけでもないんだ」

「えっと?」

「こんな神殿前の人目につくところでする話でもないか。入ろうよ」


 慣れた足取りで神殿に入っていくクレッセを追いかける。彼が一歩踏み出すごとに、シャラシャラと装身具が涼やかな音を響かせた。


「巫子になってしばらくしてから、誰かが僕にささやきかけるんだ。聖女を殺せ、世界を滅ぼせって」

 突然そんなことを言い出すものだから、トックは慌てて周囲を見回した。幸いにして、人通りのない廊下は物音ひとつしなかった。

「たぶん、9番の意思みたいなものなんだと思う。ラファさんに助けられるまで、僕は暗い部屋で、日がな一日その声を聞き続けて、気が狂いそうになってた。…いや、もう狂ってたのかも。心配してくれた人に、ひどいこと言っちゃうくらい」


 クレッセは腕を上げて、何重にも巻かれた重そうな腕輪をかかげてみせた。

「9番はいずれ、その意思に呑み込まれて、世界を滅ぼすことしか考えられなくなるんだって。ラファさんの魔法と、陛下からもらったこの結界の魔術道具で、今は進行をおさえてるけど、いつかは誰の言葉も届かない、正真正銘の怪物になるんだ」

彼が説明しているのはほかでもない自分自身のことなのに、その口調はなぜだか遠い第三者の話をするかのように、他人事じみた軽い調子だった。

「だからね、僕が僕じゃなくなったとき、巫子たちにはちゃんと僕を止めてほしいんだ。9番を倒すには、ほかの巫子たちが揃わないといけない。だからルナセオにはこんなところで、いいように使われてる暇なんてないんだ」

「自分を倒させるために、敵を助けるの?」

トックはぎょっとして返した。「そんなの…そんなのおかしいよ。なにか、あるんでしょ?君が助かる方法とか、ほら、なにか抜け道みたいな」

「ないよ」


 やけにきっぱりと返されて、トックは口をつぐんだ。クレッセはこちらを振り返らずに、ただ見るともなしに月ののぼってきた空を眺めていた。

「そんなものないよ。僕はいずれルナセオたちに倒される。それでいいんだ」

それからクレッセは少しだけ沈黙して、言い直した。

「それが、いいんだ」


 どうしてそんなことを言えるのか、トックにはちっとも分からなかった。けれど、彼の意思の強い瞳は、トックには真似できないほどまっすぐに見えて、強烈に惹かれるものがあった。彼の知る巫子の物語は、ファナティライストで学ぶ歴史とは違っていたが、トックには彼こそ、まさに授業で習った英雄の姿に重なって見えた。


 彼のためになることをしたいと、漠然とそう思った。


「とにかく、ルナセオの足取りを追おう。地下牢まで案内してくれる?」

「えっと、地下牢は東棟と西棟にあるんだけど…あいつを連れていったのは東棟のほう。あっちはほとんど使われてないから、人目につきにくいんだ」

「わかった。じゃあ東棟に向かおう」


 トックは神官学校の制服、クレッセも神官服を着ていたので、神殿を立ち歩いていてもそこまでおかしくはない服装だったが、それでも小柄な少年ふたり組、特に年端もいかないクレッセは浮いているらしく、時折すれ違う人からはチラチラと視線を浴びた。一度は「ボクたち、迷子?」と親切そうな女性神官に声をかけられてしまった。


 トックは慌てたが、クレッセは一切動じることなくにっこり笑った。

「ぼく、神官見習いのおにいちゃんのお手伝いしてるの。えらいでしょ?」

えへへ、とはにかみながらトックの袖をつかむクレッセに、女性神官はほほえましそうに表情をゆるめた。

「あらそうなの。君はインターンの子かしら。がんばってね」

あんまり遅くなっちゃダメよと言いながら、彼女はトックとクレッセの手にひとつずつ飴玉を落としてくれた。クレッセは「ありがとうおねえちゃん!」と大きく手を振っていたが、女性神官が見えなくなったところで、すんと笑顔を引っ込めて飴玉を口に入れた。すさまじい変わり身の早さだ。


「す、すごいね」

「子供ひとりでフラフラしてるとよく声をかけられるんだ。今日はトックがいて助かったよ」


 そのあとは大した足止めもなく、ふたりで飴玉をコロコロ舐めながら東棟の地下牢にたどり着いた。牢に続く階段を降りて耳をすませてみたが、特になにも聞こえない。

「誰もいないかも」

「万が一、僕ときみが一緒にいるところを伯爵さまに見られると厄介だ。トック、きみが先に行って中を見てきてくれる?」


 クレッセの指示に従って地下牢の奥まで行ってみたが、あの巫子がいた牢も含めて、地下牢は無人だった。

「だめだ、誰もいないみたい」

「手がかりがないか見てみよう」


 改めて昨日巫子を閉じ込めた牢に入ると、かすかに血のにおいが残っていて、トックは顔をしかめた。巫子の着ていた服や、彼を痛めつけた跡はどこかへ持ち出されたようだが、汚れた便器のふたには、先生が置いたと思しき砂時計が取り残されている。


 クレッセが砂時計をひっくり返しながら、首をかしげた。

「これは?」

「わからない。先生の持ち物だと思うけど」

彼はさらさらと落ちていくうつくしい紫色の砂を眺めながら、ぽつりとつぶやいた。

「これ、魔術道具みたいだね」

「そうなの?」

「なんの魔法がかかってるかは分からないけど。あとでラファさんに解析してもらおう」


 ポケットに砂時計を突っ込むと、クレッセはあたりを見回した。「ほかには何かない?」


 トックとクレッセは、手分けして牢屋の中を調べた。とはいえ、あの巫子が手がかりを残す暇なんてなかったし、先生に引き渡してからは、そんな気力もなかったはずだ。

 クレッセはため息をついた。

「ルナセオの行き先に心当たりはある?」

「先生はふだん自分の家か、学校の研究室にいるはずだけど。でも、そこにいたら、僕たちじゃ手出しできないよ。常に先生の目があるし」

「なにか、うまくルナセオを表に出させるように、伯爵さまを誘導できればいいんだけど」


 うーん、と唸りながら、なんとなく砂時計の置いてあった便器を眺めていると、ふと視界の端にちらつくものがあって、トックは身をかがめた。


 よく見ると、便器の裏に、折り畳まれた紙製のなにかが落ちていた。この地下牢にそぐわず、汚れひとつない。触ってみると、ずいぶん手触りのいい上質な紙だ。

「どうしたの?」

「これ…手紙だ」

折り畳まれた紙は封筒のようだ。黒い封蝋にはなにかの印章が押してある。見覚えがある。確か、クレイスフィーの王城前にあった旗に描かれていたものと同じだ。シェイルディアの紋章だろう。


 クレッセは目を細めてトックの手元を見たが、諦めたように首を横に振った。

「僕には見えない。透明化の幻覚がかかってるみたいだ」

「えっ?」

「それ、中は見られる?」


 封筒の中には、一枚の羊皮紙が入っていた。一番上にコイン大のおおきさで魔法陣が描かれており、その下には綺麗なレタリングで、整然と文字が並んでいた。


『以下の者にこの手紙が渡ったら人物名を通知:

・シェーロラスディ・トリスタン・クランマルト・エファイン

・ピアキィ・ケルト・エファイン

・アルカナ・エファイン

・ロビンス・シェーロラスディ・トリスタン・エファイン


上記の者以外がこの手紙に触れたらその旨を通知


除外:ルナセオ・シエルテミナ』


「魔術文書だ。初めて見た。いや、僕には見えないけど」

「まじゅつぶんしょ?」

「手紙とか書類に魔法を付与するんだ。この手紙は、ルナセオから誰の手に渡ったかを、術者に知らせる魔法がかかってるってこと」

「そんなことして何になるの?」


 裏面を見ても何も書かれていないし、封筒の中をもう一度探っても、ほかには何も入っていない。透かしてみても、振ってみても、特に文字が浮かんでくることもなかった。


 クレッセはなにやら考えこんで、地下牢のなかをうろうろした。

「ルナセオは手紙を届けようとしていたはずだ。もしかすると、この中の誰かが見ないと、手紙の中身は読めないのかもしれない」

「でもこれ、すごく偉い人ばっかりだよ」

 世界王のシェーロラスディ陛下に、公爵さまに、世界王子殿下。そうそうたる面子だ。どれも気軽に会える人物ではないだろう。


 ひとりだけ見覚えのない名前に、トックは首をひねった。

「この、アルカナって人は誰だろう?」

「さあ…?」

クレッセは立ち止まった。

「僕、ラファさんに聞いてみる。今日はこれで解散にしよう。きみも、伯爵さまからルナセオの居場所を探ってみて」

「せ、先生から?」


 トックがあの先生に対して、簡単に探りを入れられるとは思えない。今日だって先生のところへ行くのをサボってしまったし、きっと明日は怒られてしまうだろう。主に怒るのはローアだが。

「僕にできるかなあ…」

「ルナセオを連れてきたのはきみなんでしょ?きみが彼のことを気にするのは当然だと思うけど」


 なんてことない風にそう言って、クレッセは肩をすくめた。

「明日、また会える?あの講堂に行けばいいかな」

「あ、うん…でも、先生の手伝いに行くから、遅くなっちゃうかも」

「むしろそのほうがいいよ。太陽が高いときは、9番の力が抑えづらい」


 地下牢を出ると、すえた匂いから解放されて、トックは息を吐きだした。クレッセは周囲を見回して人通りがないことを確認してから、「またね」とだけ言い残してスタスタと歩き去っていった。なんだか少し急いているような動きだった。


 クレッセの背中を見送って、トックはもう一度手紙を見下ろした。最後に書かれた「ルナセオ・シエルテミナ」の名前を指先でなぞるように触れて、口の中で小さく呼んでみる。


 ルナセオ。それが僕の、仇のなまえ。


 なぜだか、少しばかり気分が高揚するような心地がした。彼への憎しみはなんら晴れていないのに、ラファ高等祭司やクレッセのことばを思い返して、トックはあの巫子と一度、ちゃんと話がしてみたくなった。


 きっと、トックの思いをいちばん分かってくれるのは、トックのことを同じように仇だと思っている、彼を置いて他にいないはずだ。

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